猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 7 説経大福神弁財天御本地④

2012年01月19日 22時46分47秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

竹生嶋弁財天の御本地 ④

 経正主従の働きによって、危うき難を逃れた聖武帝は、都に戻って、経正主従に恩賞

を与えました。経正には、肥前、播磨を給わり、大織冠に任じました。三人の若武者は、

それぞれ一万町歩を給わり、喜びの内に帰国したのでした。そこへ、母君元正は、天和

の宮を伴って、御前にお出でになりました。久々の対面に喜んだ聖武帝は、若君を玉座

に上げましたが、いたわしいことに若君は、物も言わずにただ、さめざめと泣くばかり

です。御門は、不思議に思われて、何があったのかと尋ねますが、さらに泣くばかり

です。見かねた元正が、涙と共に、事の次第をお話になると、聖武帝は、はっと驚き、

がっくりとうなだれてしまいました。女房達が、天女の形見の品々を献げると、聖武帝

は、あたかもそこに天女がいるかのように、

「3年と言うところを、これまで居てくれて、何時露と消え果てても、定めとは思えど

も、子の有る中を、振り捨てての生き別れ。この若宮は、天女の子にてはあらざるか。」

と、嘆き口説くのでした。

 殊に哀れだったのは、天和の宮でした。天和の宮は、母が天に帰ってからというもの、

ずっと、考え込んで過ごしていました。

『私は、五体満足に生まれてきたが、未だ、八苦からは免れない。その上、父上のお嘆

きまで、私の身の上に積もり来て、思いは、真澄鏡(ますかがみ)が曇り果てたように、

娑婆世界の迷いの雲に遮られしまった。毎日憂き嘆く私は、沖の岩のように、乾く間も

無く泣き続けている。着物の袖どころか、布団までもが、絞るばかりに濡れてしまった。

もうこうなったからには、墨染めの衣を纏って、出家沙門の姿となり、天上界へ行き、

母上にお目に掛かり、なんとかして再びこの地へ連れ戻り、父上の嘆きを留めるしかない。

そうだ、美濃国、菩提寺(岐阜県不破郡垂井町:花山院菩提寺)には、カララ仙人(本来は、釈迦が最初に教えを受けたアララ仙人のこと)

という方が居ると聞く。この仙人に弟子入りして、自在の法術を受け、天上界へ昇るこ

とにしよう。』

天和の若は、そう思い定めると、

「垂乳根の 尋ねて行かば 天の原 月日の影の あらん限りは」

と一首を認めました。天和の宮は、そのまますっくと思い切り、友成一人を伴って、心

細くも只二人、密かに内裏を忍び出たのでした。

 (これより、道行き)

そのたの空を三笠山(※京都若草山)

梢を伝う猿沢の(※猿沢の池)

池の鮒、挙り(こぞり)

佐保の川を打ち渡り

山城、お出手の里玉水に(※京都府綴喜郡井手町玉水)

影映る面影は

浅ましき姿かな

男山に鳴く鹿は(※京都府石清水八幡宮)

紅葉枕に伏見とや

寝ては夢、醒めては現、面影の

忘れ方なき母上の

後を慕うて、大津の浦(※滋賀県大津市)

山田、矢橋の渡し場(※近江八景:矢橋帰帆)

焦がれて物を思う身の

あれに見えしは志賀の浦(滋賀県大津市)

浪寄せ掛くる唐崎の(※近江八景:唐崎夜雨)

これも名に負う名所かな

粟津が浦を行き見れば(※近江八景:粟津晴嵐)

石山寺が鐘もかすかに耳に触れ(※近江八景:石山秋月)

(※以下の記述は、薩摩派の説経祭文小栗判官一代記車引きの段の文言と酷似しており、参考にした可能性がある。)

なおも思いは瀬田の唐橋を(※近江八景:瀬田夕照)

とんとろ、とんとろと打ち渡り

山田下田を見渡せば

さもいつくしき早乙女の

早苗おっ取り

田歌をこそは歌いけれ

田を植え早乙女

植えい植えい早乙女

五月の農を早むるは

勧農の鳥、不如帰

この鳥だにも、さ渡れば

五月の農は盛んなり

小草、若草、苗代を

打ち眺めつつ行く程に

御代は曇らぬ鏡山(※滋賀県蒲生郡龍王町)

馬淵畷(なわて)を遙々と(※滋賀県近江八幡市)

摺り針山の峰の松(滋賀県彦根市)

分け行くこそ、もの憂けれ

愛知川渡れば千鳥立つ(※地理的に順序が不都合)

寝ぬ夜の夢は、やがて醒ヶ井(滋賀県米原市)

番場と吹けば袖寒や(滋賀県米原市)

寝物語を早や過ぎて(美濃と近江国境)

不破の関屋の板庇(いたびさし)(※岐阜県関ヶ原)

月洩れとてや、まばらなる

垂井の宿に差し掛かり

行くは程なく今は早

音のみ聞くべし

菩提山に着き給う

さて、菩提山まで辿り着いたところで、若君は友成にこう言いました。

「お前は、急いで都へ戻れ。御父御門に、この次第を報告せよ。そして、この太刀と髪

を、形見としてお渡しするのだ。」

これまで、お供をしてきた友成でしたが、主の仰せに是非もなく、泣く泣く、さらば、

さらばと暇乞いをしながら、都へと帰って行ったのでした。

この人々の御別れ、哀れとも中々、申すばかりはなかりけり

つづく

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