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猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 18 説経角田川 ①

2013年03月04日 10時49分44秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

「角田川」は、能の題材でもあり、古説経時代の五説経にも数えられる程、有名な話し

である。歌舞伎にも大きな影響を与えた題材であり、東京都墨田区の木母寺では現在も

3月15日から一ヶ月の間、主人公「梅若」の供養や芸道成就の祈願が行われている。

従って、『忘れられた物語』とは言えないかもしれない。しかし、残念なことに、説経

の古い正本が残っていない。歌舞伎では、「隅田川物」が高名だが、説経としての「角

田川」は忘れ去られているようである。

説経正本集第3(36)角川書店

元禄頃と推定 太夫不明 鱗形屋孫兵衛

すみだ川 ①

 本朝七十三代堀川天皇の御世(在位1087年~1107年)の頃のことです。都の

北白川(京都市左京区東部)に吉田の少将是定(これさだ)という位の高い方がいらし

ゃいました。この是定という方は、自らは五戒を守り、人には仁義をもって接し、詩歌、

管弦、七芸六能(※六芸四能カ:六芸=礼楽射書御(馬)数:四能=琴棋書画)に秀で、

都にその人ありと知られておりました。是定には、二人の子供がありました。嫡男は、

十一歳になる梅若丸。二男は九つになる松若殿と申します。お二人とも、そのお姿は、

花のように美しく、お話になるその幼気なお言葉は、まるで露を散らすように可憐でしたので、

父母から受ける御寵愛も限りがありませんでした。

 ある時、是定は、北の方を近付けて、こう言いました。

「妻よ。聞きなさい。つくづくと思うことは、人の一生は、風前の雲と同じ。命は石の

火の様にあっという間のことだ。二人の子供の内、一人を出家にして、我等が死した後

の菩提を弔わせようではないか。どうじゃ。」

これを聞いた御台は、こう答えました。

「それは、もっともな仰せではありますが、梅若は惣領ですから、吉田の家を継がせな

くてはなりません。松若は、まだ幼少ではありますが、松若を出家させて、我々の菩提

を祈ってもらえば、こんな嬉しいことはありません。」

夫婦揃って菩提心を起こした、その心の内は殊勝なことです。夫婦は松若に、

「お前は、まだ幼いけれども、学問をさせるために、山寺へ登らせることにした。栴檀(せんだん)

は、双葉より芳しい。(※諺:大成する人は幼少より優れる)学問を究めて、吉田の家

の名を天下に示せよ。」

と言うと、山田の三郎安親(やすちか)を供として、東谷の妙法院(京都市東山区)

に入り、日行阿闍梨(にちぎょうあじゃり:不明)の弟子となったのでした。日夜、学

問に精を出したので、その年の暮れ頃には、もう内外すべてのことに精通してしまいました。

人々は、弘法大師の化身だと、羨ましがらない者は無かったということです。しかし、

諸学を修めたことで、松若には高慢な心が芽生えていました。仏神の天罰でしょうか。

ある日、どこからとも無く、山伏が一人現れると、

「松若殿、昼夜の学問に、さぞやお疲れのことではありませんか。私の住み家へいらっ

しゃり、どうぞお疲れの心を癒してください。」

と、言うなり、松若殿を掴み上げて、あっという間に、虚空へと消えたのでした。人々

は驚いて、あちらこちらと探し回りましたが、なにしろ天狗の仕業でしたから、その行

方が分かるはずもありません。お供の安親は、ひとまず北白川に帰り、事の次第を報告

することになりました。

 この事態を聞いた吉田の少将夫妻は、わっと叫んで泣くしかありません。是定は、

「何事も業の定めとは言うものの、こんな事になると知っていたのなら、寺などに入れ

なかったものを。愛おしい松若よ。なんとも恨めしい世の中であるなあ。」

と、口説きました。このことがあってから、是定殿は、俄に体調を崩されて、食事も満

足に取れない状態となってしまいました。御台や梅若丸が、看病を尽くしますが、病は

さらに重くなる一方でした。最期を悟った是定は、舎弟の松井源五定景(さだかげ)や

家来の粟津六郎利兼(としかね)、山田三郎安親を、枕元に呼び寄せると、

「如何に皆の者。私の娑婆での縁も、最早、尽き果てて、これより冥途に向かうであろう。

梅若は、未だ幼少であるから、十五の歳になったなら、参内させて、吉田の家を継がせ

てくれ。それまでの間のことは、定景に頼み置く。利兼、安親は、定景と心を合わせて、

若を盛り立ててくれよ。

 梅若よ。父が死んだ後も、母に孝行を尽くし、立派に吉田の家を継ぐのだぞ。それでは、

さらばじゃ、北の方。名残惜しい梅若よ。」

と言い終えると、念仏を唱えながら亡くなったのでした。御台所も梅若も、おろおろと

泣き崩れる外はありません。御台様の嘆き事も哀れです。

「ああ、なんと儚いことでしょうか。このお殿様と、美濃の国の野上(岐阜県不破郡関ヶ原町)

で出合ってからというもの、片時も離れたことは無かったのに、冥途の旅といって、さ

っさと行ってしまうなんて、あなたは寂しくは無いのですか。私も一緒に、連れて行っ

て下さい。」

と、遺体に縋り付いて泣くのでした。しかし、どうしようも無いことなので、涙ながら

に、野辺送りをし、無常の煙としたのでした。松若は行方知れずとなり、今度は夫を失

った御台様の嘆き悲しみは、一方ならぬものでした。御台様と梅若殿の心の内は、哀れ

ともなかなか、申すばかりもありません。

つづく

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忘れ去られた物語たち 17 説経信田小太郎 ⑥ 終

2013年02月21日 17時22分49秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

しだの小太郎 ⑥ 終

 さて、栄華に栄えていた小山太郎は、七月七日の節句のお祝いに、数々の宝物を並べ

立てました。金銀綾羅(りょうら)を取り出している内に、信田玉造の地券の巻物が見

あたらないことに気が付きました。あちこちと探し回りましたが、見つかりません。

小山は、妻に、

「これは、他人の知ることでは無い。お前が盗み取り、誰かに渡したのであろう。お前

の様な、後ろ暗い女を頼みとするわけにはいかん。」

と言うと、労しいことに、妻を追い出してしまったのでした。

 可哀相なことに、信田の姫君は、

「今となっては、頼む当ても無い。信田殿が沈んだ霞ヶ浦に、私も身を投げよう。」

と思い。そのまま、湖畔へと下りました。すると、そこに、千原の後家が、追い掛けてきて、

「そんなに、お嘆きにならないで下さい。信田殿のお命は、我が夫が身代わりになったのですよ。」

と、縋り付くと、信田殿からの数々の文を見せるのでした。姫君は、これを見て、

「それでは、信田殿は、生きているのですね。一縷の望みを掛けて、訴訟のために都に

上がられているのですか。それでは、私も都へ行きましょう。」

と言うと、とある寺で、御髪を下ろすと、旅の装束を調えて、千原の後家と一緒に京都

を目指す旅にでたのでした。

〈道行き〉

三十五日と申するには

花の都に着き給い

先ず清水に参りつつ

信田殿の行く末

知らせてたばせ観世音と

深く祈誓を懸けまくも

熊野の方を心掛け

天王寺、住吉、

根來(根來寺:和歌山県北部岩出市)、粉川(粉河寺:和歌山県紀ノ川市粉河)を打ち過ぎて

三の御山(本宮・速玉・那智)に参りつつ

尋ね給えど、行き方無し

いざや、乳母、四国、九州を尋ねんと

道者船に便船乞うて、打ち乗り

淡路島をも打ち過ぎて

筑紫下りの途次(みちすがら)

長門(山口県西部)のこうや(?)

赤間が関(下関)、芦屋の山(福岡県遠賀郡芦屋町)か博多の津

志賀の崎(志賀島)まで尋ねれど

その行き方はなかりけり

名護屋(佐賀県唐津市鎮西町名護屋)を出で

瀬戸(平戸瀬戸:長崎県平戸市)を行く

松浦(長崎県松浦市)、弥勒寺(長崎県大村市弥勒寺町)

しつの里(不明:じつ=時津(とぎつ:長崎県西彼杵郡)カ?)

伊王が嶋(旧伊王島町)も近くなりて

いきの(不明:ゆきの=雪浦(長崎県西海市大瀬戸町)カ?)も通り、通にぞ

消えゆるばかりの、我が心

日向の国にとさの島(?)

豊後、豊前や肥後の国

筑前、壱岐の里に至るまで

信田の小太郎、何某と

問えど、答うる者も無し

いざや、乳母、中国を尋ねんと

周防の国に差し掛かり

播磨の国、彼方此方と尋ねつつ

後は、堺の松に出で(?)

そうだの森(?)、烏崎(兵庫県神戸市垂水区東舞子町)

人、松ヶ岡(兵庫県明石市松が丘)を尋ぬれど

その行き方は、無かりけり

須磨の浦(兵庫県神戸市須磨区)、蓮の池(兵庫県神戸市長田区蓮池町)と聞くからに

同じ蓮(はちす)に乗らばやな

兵庫に着けば、湊川

雀の松原(兵庫県神戸市東灘区)、打出の宿(兵庫県芦屋市打出小槌町)

こやの(兵庫県伊丹市昆陽)、伊丹、手嶋の里(?)

太田の町(大阪府茨木市太田)や芥川(大阪府高槻市付近の淀川支流)

神内(大阪府高槻市神内)、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)

きつね川(淀川支流)、久我畷(こがなわて:大山崎~京都府伏見区久我間の街道)

浮き世は、車の輪の如く

巡り巡りて、またここに

花の都に着き給う

いざや、乳母、東路を尋ねんと

我をば誰か松坂や(松坂関峠:京都府山梨区)

逢坂の関の清水に影見えて(滋賀県大津市:旧関清水町)

大津、打出の浜よりも(滋賀県大津市打出浜)

志賀、唐崎を見渡せば(滋賀県大津市)

堅田の浦に引き網の(滋賀県大津市)

目毎に脆き涙かな

尋ぬる人の面影を

映してや見ん鏡山(滋賀県蒲生郡竜王町)

愛知川渡れば

荒れてなかなか優しきは

不破の関屋(岐阜県不破郡関ヶ原町)の、板漏る月見、

垂井の宿(岐阜県不破郡垂井町)

田を植えし、早苗の黒田こそ(岐阜県揖斐郡揖斐川町黒田)

秋は鳴海と打ち眺め(愛知県名古屋市緑区鳴海町)

三河の国の八つ橋や(愛知県知立市八橋町)

蜘蛛手なるやと思うらん

富士を何処と遠江

恋を駿河の身の行方

月も雲間を伊豆の国

信田には何時か、奥州まで

三年三月と申すには

高野郷に着き給い(福島県東白川郡矢祭町付近)

旅の装束なされけり(※とかれけりカ?)

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 さてその頃、信田殿は、七月盂蘭盆会の営みとして、父母孝養(ぶもきょうよう)の

為の施行をしておりました。そして、やってきた二人の比丘尼を招き入れたのでした。

持仏堂に招かれた姫君は、御回向の鐘を鳴らして、声高く御回向をなされました。

「父、相馬殿。母、御台。信田殿の成仏なり給え。未だ、この世にあるならば、この御

経の功力によって、今一度、引き合わせてください。」

と祈念すると、泣き崩れるのでした。信田殿は、この回向の声を聞くと、飛び上がって

驚きました。間の障子をさっと開け走り出ると、

「我こそ、信田ですぞ。」

と、姉に抱きついたのでした。なんという巡り合わせでしょうか。二人は、涙々の対面

を果たしたのでした。信田殿は、

「このような目出度い時に、何を嘆き悲しむことがあろうか。さあ、いよいよ本望を

遂げる時です。」

と言うと、奥州五十四郡の中から選りすぐって、十万余騎の兵を集めました。

 小山太郎は、この事態を聞き及ぶと、これは敵わないと思い、都へ向けて逃げ出しました。

その頃、奥州の国司は、都から奥州へ下向中でしたが、ばったりと小山と出会い。国司

は、易々と小山を絡め取ったのでした。やがて、国司は、小山を連行して、信田殿へと

渡しました。喜んだ信田殿は、武蔵の国嬬恋が野辺(群馬県嬬恋村)にて、小山の首を

刎ね、念願を果たしました。それから、信田殿は、国司と共に参内し、坂東八カ国を給

わったのでした。

 その後、信田殿を売り飛ばした辻の藤太を捕らえて斬首し、母が亡くなった時に世話

になった番場(滋賀県米原市)の宿の亭主には、一所の土地を与えました。本国へ戻っ

た信田殿は、浮嶋の三人の孫に、三千町の土地を与え、千原の後家を総政所としたのでした。

こうして、信田殿は、末繁盛と栄えたのでした。この君の御果報。目出度しともなかな

か、申すばかりはなかりけり。

おわり

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忘れ去られた物語たち 17 説経信田小太郎 ⑤

2013年02月21日 13時32分41秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

しだの小太郎 ⑤

 さて、辛くも命が助かった信田殿は、再び都へと向かいました。日数も積もって、や

っと大津に辿り着きましたが、多くの宿が有る中で、人商いをする「辻の藤太」の宿に

投宿する悲しさは、運も尽き果てたとしか、言いようがありません。藤太は、信田殿を

見て、

『こりゃあ、良い商い物が現れたわい。』と思い、声を掛けました。

「これは、これは、何処へいらっしゃるのですか。」

と、聞けば、信田殿は、

「都へ。」

と、答えました。藤太は、

「お見受けするに、まだ、お若くていらっしゃいますが、お一人で大変でしょう。送り

届けてあげましょう。」

と、言うなり、信田殿を馬に乗せ、都へと運びました。都に着くと、藤太は、博労座(ばくろうざ)

へ行き、王三郎を呼び出して、信田殿を料足と取り替えました。信田殿は、それと知ら

ぬ内に、人買いに売り飛ばされてしまったのでした。それから、王三郎は、信田殿を鳥

羽の舟渡(三重県鳥羽市)へと売り飛ばしました。ここでも、更に売り飛ばされ、やがて、

加賀の国は宮腰(石川県金沢市金石町)へと辿り着いたのは、春の頃のことでした。

賎の仕事を教えられ、田んぼでの農作業にこき使われましたが、労しい事に、信田殿は、

鍬の使い方もろくろく分かりません。かの三皇(さんこう:中国伝説)の昔に、神農皇

帝は、自ら鋤(すき)を持って、その一畦の田を耕し、五穀の種を蒔いたので、勧農の

成果も著しく、尺の穂丈も長くなったと伝えられています。賢く徳の高い君主の国が、

栄えることの例えですが、かの信田殿の農業は、涙の種を蒔くようなもので、野でも山

でも、林でも、只ひれ伏して、泣くより外のことはありませんでした。これを見た人々は、

「役立たず」とけなして、隣国に買い取る人すらなくなりました。とうとう人々は、信

田殿を持て余して、ついには追い出してしまいました。もう、哀れというより、愚かと

いう外はありません。

〈放浪の道行き〉

心を他所に白雲の

打ち出でぬれば天の原

身は中空(なかぞら)なる神の

とどろ、とどろと歩めども

泊まり定めぬ、浮かれ鳥

鳴く音に、人も驚きて

開けぬる門を、杉の下

身は、飢え人となるままに

袂に物を乞食草

草場に掛かる命をば

露の宿にや置きぬらん

定まる方の無きままに

足を限りに行く程に

能登の国に聞こえたる

小屋湊に着きにける(石川県輪島市:輪島港の旧名)

 この頃、小屋の湊では、夜盗が出没していたので、家々は、門をぴったりと閉めて

用心をしていました。これを知らない信田殿は、門外に佇んで、

「世に無し者(日陰者)に、慈悲をましませ。」

と、言って歩きました。そこへ、老人が一人通りかかり、

「あら、恐ろしや。盗賊が、下見に来たわ。討ち殺せ。」

と騒ぎ立てました。人々はこれを聞いて、艪櫂(ろかい)、舵をてんでに持って、集ま

って来ました。人々は、ひと杖づつ叩きましたが、老人は、

「そんなことでは、生ぬるい。討ち殺せ。」

と言うので、人々は、更に散々に打ち叩きました。そうして、騒いで居るところへ、浦

の刀禰(とね)の女房がやって来ました。この女房は、情け深い人で、信田殿を見と、

「この子を、私に下さいな。酒をあげるから、助けて上げなさい。」

と、言いました。酒と聞いて人々は、叩くのをやめて退きました。女房は、信田殿を、

家に連れて行くと、様々と労りましたが、その頃、奥州から来ていた塩商人が、信田殿

を欲しがったので、塩と取り替えることになったのでした。

 さて、信田殿は、塩商人に買われて、奥州へと下りました。しかし、奥州で信田殿は、

塩木を切って、塩釜の火を焚く仕事に、毎日こき使われるのでした。

 ある日、この村の長である「塩路の庄司」は、月を愛でるために浜へと出ていましたが、

信田殿を見ると、

「おや、目の内の気高さは、きっと由緒のある人であるに違いない。私には、この年ま

で、子供が出来なかったので、我が子に迎えることにしよう。」

と、信田殿を養子に迎えると、塩路の小太郎と名付けました。信田殿は、人々から慕わ

れて、ようやく人並みの暮らしができるようになったのでした。

 それはさて置いて、その頃、奥州へ新しい国司が下りました。三年の内に、国の政

を確固とするために、国内の長官を全員招集しました。右は、勝田の大夫。左は、柴田

の庄司。総人数は、三百余人。いずれも選りすぐりの武士が出仕したので、その晴れが

ましさは限りがありません。その中に、塩路の庄司は、老体を理由に、養子の嫡孫であ

る信田殿を出仕させたのでした。しかし、役人達は、信田殿を見て、

「お前は誰だ。ここへは入れぬぞ。」

と言うなり、座敷から引きずり出しました。国司は、これを見て、

「どうして、塩路は来ないのか。上を軽んじるならば、領地を召し上げるぞ。」

と、言いました。信田殿は、

『これは、なんという悔しいことか。いやいや、ここで、名乗らなければ、養父の恥となる。』

と思い。ここで、立ち去っては悔いを残すと、立ち上がると、かの巻物を取り出して、

国司の前に出したのでした。国司がこれを見と、こう書いてありました。

「何々、葛原の親王(かずらわらのしんのう:桓武平氏の祖)の後胤、平将門の孫、

相馬の実子、何某」

 これを見た国司は、態度を一変させて、

「これに増したる、家系の証明は無い。」

と国司が認めると、今度は、国司の対座へと、招かれました。なんとも目出度い次第です。国司は、

「なんと、労しいことか。奥州の国司である我が、都へ上って、正しく領地を安堵させ

てあげましょう。」

と言い、座敷を立ったので、国中の侍達は、黙ったまま舌を巻いて、すごすごと、退

出したのでした。

 信田殿の御威勢は、これ以上、申すこともない程の千秋万歳の喜びです。

つづく


忘れ去られた物語たち 17 説経信田小太郎 ④

2013年02月20日 16時28分07秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

しだの小太郎 ④

 浮嶋大夫夫婦が、刺し違えたのを見た信田殿は、労しいことに、その場で自害をしようとしました。

しかし、小山の郎等が、押し寄せて、折り重なるようにして信田殿を縛り上げると、小

山太郎の前に引き出しました。小山は信田殿を見て、

「人に果報がある内は、何事も心に任せよう。白昼に首を刎ねるのは、天下に畏れがある。

日が暮れて、夜半になったなら、霞ヶ浦に沈めよ。」

と、相馬の郎等であった千原(ちばら)大夫に命じたのでした。千原は、信田殿を預かって、

大変大事な囚人と、信田殿を更に強く締め上げました。更けゆく夜半を待つ信田殿は、

羊の歩みとは、まさにこういうものかと、思い知るのでした。

 さて、ここに哀れを留めたのは、小山太郎に嫁いだ信田殿の姉でした。

「情けないことになってしまいました。きっと、信田殿は、私も夫と心ひとつに、この

ような仇をなすと思っていることでしょう。せめて、最期の様子を一目でも拝見いたし

ましょう。」

と、人々が寝静まった夜半に、千原の館に忍び入りました。信田殿を見た姉君は、

「これは、なんという恨めしい仕業でしょうか。どうして、私には縄を付けずに、信田

殿だけが、縄を受けるのでしょうか。どうして、答えてくれないのですか、信田殿。

私を恨むのは当然なことですが、私はこんなことになるとは、夢にも知らなかったのです。

どうか、神や仏に聞いて下さい。私には、後ろめたいことはひとつもありません。御願

いですから、何か言ってください。信田殿。」

と、縋り付いて泣きました。信田殿も涙ながらに、

「姉上を恨んだりはしておしません。涙に暮れて、言葉も無いだけです。残念ながら、

私には果報も無く、今日を限りに殺されてしまいます。このような所まで来たことが、

小山に知れたなら、姉上様まで、重ねて辛い目に遭いますから、早くお帰り下さい。

姉弟のよしみに、どうか後世を弔ってやって下さい。」

と、言いました。姉は、これを聞いて、

「私は、例え共に沈められても、何の恨みもありません。こんなことになったのも、す

べて、只これのせいです。」

と、言うと、巻物を取り出したのでした。信田殿は、これを見て、

「これは、家の重宝ですね。今更、こんな物を持っても仕方ありません。持ってお帰り

下さい。」

と、受け取りません。姉君は、更に、

「いやいや、そうではありません。お前が死んだとしも、倶生神(くしょうじん:閻魔の庁の役人)

の前に献げれば、物事の是非はこちらにあるのですから、一方の罪科を逃れることがで

きるでしょう。どうか、平にお受け取り下さい。」

と、巻物を押しつけると、さらばさらばと涙ながらの別れをするのでした。誠に哀れな

次第です。

 その夜も夜半となり、小山から、信田を沈めよとの使いが来ました。しかし、元々、

相馬の家臣であった千原は苦しんでいました。仕方なく信田殿を小船に乗せましたが、

ここに沈めようか、あそこに沈めようかと、行ったり来たりするだけです。とうとう、

今は、沈めかねて、涙ながらに立ち往生してしまいました。

「ああ、さて。この世の中に、するべきでないのは宮仕え。そうでなければ、こんな憂

き目には、遭わなかったものを。その昔、相馬に仕えていた時には、この君を、月とも

日とも思ってお仕えしたのに。移り変わるのが、世の中とは言え、我が手に掛けて殺す

のなら、草場の陰の相馬殿が、どんなにか私を恨むことだどうか。」

と、千原は、迷った挙げ句、

『ええ、明日は、どうにでも、なるならなれ。一旦は、この君を助けよう。』

と、心に決めると、

「只今が、御最期ですぞ。」

と、信田殿に言いました。信田殿が、大きな声で、念仏を唱え始めると、千原も共に

念仏して、腰の刀を抜くや、縄をずんずんに切り捨てて、沈め石だけを、だんぶとばかりに

沈めたのでした。さらに、

「南無三宝、今が、見納め。」

と、声高に叫んで、沈めた様に見せかけたのでした。

 翌朝、小山太郎は千原を呼んで聞きました。

「信田は沈めたか。」

千原は、「はい」と答えましたが、小山はさらに問いただし、

「どうして、検死役を付けなかったのか。お前は、相馬代々の郎等だから、心変わり

をして、逃がしたのではないか。そうだろう。正直に申せ。只聞いただけでは、申さぬ

な。おい、拷問いたせ。」

と、千原を縛り上げると取って伏せて、様々に拷問をしましたが、千原は、何もしゃべ

りませんでした。剛煮やした小山は、古木に千原を吊り下げて責め立てました。引き上

げては、息も絶え、引き降ろしては、少し蘇るを繰り返し、

「ええ、白状せい。」

と迫りましたが、千原は、

「いやいや、この千原はもう入り日。信田殿は、出ずる日、蕾の花。我が命にお代わりあれ。」

と言うと、舌をふっつり喰いちぎって、死んだのでした。小山は、更に腹を立てて、

「妻子を連れてこい。」

と怒鳴ると、千原の女房と子供を引き出させました。小山が問い質すと、千原の女房は、

「なんであれ、知らない事は、申し上げることはできません。有りの儘に言うのなら、

昨夜、夫は、信田殿を小船に乗せて、遙かの沖に漕ぎ出しました。あまりに可哀相なので、

私も、湖畔に出て、事の様子を窺っておりましたが、やがて、信田殿のお声で念仏が聞

こえ、その後、ざんぶと水音がしました。それからの事は何も分かりません。これを、

偽りであるというのなら、浦人達にも聞いてご覧なさい。」

と、毅然と答えましたが、夫の死骸に縋り付いて、

「このように死ぬ事が分かっていたなら、信田殿を逃がすはずはありません。」

と、声を上げて、泣き崩れました。それから、小山は、浦人を集めて、尋問しましたが、

千田の女房が言った事以外の話しはきけませんでした。小山は、

「さては、千原は、信田を沈めていたのに、誤って拷問してしまったのか。」

と、千原の妻子を解放しました。千原の女房は、若の手を引いて館へと帰りましたが、

その道すがら、

「あっぱれな我が夫よ。こんな立派な死に方をする者はそうは居ないでしょう。しかし、

因果の車は輪の如くに巡り巡って、若も千原の様に拷問されることになるのでしょうか。」

と、嘆くのでした。この人々の心中は、前代未聞のことであると、感じ無い者は、ありませんでした。

つづく

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忘れ去られた物語たち 17 説経信田小太郎 ③

2013年02月20日 12時44分27秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

しだの小太郎 ③

 小山太郎は、信田殿が浮嶋大夫の城に身を寄せ、戦の準備を始めたことを知ると、

「まだ、力を付けない内に、先手を取って討ち滅ぼせ。」

と、横須賀を大将にして、出陣しました。五百余騎で、攻めましたが、敵わず、大勢の

死者を出して敗走したのでした。二番手は、小山の舎弟、三郎行光が、三千余騎の兵力

で城を取り囲みましたが、それでも手に負えませんでした。これを見た小山は、驚いて、

総力を挙げて、小山自身が出陣することになりましたので、常陸・下総の両国が、から

っぽになりました。さすがに浮嶋の城も、大軍に攻められて、一の木戸、二の木戸が

破られ、浮嶋大夫の軍勢は、詰めの城に閉じこもることになりました。浮嶋大夫は、大

手の櫓に上ると、大音声に言いました。

「如何に、子ども達よ。世にある人を主人とすれば、命も惜しくなるが、今日を生き延

びて、出世をしようなどと思うなよ。さあ、子供ども、討ち死にせよ。我も心静かに

最期を迎えるぞ。子供達は何処へ行った。」

それから浮嶋の大夫は、大弓を手にして、矢櫃(やびつ)三つを肩に掛けると、

「やあ、女房よ。こっちへ来て、狭間(さま)を開けてくれ。」

と、言いました。女房は、生年56歳。残り少ない髪の毛を、唐輪(からわ:髪型)に

結って、大手の櫓に駆け上がると、

「どうしたのじゃ、子ども達は。遅いぞ、何をしておる。」

と、出陣を急かしました。

 さて、浮嶋大夫は、その日が最期と覚悟して、堂々たる装束でした。龍を縫った直垂を着て、

鬼形を描いた籠手をはめています。熊の皮で拵えた揉みの足袋を履き、白銀で縁金した

白檀磨きの脛当てを、開口高(あぐちだか:上に引き上げて)しっかりとはきました。

獅子に牡丹の脇楯(わいだて)に、緋縅(ひおどし)の鎧を付けて、肩上(わたがみ)

を懸け、草摺りを長く垂らしました。上帯をしっかりと締めるその姿は、今こそ、巳の

時に輝くばかりです。

 

 さらに、右の脇には、九寸五分の鎧通し(短刀)を差し、左の脇には、一尺八寸の打

ち刀に、三尺八寸の赤銅造りの太刀を差し、背中には、切斑(きりう)の矢を四十二本、

筈高に背負いました。五枚兜の緒をきりっと締めて、白綾の母衣(ほろ)を被ると、塗

籠弓(ぬりごめゆみ)の四人張りに攻めの関弦(せきづる)を懸けさせた、剛の者しか

扱えない弓の真ん中を横持ちにするのでした。

 そして、七寸八分(ななきはちぶ:馬の丈四尺を基準として、それよりも七寸八分高

い)の六歳馬に金覆輪(きんぶくりん)の鞍を着けて、ゆらりと跨がるのでした。

 やがて、兄弟4人がそれぞれの馬に乗って、場外へと出陣しました。敵も味方も、あっ

ぱれな武者ぶりであると、誉めない者はありません。浮嶋大夫は、櫓からこれを見て、

「おお、あれを見なさい、女房よ。何れも劣らぬ器量の子ども達よ。これほど立派な

子ども達を、世に送り出しておきながら、領主にしてやることもできずに、殺してしま

う口惜しさよ。早、死ね子供どもとは、言いながら、今日を限りのことであるから、今

一度、よっく顔を見せよ。」

と、さすがに剛の浮嶋も、涙をはらはらと流すのでした。女房もこれを見て、涙が溢れ

て仕方ありませんが、悲しみを振り払ってこう言うのでした。

「老いぼれたか、大夫殿。泣いている場合じゃ無いぞえ。ええ、如何に、子ども達よ。

戦は、心が剛であるばかりで、兵法を知らなければ勤まらぬぞ。味方が、無勢である時

の攻め方は、「魚鱗」「鶴翼」の陣形ぞ。魚鱗というのは、魚の鱗の形で突っ込み、鶴翼

とは、鶴の羽の様に、敵を包囲するのじゃ。

 駒の手綱さばきがへたくそでは、向かう敵を切られぬぞ。向かう敵を切るときは、蹴

上げの鞭をちょうど打て。表返しの手綱をすくって、拝み切りに切り捨てよ。左側の敵

には、反対の手綱をさっと引いて、葱行(そうこう)の鞭を打って、切るのじゃ。父も

母も、これにて見ておるぞ。桟敷の前の晴れ戦に不覚を掻くな。子供ども。」

浮嶋の女房は、子ども達に檄を飛ばし、勇気づけるために、狭間の板を打ち叩いて、か

んらかんらと笑うのでした。さあ、血気盛んの子ども達は、父にも母にも、気合いを入

れられ、叫び声を上げて駆け出しました。敵勢に駆け込んでは、さっと引き、また、駆

け込んでは、さっと引き、五、六度の競り合いで、河原の石より多いのは、敵の死人でした。

女房は、これを見と、我慢ができなくなって、

「ええ、子ども達が面白いように戦うわい。よし、後ろ詰めをしてやろう。」

と、被っていた布を、ぱっと脱ぎ捨てると、その下は、なんと武者姿です。紅の袴に、

膝鎧(ひざよろい)をつけ、脛当てもしています。大夫が使っている黄楊(つげ)の棒

を、持ち出すと、大手の門を押し開いて、馬に打ち乗り駆け出しました。

「只今、ここに、進み出たのは、津の守頼光(らいこう:源頼光(みなもとよりみつ))

に五代なる渡辺党(渡辺綱)の大将軍、弥陀の源次が娘、弥陀夜叉女(みだやしゃにょ)であるぞ。

二つと無きこの命を、信田殿に奉る。我と思わん者は、いざ、尋常に勝負せよ。如何に、

如何に。」

と呼ばわったのでした。浮嶋大夫は、その有様を櫓の上からつづくと見て、

「おお、子供が剛なるのも道理である。これほどの者達が、親子兄弟、夫婦となって、

ここで戦うのも、不思議な巡り合わせ。如何に、信田殿。こちらへお出でになり、女の

戦をご覧下さい。

 平の将門公の御目には、瞳が二つあり、八カ国の主となられました。あなた様にも

左の目に瞳が二つありますから、必ず坂東八カ国の主となられます。我等も、そのお姿

を目にしたいとは思いますが、武士としての恥を掻かぬ為、皆、討ち死にの覚悟。

あなた様は、小山に生け捕られても、命長らえて喜びの時をお待ちなされて下さい。

必ず、二十五歳までには、ご出世なされることでしょう。さて、最早これまで、さらば。」

と、言い残すと、櫓からゆらりと、飛んで降りました。

 浮嶋太夫は、大荒目(おおあらめ)の袖を引き抜いて、からりと捨てると、胴の鎧だけとなり、

箙刀(えびらかたな)、首切り刀を三腰まで差しました。更に、その日の最後の武器と

して、女房の長刀を手にすると、四尺五寸の柄を、更に二尺伸ばしました。数矢(かず

や:足軽の矢)を取って、ばっさりと切り捨てると、

「むう、なかなかの切れ味。」

と、打ち肯いて、

「南無三宝、南無三宝。どれ程の者達がこの長刀に当たって、死ぬことか。さあ、最期に

目に物見せてくれる。のう、女房よ。」

と言うと、夫婦諸共、城外へと駆け出ました。余りの勢いに、向かって来る者もありません。

さて、棒を使う兵法には、芝薙ぎ、石突き、払い打ち。長刀の兵法には、浪の腰切り、

稲妻きり、車返し。やあとばかりに、女房が突進して行けば、大夫が後から切り回り、

敵陣に向かって切って入りました。これを、物に例えるならば、天竺州(天竺将棋)の

戦いで、歩兵(ぶひょう)が先を駆け回れば、王行(おうぎょう)角行が、駆け出で、

金銀桂馬が駆け回れば、太子が襲いかかるようなものですが、弥陀夜叉女と浮嶋大夫

の戦いぶりは、将棋盤の戦いには比べものにもならない程の凄まじさでした。しかし、

寄せ手の軍勢は数多く、やがて、五人の子ども達も散り散りとなり、とうとう一人も残

らず討たれ、大夫の長刀は三つに折れ砕けてしまいました。それでも浮嶋大夫は、大手

を広げて、打ち組むと、敵の首を捻じ切り、引っこ抜き、人礫に投げ飛ばし、また幹竹

割(からたけわり)に引き裂いて、死力を尽くしましたので、向かって来る敵もいませ

んでした。やがて、浮嶋大夫は、

「こんなに沢山の人を殺したのでは、未来の業となる。さあ、これで最期。いざ、姥御前よ。」

と、互いに刀を抜き持つと、刺し違えて往生したのでした。この二人を惜しまぬ者は

ありません。

つづく

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忘れ去られた物語たち 17 説経信田小太郎 ②

2013年02月08日 11時34分46秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

しだの小太郎 ②

 さて、小山太郎行重は、信田殿が、都へ直訴に及んだことを聞き知ると、郎等共を集めて、

「信田を都へ上らせては、まずい。追っかけて、討ち取れ。」

と、命じました。郎等の横須賀は、

「殿の御諚ではございますが、理由も無く追討したとあっては、上への聞こえも悪くなります。

考えまするに、調伏(ちょうぶく)なされるのが良い方法と思われまする。」

と、進言しました。小山は、成る程と思い、早速、鹿島神社に使いと立てると、神主を

呼び出しました。小山は、やってきた神主を様々にもてなすと、神主の袂を掴んで、

「この度、ご足労を願ったのは、外でもない。信田を調伏してもらいたい。」

と、頼んだのでした。これを聞いた神主は、驚いて、

「いえいえ、天地長久、御願円満、息災延命と祈ることの外に、そのような秘術などありません。

調伏など、神仏の照覧も恐ろしい。」

と、逃げ出しました。小山は、ずんと立ち上がって、立ちふさがり、

「やあ、一期の浮沈の一大事を聞いておいて、どうでも、厭だとは言わせぬぞ。」

と、腰の刀に手を掛けました。神主は、万策尽き果て、仕方なく調伏を引き受けざるを

得ませんでした。

突然のことでしたから、吉日を選んでいる間も無く、壇を設えると、飾り付けをし、

何やら恐ろしげな供物を並べました。護摩焚きの乳木(にゅうぼく)、山空木(やまうつぎ)。

濯水(しゃすい)の水にイモリの血。それに羊の肉を盛りました。この供物は、毎日

違う物が供えられました。初めの七日は、地蔵菩薩の南向きに、次の七日は、阿弥陀如

来の北向きに、祈りました。次の七日は、内縛(ないばく)、外縛(げばく)の印を結んで、

不動明王、金剛童子に索の縄をぐるぐる巻きにすると、一心不乱に祈祷をしました。

しかし、やったことも無い調伏が、そう簡単にできるはずもありません。神主の面目

は丸つぶれです。いよいよ、追い込まれた神主は、更に十四日間、加持祈祷を一心に続けました。

「オン、コロコロ、センダリマトウギ」(薬師如来真言)

「ソワタヤウンタラタ、カンマン」(不動明王真言)

と、その有様は、狂わんばかりです。とうとう、数珠は切れ飛び、五鈷で膝を叩き、三

鈷で胸を叩き、独鈷で頭を叩きます。頭蓋骨は割れて、血が噴き出しました。全身血だ

らけになった神主は、その血を不動明王の利剣に押し塗ると

「これは、調伏人の血であるぞ」

と、目玉を剥き、天地を響かせるばかりに祈祷したので、いよいよ五大尊(五大明王)

は振動し、金剛夜叉は矛を振り、大威徳明王が乗る牛が、角を振って吠え立てたのでした。

 さて、命を懸けた調伏の験(しるし)は、やっと現れましたが、信田殿にまでは届き

ませんでした。信田殿一行は、中山道番場の宿(滋賀県米原市)の辺りを急いでおりましたが、

俄に、御台所の具合が悪くなったのです。信田殿は、とある所に宿を取り、御台を休ま

せることにしました。人々は、御台所を取り巻いて、あれやこれやと看病しましたが、

容態は次第に悪化するばかりです。苦しみながら御台所は、

「ああ、苦しい。皆の衆。もう、私は終わりです。私が死んだなら、兎にも角にも、信

田殿の事をよろしくお願いしますよ。世の中は、何故、思い通りにならぬのでしょうか。

信田殿のことのみが、思いやられ、黄泉路の支障となりましょう。ああ、名残惜しい

信田殿よ。」

と、言い残して、儚くもこの世を去ったのでした。人々は、突然のことに、泣くより外

にはありません。信田殿は、死骸に抱きついて、

「これは、恨めしい母上様。あなたのことのみを思って、遙々と都を目指して来たのに。

こんなことになると分かっていたのなら、家来達と諸共に、小山の館に攻め入って、一

矢報いてやったものを。それなのに、私を振り捨てて行ってしまうなんて、これから、

どうしたら良いのですか。私も一緒に連れて行って下さい。」

と、嘆くのでした。家来達は、

「生死無情は、世の習い。嘆いてばかりいても仕方ありません。」

と言うと、信田殿から死骸を引き離して、野辺の送りをしたのでした。労しいことに、

心労のあまり、信田殿も床に伏して、動けなくなってしまいました。十一人の家来達は、

「信田殿の運命も尽き果ててしまったようだ。これ以上、信田殿に従っても、京や

田舎を彷徨って、苦労するだけ。かといって、外の家に仕官するのは、武士の恥。これ

を、菩提の種として、出家をしよう。」

と、皆、密かに元結いを切り落とすと、信田殿の枕元に置いて、去って行ったのでした。

 さて、ようやく目覚めた信田殿が、

「さあ、皆の衆。いつまで嘆いていても仕方ありません。気を取り直して、都へ参りましょう。」

と、言いますが、誰も返事をしません。おかしいなと思った信田殿が、跳ね起きると、

家来達は、誰も居らず、枕元に人々の髻(たぶさ)があるばかりです。信田殿は、驚いて、

「ええ、私を捨てて行ったのか。ああ、もう生きていても仕方ない。」

と、刀に手を掛け、自害するところに、宿の亭主が飛んで来て、止めたのでした。宿の

亭主が、事の次第を尋ねると、信田殿は、これまでの様々な身の上を話しました。亭主は、

「それ程に正しい道理があるのでしたら、どうして訴訟をされないのですか。私が、都

まで送り届けてあげましょう。」

と、言うと、信田殿を馬に乗せて、都へと向かったのでした。亭主は、五條の辺りに宿

を借りてあげると、訴訟の仕方を丁寧に教えて、戻って行きました。

 しかし、労しいことに信田殿は、片輪車の縄が切れた様に、やる気も無く、只一人、

ふらふらと無為な時間を費やすだけでした。

「誰か、道連れと頼る人もいない。やはり、常陸に戻って、小山と刺し違えて死ぬ外は

無い。」

と、思った信田殿は、また常陸の国へと戻って行くのでした。

 やがて、信田殿は、常陸に戻り、小山の館にやってきました。

「信田である。先ずは、平に降参いたす。」

と言うと、小山は、

「おお、分かっておるぞ。俺に一刀報いに来たな。お前を殺すことは簡単だが、降参した

者を討つのは、武士の道に外れる。命は助けるぞ。」

と、信田殿を、門外に放り出しました。信田殿は、一矢報いることもできず、すごすごと

立ち去ると、父の墓へ詣でて、一人嘆くのでした。

「どうして、こんなに果報の少ない私を、この世に残して置くのですか、どうして、

上品上生(じょうぼんじょうしょう)の台(うてな)に、お迎え下さらないのですか。」

信田殿が、泣く泣く墓を後にしようとした時、編み笠を深々と被った武士が、近づきました。

武士は、

「信田殿では、ありませんか。」

と、袂を取りました。かの浮嶋大夫でした。二人は、再会を喜び合い、浮嶋が隠居している

下の河内へと向かったのでした。

 浮嶋大夫は、館に着くと、女房や子供達を集めて、

「日頃より、皆が祈ってきたので、天のご加護があり、偶然にも信田殿の巡り会ったぞ。

信田殿がここに来たことは、隠そうとしても、いずれ知れ渡る。この城は、昔より守り

が固く、そう簡単には、落とすことは出来ない。お前達に戦をさせ、内戦に耐えておれば、

きっと都より、咎めの使者が下る事だろう。そうしたならば、越訴(おっそ)を行うのだ。

様々な苦難があるであろうが、必ず、国を取り返すことができる。さてしかし、俄に慌

てて、出兵するのではないぞ。人夫を集めて谷々に掘りを切り、山々にかがり火を焚かせ、

垣楯(かいだて)を巡らせて、気を許すな。よいか。」

と、命じました。女房も子ども達も、この君の為に、儚い命を捧げようと、躍り上がって、

喜んだのでした。この人々の姿は、あっぱれであると、誉めない人はいませんでした。

つづく


忘れ去られた物語たち 17 説経信田小太郎 ①

2013年02月07日 16時42分17秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

天満八太夫 宝永年間  (説経正本集第3(34)天理本)

幸若の「信田」(幸若小八郎:慶長十六年)の簡略版という風情の作品である。残って

いる本の所属や出版年代は不明で、天満八大夫、宝永年間と推定されている。幸若の「信

田」と比較すると無理矢理な省略が、随所に散見される。人売り、流浪、道行きと、説

経らしいモチーフは、有るにはあるが、やや粗雑な作りになっていると言わざるを得な

い。古説経の凋落を感じさせる作品である。

 常陸の国を治める相馬家は、平将門の末裔である。ところが、嫡子である信田小太郎

は、姉婿の小山に追われて、落ちぶれて流浪を余儀なくされる。姉も追い出され、小太

郎を捜して流浪する。小太郎と姉は再び巡り会い、最後には、敵を討ち、自分の国を取

り戻す。

しだの小太郎 ①

 承平(しょうへい:931年~938年)年間は、七年間で終わり、天慶(てんぎょう:

938年~947年)の九年間の後、天暦十年(956年)の3月の末のことでした。

相馬殿の姫君は、小山の太郎行重(おやまのたろうゆきしげ)の所に嫁ぎました。父の

相馬殿は、既に亡くなっておりましたので、小山は、相馬殿の供養を、大変厚く営んだのでした。

信田(しだ:信太郡、茨城県の霞ヶ浦西岸部)にいらっしゃった、御台様は、この様子を聞くと、

「小山殿は、心の優しい方ですね。どうでしょう、浮嶋大夫(相馬家家臣)。相馬殿は、

御最期の時、きっと忘れてしまわれたのだと思いますが、沢山の領地があるにもかかわらず、

姫には、一所も所領をお与えになりませんでした。婿の小山殿の望みもありことですから、

信田の庄を、半分、小山殿に与えては、如何でしょうか。そうすれば、信田にとって

頼もしい後ろ盾になることでしょう。百騎二百騎の雇い兵を頼まなくても、小山が、先

に立って守ってくれるでしょう。どうですか。」

と、仰いましたが、浮嶋は、返事もせずに、俯いたままです。しばらくして、浮嶋大夫は、

「どうか、剛の者の悪い行いを、お忘れならぬように。弓取りの娘は、必ず、他人とな

り、婿は、居城の近くに置くべきではありません。移り変わるのが、世の習い。人には、

貪欲、虚妄(こもう)という欲心を内に秘めており、いくら親しくとも、すぐに疎まし

い関係になるものです。できることならば、折々の引き出物の宝を尽くしても、所領

においては、一切、お与えになってはいけません。」

と、すっぱりと言うと、御前を下がりました。御台所は、これを聞いて、

「相馬殿に過ぎ遅れて、いつしか、家臣の者さえ、私を軽んじるようになりました。果

報も尽き果ててしまったようです。もっともらしい顔をして、家を持って暮らしていて

も仕方無い。」

と、息子の信田殿(信田小太郎)に、暇を乞い、遁世すると言い出しました。驚いた信田殿は、

「もう、明日は、なんとでもなれ。たった一人の母上のお考えを、かなえてあげましょう。」

と、信田の庄を半分、母上に献上したのでした。喜んだ御台所は、信田の庄の半分を

小山の太郎へと与えました。これには、小山も喜んで、姫君を伴って、早速、信田の

館へと移って来たのでした。

 相馬家代々の郎等は、小山に従い、日々に出仕しましたが、浮嶋大夫親子六人は、従

いませんでした。浮嶋大夫は、

「御台からの信頼も失って、万事につけて、悪いことばかりが重なり、世の末も危うい。

しかし、最早、没落は避けられまい。いつまでも、相馬家にしがみついていても仕方ない。」

と、思い切ると、下の河内(河内郡:こうちぐん:信田郡の南部)に隠居してしまいました。

御台は、このことを聞くと、

「浅はかな浮嶋大夫じゃな。大夫が居ないとは、世間体も悪い。しかし、小山が居れば、

問題はないであろう。」

と、思うのでした。相馬家を支えていた浮嶋大夫が居なくなり、まだ、信田殿も幼少

であったため、御台は、家に伝わる宝物や重要な文書を、小山に預けることにしました。

 小山は、預けられた、将門代々の証文を見て、つぶやきました。

「何々、信田、玉造(現茨城県行方市:霞ヶ浦北西岸部)、東条(信田郡の東側地域)

は、八万町。なんと、広大な領地であろうか。このうち、一万町でも手にするだけでも、

何の不足も無いところだ。ましてや、常陸、下総の長官となるならば、思うがままだ。

俺以外に、それに相応しい者は、この国はおるまい。」

小山には、むくむくと、大欲心が湧き上がりました。小山は、熊野詣を口実にして、

直ぐに都へ上り、朝廷に参内すると、相馬家の弱体化を報告し、自分に本領を安堵する

ように奏聞したのでした。朝廷への数々の貢ぎ物の効果もあって、やがて、小山に対し

て本領が安堵されたのでした。小山は、喜んで常陸へと帰りました。小山は、邪魔にな

る、信田殿と御台所を、殺してしまうかとも思いましたが、流石に、表だった理由も無

いので、国外追放にすることにしました。

 信田の館に、突然、国払いの使いがやって来ました。御台所は、

「いったい、小山殿の心には、如何なる天魔が入り込んで、その様に、狂ってしまった

のでしょうか。ああ、浮嶋大夫の言葉通りになってしまった。なんということでしょう。」

と、泣き崩れる外はありません。しかし、情けも無い小山は、手のひらを返して振る舞

い、嘆願を受け入れなかったので、御台所と信田殿は、泣く泣く御所を後にしたのでした。

御台所は、甲斐の国の板垣(現甲府市里垣町)の知人を頼って、落ちることにしました。

しかし、『いたがき』(居るに掛ける)と言うのに、尋ねる人は、居ませんでした。仕方なく、

御台と信田殿は、とある荒ら屋に宿を借りておりますと、そこに、譜代の郎等達が駆け

つけて来ました。猿島兵衛、村岡五郎、岡部彌太郎、田上左右衛門ら、以上十一名です。

御台の喜びは一入です。猿島兵衛は、こう言いました。

「私の祖父が、相馬家の家臣となってから、私で三代。承平の合戦よりこの方、一度も

不覚は取ったことがなかったのに、信田殿も幼く、私も若輩者で、小山に卑しめられて、

無二の本領を取り上げられたとは、無念の限り。このような事態に、いつまで我慢でき

ましょうか。敵は、多勢ではありますが、無勢の我々にできることは、夜討ちを掛ける

事以外にはありません。勝手知ったる御所に、三方より火を掛け、一方より切って入れ

ば、千騎万騎が来ようとも、小山を討つことができまする。」

岡部彌太郎は、これを聞くと、

「何を、しょうもないこと。こちらに理があるのに、殊更事を荒立てることは無い。

一問答、二問答、三問三答(さんもんさんとう:訴訟手続き)を行って、敗訴しても、

越訴付款(おっそふかん:再審請求)と言って、再度、訴訟を取り上げるのが法というもの。

ましてや、この事は、一度も訴訟に掛けたわけでは無い。君に報うためには、これより、

申し直しをして、安堵を給わることであろう。小山は、全くの他人。若君が、相馬家の

御曹司であることは、世に隠れ無き事実である。例え、証文が、小山の手元にあったとしても、

盗み取られたとの所見を立て、何とかして、取り返そうではないか。」

と、理路整然と言うのでした。人々もこれに賛成すると、信田殿にお供して、都を目指して

旅立ちました。この人達の心中を誉めない者は、ありませんでした。

つづく

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忘れ去られた物語たち 16 説経鎌田兵衛正清 ⑥ 終

2013年01月24日 10時17分07秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かまだびょうえまさきよ ⑥

さて、長田が、義朝の首を持って六波羅にやってきました。清盛は、大変喜んで、

「よくぞ、やり遂げたな。見事である。これは、この度の褒美である。」

と言うと、巻き絹を千疋(せんびき:二反×1000)を給わり、靫部(ゆきべ:宮中警護)

の尉に任じました。驚いた長田は、

「靫部の尉とは、どういうことですか。それでは、私の骨折りが無駄になります。下さ

れた御教書(みぎょうしょ)の通りに恩賞を頂きたく思います。」

と、詰め寄りました。同席の侍達は、これを聞いて、

「やれやれ、よくも言いますな、長田殿。主君の首を取って、国を望むなどということが、

どこの世の中にあるのですか。変な話しとは思いませんか。」

と、どっと笑いました。景清は、

「如何に、長田殿。望みがあるならば、又別な機会に申しあげたらよかろう。今日は、

これまで、御退出あれ。」

と、言い渡しました。長田は、面色変わり、腹立ち紛れに、

「ええ、こんなことなら、無駄な骨折りなど、しなかったものを。」

と、言い捨てて御前を下がりました。

 そこへ、取り次ぎの者が現れ、

「渋谷の金王と申す者が参りまして、清盛公に対面したいと申しております。」

と、伝えました。清盛公は、景清に向かって、

「むむ、その金王とは、義朝の家来。一騎当千の若武者と聞く。直の対面は、危ないの

ではないか。景清、お前に任せるから、良きに計らえ。」

と、言いましたが、その時、重盛は、

「いえ、彼が、わざわざ敵地である六波羅へやってきたのには、何か望みがあるはず。

ご対面なされても、危険なことは無いと存知ます。それそれ、金王をこれへ。」

と、言いますので、やがて、金王は、清盛公の御前に招かれました。清盛公が、

「お前は、義朝の家来、金王か。何しにここまで来たのか。話しを聞いてやろう。」

と、言うと金王は、

「されば、主君の義朝が、仲間の長田に討ち取られ、無念の極み、骨髄に達します。こ

れまで、長田を追って参りました。どうか哀れに思し召し、長田をお渡し下さい。主君

の敵、長田を討ち取り、殿への手向けに致したく思います。その後、この金王を、八つ

裂きにしようと、どうしようと、ちっとも後悔はありません。是非に、長田をお渡し下さい。」

と、懇願しました。清盛公は、これを聞いて、重盛と内談しました。

「むむ、奴の言うことは、道理であるが、長田は、この清盛にとっては、忠義の者。

どうするか。」

重盛は、

「それも、尤もではありますが、金王が言うことは、主君に対する誠の忠義。しかし、

長田の忠義は、誠の忠義とは言えません。ただ、自分の貪欲を満たすために主君を討ち、

侍の道から外れております。このような者を、忠義の者と、助けるならば、世に正道を

示すことにはなりません。正しい侍の道を世に示す為にも、金王の望み通りに、長田を

金王に下すべきかと思います。」

と、理路整然と答えました。これを聞いた清盛は、尤もと考えて、長田を金王に渡すこ

とにしたのでした。

 さて、天罰は逃れることができないものです。そんなことになっているとも知らずに、

長田は、再度の訴訟に、のこのこと現れたのでした。しかし、金王が居るのを見と、

慌てて逃げ出しました。金王は、長田を引っつかむと、

「やあ、お久しぶりの長田殿。まあ、お待ちなさい。」

と言って、膝の下に、ねじ伏せました。清盛公は、これを見て、

「金王に長田を与える。さあ、そこで、長田を討て。」

と、言いました。金王は、

「畏まりました。」

と答えると、肩の骨踏みつけて、その首をばったりと切り落としました。金王は、清盛

公の前に畏まって、

「清盛公のお情けにより、かくも易々と、主君の仇を取ることができました。有り難い

ことです。さて、この上は、どうとでもご沙汰下さい。」

と、首を差し出しました。これを見た清盛公は、

「あっぱれ、お前は、剛の者。知行を与えるから、この清盛の家来となれ。」

と言いました。金王は、

「これは、清盛公のお言葉とも思えません。『賢人は、二君(じくん)に仕えず』と言

うではありませんか。源氏の末席で、厚いご恩を受けた身が、どうして今更、平家に仕

えることができましょうか。ただ、平家にできることは、この首を差し出すことだけです。」

と、顔を上げませんでした。これには、重盛を初め、居並ぶ平家の武士達も、あっぱれ

な武士であると感じ入りました。清盛公は、

「誠に、源氏の者は、聞きしにまさる武士である。命は助ける。すきにせよ。」

と、言い残すと、御座を立って下がられたのでした。喜んだ金王は、それから、甲斐源

氏を頼って下向しました。これもまた、源氏の世に繋がる御吉凶でありましょう。

千秋万歳(せんしゅうばんぜい)

末繁盛の御祝い

目出度しともなかなか

申すばかりは、なかりけり

おわり

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忘れ去られた物語たち 16 説経鎌田兵衛正清 ⑤

2013年01月23日 17時25分43秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かまだびょうえまさきよ ⑤

 こうして、常磐御前は、祖父や姥御前の情けを受けて、様々に労られ、焚き火にあた

って、体を温めることができたのでした。やがて、袖の氷柱(つらら)も解けました。

祖父と姥は優しくも、常磐御前と若君達を引き留めたので、2月の下旬の頃まで、この

家に留まることになりました。祖父は、障子の隙間から、常磐の姿を、つくづくと打ち眺めて、

「のう如何に、姥御前よ。この御方は、どう見てもそんじょそこらの人には思えない。

何故かと言えば、あの粧いは、普通ではないからのう。ちょっと、お心の内をお聞きし

たいものじゃ。おい、姥御前よ。昔習った歌を忘れていないならば、一首、歌を詠じて

はくれぬか。」

と、言いました。姥は、

「それは、その昔、私も宮中に上がっていた時の事。今や、木幡の小屋がけに、落ちぶ

れて、歌なんぞというものは、とっくに忘れてしまいましたよ。あなたこそ、昔の事を

まだ覚えているのなら、一首の歌を掛けてごらんなさいよ。」

と、言うのでした。祖父は仕方なく、がたがたと、障子を開けると、こう詠みました。

「木幡山、降ろす嵐の激しくて、宿りかねたる、夜半(よわ)の月かな」

常磐御前は、これを聞いて、

「あらまあ、なんと恥ずかしいことでしょう。姿こそ、このように落ちぶれてしまいま

したが、心の中は、花の都が生きていますよ。それでは、私も腰折れ歌を、お返し

いたしましょう。」

と、言うと、次のような返歌を詠みました。

「木幡山、裾野の嵐激しくて、伏見(伏し身)と聞けど、寝らざりけり」

祖父と姥は、これを聞いて、

「さては、この方は、義朝方の落人に間違い無い。居間に居たのでは、人目にも付く。」

と、言って、奥の一間に匿ってくれたのでした。

 そうしている内に、近くに住む下女(しもおんな)達は、集まってこんな噂話を始めました。

「向こうの谷の祖父御(おおじご)の所に、それはそれは美しい女性が、子供を沢山

連れて泊まっているらしいですよ。みんな忙しくて、まだ誰も見たことがありませんが、

一度、見に行って、慰めてあげましょうか。」

そして、女達は、手に手に、細瓮(ささべ:壺)を持って、祖父の家を訪ねたのでした。

祖父の家にやって来た女達は、もってきた壺を、どかどかと置くと、常磐御前のお姿

の美しさに、呆然と眺め入るばかりです。常磐御前が、

「これは、皆々様。お優しくも、私を慰めに来てくれたと聞きました。さあさあ、これ

へお入り下さい。」

と言えば、女達は、常磐御前を取り巻いて、

「あなた様は、どこからお出でになり、どこに向かわれる方ですか。こんな雪の中を

お気の毒です。その話しを聞かせて下さい。」

と、やいやいの催促です。常磐御前は、困りましたが、本当の事を言うわけには行かず、

次のように話しを作りました。

「よくぞ、聞いて下さいました。春の日の暇つぶしに、私の先祖をお話いたしましょう。

私の本国は、大和の国は宇陀の郡(奈良県宇陀市とその周辺)です。私が14歳の春の

頃に、父母に捨てられて、都に上がりました。身分の高いも低いも、女の習いは同じ事。

やがて、あるお殿様に拾われて、この若達を生みました。割り無い仲であったのに、頼

りがいのは男の心です。一条室町(京都市上京区一条室町)に、女を囲ったのです。

三年の間、私は、妬み事も言わずに我慢しました。それは、こんな例えがあるからです。

伊勢物語に出て来る夫は、大和の者。この者が、河内の国の高安(大阪府八尾市東部)

という所に女を作って、三年の間通いましたが、後に残る女房は、ちっとも嫉妬しませんでした。

しかし、夫は、

「俺以外に、外の男に心があるから、嫉妬もしないのだな。」

と、かえって、女房を恨んだのです。ある、夕暮れのことでした。夫は、

「俺は、もう河内に行くからな。さらば。」

と言って、太刀をおっ取り飛び出して言ったのです。ところが、この夫は、河内には行

かないで、家の生け垣に隠れると、妻の様子を窺ったのです。それとは知らない女房は、

こんな歌を詠って、悲しんだのです。

『風吹けば、沖津白波立田山、夜半にや君が、一人行くらん』


忘れ去られた物語たち 16 説経鎌田兵衛正清 ④

2013年01月23日 14時20分53秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かまだびょうえまさきよ ④

さて、都に上った金王丸は、常磐御前がいらっしゃる紫野(むらさきの:京都市北区南部)

に着きました。金王は、早速に常磐御前のお前に出て、

「さしも、剛の殿も、長田に討たれてしまいました。又、鎌田親子も残らず討たれ、某

も、討ち死にをしようと思いましたが、相手になる敵がおりません。長田の子供五人を

討ち取りましたが、残念ながら長田を取り逃がしました。長田を追って、これより六波

羅へ参るつもりです。ここに、居たいとは思いますが、少しでも早く、長田を討ち取っ

て、我が君のご供養に供えたいと思います。それでは、お暇申します。さらば。」

と、言い捨てると、行方をくらましてしまいました。

 可哀相に、常磐御前は、夢か現かと驚いて、

「やれ、金王よ。暫く留まって、殿の御最期の様子を詳しくお話下さい。ああ、恨めしい

世の中よ。」

と、声を上げて泣き崩れました。ようやく、涙を押しとどめると、常磐御前は、

「さては、長田は翻意して、殿を討ったのですね。さぞや、無念に思われたことでしょう。

この若達や、私は、これからどうしたらいいのでしょう。どうしようも無い身となって

しまいました。」

と、つぶやいて、又泣く外はありません。しかし、泣いてばかりいても仕方ありません。

常磐御前は、

「今となっては、嘆き悲しんでも仕方がない。ここに留まっていては、六波羅が追っ

手を差し向けて来るに違い無い。まだ、触れの出ない内に、どこかへ落ち延びなくては。」

と、思い直しました。そこで、先ず母上に、供を一人付けて、乳母の所へ送りました。

それから、三人の若、乙若、今若、牛若を連れて、密かに館を忍び出たのでした。行

き先も定めぬ心細い旅立ちです。常磐御前の胸の内が思いやられます。

 兄、今若の装束は、練り絹の肌着に白い綾地の直垂(ひたたれ)。弟の乙若の装束は、

紅の二つ衣(重ね着の着物)に帯を締めただけです。ご自身は、十二単の裾をたくし上

げ、二歳になる牛若を懐に抱いて、市女笠で顔を隠しました。五條の辺りの黒土で、初

めて足を汚すお姿は、哀れとしか言い様がありません。

 時は、永暦元年(1160年)正月17日の夜の事です。清水参りのこの夜は、多く

の人々が、行き交っています。常磐御前は、人々に紛れて清水寺に詣でました。左の格

子に入り、十の蓮花(手)をもみ合わせ、八寸の頭を地にすりつけると、常磐御前は、

「そもそも、清水寺は、田村丸(田村麻呂)が、大同二年(807年)にご建立されました。

誠に、霊験新たかの観世音。三人の若達の行く末を、お守り下さい。」

と、お祈りをし、その夜は、清水寺に隠れました。翌朝、常磐御前はご本尊の前から

立ち出で、西門に佇んで、遙かの西を眺めました。

「四条、五条の橋が見える。清き石川(?)の流れは、末の世まで続くのでしょう。あ

の西の境を過ぎ行けば、実りの花も咲くことでしょう。この道は、六道の辻とか、聞き

ますが、ほんとうに冥途へ続いているとは、恐ろしいことです。」

と、つぶやいて、歩き始めました。

(以下道行き)

下り居(おりい:馬や車に乗らないこと)の衣、播磨潟(兵庫県明石)

飾磨(しかま:兵庫県姫路市)の歩行路(かちじ)、苦しやの

その垂乳根(たらちね)を尋ねん

心細さは、鳥辺山(鳥野辺;火葬場)

煙の末も、浮き雲の

定め無き世の、露の身の

頼む命は、白玉の(※をに掛かる掛詞)

おたぎの寺や(愛宕念仏寺:京都市右京区嵯峨野)六波羅の観音堂を伏し拝み

「如何に、若達。ここは、敵(かたき)の館の前。こちらへ早く来なさい。兄弟よ。」

と、市女笠を傾けて、足を速めて急がるる

都にな高き大仏や

三十三間(三十三間堂:京都市東山区)伏し拝み、

阿弥陀が峰も見え渡る。(京都市東部の山:東山三十六峰)

一二の橋(一条・二条)や、法成寺(京都市上京区にかつてあった)

山崎千軒(京都府乙訓郡大山崎町)、宝寺(宝積寺)、松ヶ崎(京都市左京区松ヶ崎)をも打ち眺め

木幡(こばた:宇治市木幡)の山に着き給う

時は、正月十八日のことです。宇治は、春雨が降りますが、木幡の山は、まだ雪深い

頃です。降る白雪を払いながら、急ぐ姿は、哀れなかぎりです。若君達は、たまりかね

て、声を上げ、

「どうして、お乳や乳母はいないのですか。どうして母上には、付き人が居ないのですか。


忘れ去られた物語たち 16 説経鎌田兵衛正清 ③

2013年01月21日 18時24分15秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かまだびょうえまさきよ ③

 明けて正月三日の朝、長田は、鎌田の首と取ろうと、やってきました。ところが、

四間には、なんと鎌田だけでなく、女房、廊の方と孫達までが、ひとつ枕に死んでいる

ではありませんか。これには、さすが不道の長田も、言葉も無く呆れ果てて立ち尽くし

てしまいました。しかし、今更どうしようも無く、無情にも鎌田の首を切り落としたの

でした。この長田を、憎まない者はありません。

 さて、それから長田は、なにくわぬ顔で、義朝公の御前に上がりました。長田は、

「今日は、三箇日の御嘉礼の日です。八幡宮(尾張八幡神社:愛知県知多市八幡)に御

社参なされて下さい。田上の湯(愛知県知多郡御浜町野間田上)と申すところがありますので、

そこで、まずは、行水をなさって下さい。」

と、騙したのでした。義朝は、

「これは、有り難い。先祖よりの郎等でなければ、このような便宜はいただけません。

必ず、長田に弓矢の冥加があり、七代まで安穏でありますように。」

と、祈るのでした。湯殿に着くと、義朝は、重代の刀を長田に預け、湯に入りました。

長田は、時分を見計らうと、

「誰かある。君のお垢をこすって参れ。」

と、言いました。企んだように、吉七五郎、弥七郎、浜田の三郎という、比類無き

大力の強者三人が、湯殿の中に乱れ入りました。中でも、五郎が、義朝にむんずと取り

組みかかると、義朝は、

「ええ、物々しや。」

と、掻き掴むと、えいっとばかりに、七八間、投げ付けました。すかざず、弥七郎と

三郎の二人が、左右から差し通しましたが、義朝は、二人を取って伏せ、浜田の刀を奪

い取りました。あっという間に二人の首を掻き落とすと、義朝は、長田の首も切ってくれんと

勇み立ちました。しかし、ここまで、追いつめられては、最早いかんともし難いと、思

い直して、湯船にどっかと腰を掛けました。

「如何に長田。義朝ほどの大将を、よくも卑怯にも騙したな。おそらくは、鎌田も既に

討たれたのであろう。やがて、思い知ることになるぞ。」

と、言い放ち、刀を取り直すと、右の腹に突き立て、えいとばかりに、左へきりりと引

き回しました。返す刀を取り直すと、袴の端に突き立てて、胸元を支えると、

「早や、首、取れ。」

と、長田を睨みました。長田は、ぶるぶる震えながら、薙刀を差し延べると、義朝の首

を討ち落としたのでした。それから、長田は、二つの首を並べて、金王の首が届くのを、

今や遅しと待ちました。

 

 これはさておき、内海では、金王を討ち取るために、綿密な作戦を立てていました。

先ず、第一班は、岸の岡の十郎。二班は、小栗の藤内、三番には、小久見の平太をそれぞれ

先に立てて、屈強の兵(つわもの)三十八人が、大船八艘を繰り出しました。遙かの沖

に漕ぎ出して、大網七丁を、おろしながら、ここには魚が居ない、ここにも魚が居ないと、

あっちこっちを移動して、金王の隙を狙って討ち取る計画でした。

 金王は、最初から覚悟の上でしたから、微塵も騒ぐ様子がありません。大薙刀で、歩

み板をどんどんと突き鳴らすと、

「やあやあ、方々。夕日が西に傾いてきたが、綱手を取らすに、先ほどから、俺をちら

ちらと見るのは、不審千万。おお、そうかそうか。お前達の主人長田が、翻意して、こ

の俺様を、討ち取る手立てと見えるわい。心の内に思いがあれば、その気配は、外に現

れる。天知る、地知る、我知る、人知る。いいか、近くに寄って怪我するな。ようく聞け。

先ず、薙刀の使い手には、「込む手」「薙ぐ手」「開く手」、磯打つ浪の「捲り(まくり)切り」

散々に薙ぎ倒して、薙刀が折れて砕け散れば、二振りの刀を、抜き変え抜き変え戦うぞ。

太刀も刀も折れ砕ければ、五人も十人も、左右の脇に掻き込んで、海の底にぶっ込んで、

五日も十日も塩水に浸し、魚の餌食にしてくれる。」

と、言うなり辺りを払って駆け回り始めました。人々は、この勢いに恐れをなして、震

え、戦慄き、船底にひれ伏してしまいました。まったく笑止千万な有様です。

 その時、金王は、俄に胸騒ぎを感じました。急ぎ船を陸に戻せと命じますが、水主(すいしゅ)

も舵取りも、じっとして動きません。金王は、怒り狂うと、

「ええ、憎っくき野郎ども、物見せてくれん。」

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忘れ去られた物語たち 16 説経鎌田兵衛正清 ②

2013年01月21日 15時34分25秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かまだびょうえまさきよ ②

 金王を騙すことができず、さんざんに脅された長田は、ぶるぶると震えて、座敷から

逃げ出ると、義朝の御前に行き、先ず、空泣きをして見せました。義朝公は、ご覧になり、

「おや、どうした荘司。何を泣いているのか。」

と、言いました。長田は、

「さればです、君のご馳走のための蓬莱の仕度に、魚と鹿を調達させておりますが、五人

の子供を鹿狩りにやりました所、内海に仕掛けた網の奉行になる者がおりません。そこで、

渋谷殿に、奉行をお頼み申したのですが、この年寄りの荘司に、散々の悪口雑言。

今、危うく命長らえて、これまで来たという訳です。」

と、さめざめと泣き真似をするのでした。義朝は、これを聞いて、

「あの金王は、物狂いの所があるからのう。私が、なだめすかして、奉行に出るように言っておこう。」

と、答えました。長田は、しめしめと、一礼して、下がりました。やがて、金王が呼ばれました。

金王は、

「さては、長田の荘司め、君に訴訟したな。ええ、殿に万一のことあらば、奴めの

そっ首、ねじ切って捨ててやる。」

と、思い切って、御前に出ました。義朝は、金王の様子をご覧になり、静かに言いました。

「如何に金王。都より、長田を頼んで下る我々は、長田を、山ならば、須弥山よりも、

尚、頼もしく思う身であるぞ。ちょっとぐらい、気に食わぬことがあっても、何で、奉

行を引き受けないのだ。その上、漁猟は、若者の仕事ではないか。お前の様な若い剛の者には、

たいした仕事でもあるまい。奉行に立って、年老いた長田に協力してあげなさい。金王丸よ。」

と、言いました。金王は、これを聞いて、

「それがし、奉行が厭で断ったという訳ではありません。長田の様子を良く、観察しますに、

心変わりがあると思われます。今回の事は、君を騙して、討ち滅ぼそうとする計略に違いありません。

ここは、この金王にお任せ下さい。」

と言いました、金王は、奉行に立つ気は、さらさらありません。義朝は、これを聞いて、

「もし、そうだとしても、どうしようも無い。長田が翻意したとしても、外に頼る所があるのか。

また、もし、翻意していなかったら、後々の恨みを何とする。只々、黙って奉行に行くのだ。」

と、重ねて諭しました。金王は、涙を流して、

「ええ、埒の明かない君のお言葉です。東岱前後の夕煙(とうたいぜんごのゆうけむり:火葬の煙)

遅れて行くも先立つも、世の習い。もし、内海において、私が討ち殺されなかったなら、

再びお目に掛かりましょう。」

と言うのでした。義朝は、

「不吉なことを言うでは無い。金王よ。門出の祝いじゃ。」

と、お手ずから、酒を注ぎ下されるのでした。金王は、これを三度、押し頂きました。

 

 それから、金王は、奉行に出る仕度をしました。先ず肌には、唐紅の小袖を引き違え

に着ると、滋目結(しげめゆい)の直垂に、四つのくくり紐をゆるゆると垂らします。

黒糸緋縅(くろいとひおどし)の胴丸(鎧)に、肩上(わたがみ:肩の部分)を付けると、

草摺長(くさずりなが:大腿部の垂れ)を下げました。まさに、巳の時(みのとき:物の盛り)

の輝きというばかりの出で立ちです。結い上げた帯を、力一杯締めると、全部で、三腰

の刀を差しました。箙刀(えびらがたな:短刀)、四尺三寸の首掻き刀、三尺五寸の角

鍔(かくつば)の厳物造り(いかものづくり)を、重ね履きに履いて、四尺八寸の大薙刀

を、ぶーんと振り担げる(かたげる)と、ゆらりゆらりと、外に出ました。金王は、

「君の運命が、尽きることがあれば、長田の謀略をご存じないことが口惜しい。もし、

内海において、手向かいする奴輩が居るのなら、何百もやって来い。この薙刀で、片っ

端からなぎ倒し、内海の大海を、死人で埋め尽くしてくれるわ。」

と、歯がみをすると、ずんずんと、内海に向かったのでした。

 さて、金王の話しは、ひとまず置いて、鎌田兵衛正清は、その夜も更けたので、御前

を退出し、廊の館へと帰りました。(※廊の方:長田の娘=鎌田の妻)

 鎌田は、弥陀石と弥陀若の二人の子供を、膝に乗せると、後れの髪を掻き撫でてながら、

涙を流して、こう言うのでした。

「この正清が、都での多くの合戦を戦いながらも、不本意に、生き長らえてきたのは、

只、お前達がいるからだ。何時か、お前達が成人したなら、父の共をさせて、恥ずかし

ながら、小弓に小矢でも一筋でも射させ、殿のお役に立たせようと考えていたからだ。


忘れ去られた物語たち 16 説経鎌田兵衛正清 ①

2013年01月16日 17時35分17秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

鎌田兵衛正清 伏見ときは 小幡物語(説経正本集第三(32))

天満八太夫 元禄三年

古説経後期の作品であるこの正本は、幸若の「鎌田」「伏見常磐」を下敷きとし、両本

を関連付けて、ひとつの物語に仕上げているように見えるが、まったく本地を語らない

この作品は、おそらく先行した古浄瑠璃、例えば、「待賢門平氏合戦」四段目以降(寛永)などの説経への焼き直しと考えた方が良い作品である。

かまだびょうえまさきよ ①

さてもその後、つらつら思んみるに

盛んなる者は、必ず衰え

奢れる者は、終に滅ぶ

一度栄え、一度衰う、世のためし

古今、その例、間を無し

人皇七十八代二条天皇院の頃のことです。(1158年~1165年)

源氏の大将である左馬の守義朝は、待賢門の戦いに敗れ、鎌田兵衛正清、渋谷の金王(こんおう)

と伴に、東国に向けて、落ち延びました。数々の関所を、突破して、尾張の国、内海の庄(愛知県知多郡)

へと、向かったのです。ここには、鎌田の舅である長田荘司(おさだしょうじ)(長田忠致)

が、居たので、ここに密かに潜伏することにしたのでした。長田は、主君、義朝一行の為に、

新たに御所を建てて、迎えたのでした。

 しかし、義朝が、内海に潜伏したことは、すぐに六波羅にいる清盛に、漏れ聞こえました。

清盛は、一門を集めて評定を行い、こう言いました。

「ぐずぐずしてはいられない。急ぎ、追っ手を差し向けよ。」

清盛は、平宗清に、兵三百を与えましたが、その時、嫡子重盛が、進み出て進言しました。

「これは、良くないご判断です。東国は、代々、源氏の味方が多い土地。追っ手を差し向ける

ことが知れれば、源氏の郎等が集まって、手強い戦となりましょう。ここは先ず、謀り

状を拵えて、送ってはいかがでしょうか。長田に、過分の所領を与えて、一旦味方とし、

義朝を討たせるのです。その後、長田をどう懲罰しようと、問題にはならないでしょう。

如何でしょうか。」

これを聞いた清盛は、もっともと思い、早速、謀り状を書かせると、長田の館へ送った

のでした。

 密書を受け取った長田は、子ども達を集めました。その文面は、次のようなものでした。

『下す状。

 左馬の守義朝は、親の首を切るのみならず

 親類兄弟、討ち滅ぼし

 六身不和にして、三宝の加護無し(※仁王経)

 去年の罪、今年に来し

 逆乱を起こし、待賢門の夜戦(よいくさ)に、駆け負け

 帝都を去って、遠島(えんとう)に彷徨うとても

 自滅すべき事、草場の露に異ならず

 この者に組みせん輩は

 深淵に臨んで、薄氷を踏むに異ならず(※詩経)

 早、義朝が首(こうべ)を刎ね

 天下に献げ申すべし

 勧賞(げじょう)には、美濃、尾張、三河、三が国を当て行うべし

 よって、状、件(くだん)の如し

 平治二年正月朔日(さくじつ)

 長田が館へ      清盛 判 』

 長田は、これを読むなり、むらむらと欲心を起こしました。子ども達に向かって、

「これ、これを、拝み申し上げなさい。御教書(みぎょうしょ)は、道理至極である。

そもそも、義朝は、親の首を切るような五逆罪(父母等を殺すこと)の悪人である。そ

の様な者を、主君と頼んでも仕方ない。いざ、この君を討ち取って、美濃、尾張、三河

の三カ国を給わって、上見ぬ鷲と、栄えようではないか。どうじゃ、どうじゃ。」

と、言いました。これを聞いた太郎は、

「しかし、これは、由々しき一大事。この人々を討つには、尾張八郡に動員しても、そ

う簡単には行かないと思います。よくよく御思案下さい。」

と、答えました。そこで、長田は、

「何も、勢を揃えて討つまでも無い。騙し討ちにすれば良いまでのこと。」

と、手に取るように、暗殺の計画を話すのでした。その時、三男は、進み出ると、烏帽

子の招き(烏帽子の先)を地にすりつけて、こう言いました。

「仰せのように、この君は、親の首を切り、五逆の罪が深いことは明白ですが、もし

我々が、三代相恩の主君の首を切るならば、八逆罪の罪(謀叛の罪)を被ることになりますぞ。

 ここに、こういう例えがあります。天竺のいるという命命鳥(めいめいちょう:具命鳥)

は、胴はひとつで、頭が二つあります。左右に並んだ二つの嘴が、餌をついばんでおり

ました所、左の嘴が食べようとした餌を、右の嘴がうらやんで、これを奪い取ったのです。

右の嘴は、腹を立てて、退治してやると思い立ち、ある時、毒虫を探して、それを、食

べようとして見せました。案の定、右の嘴は、勇んで奪い取ると、毒虫を食べてしまいました。


忘れ去られた物語シリーズ 8~15 について

2012年12月27日 11時41分12秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 平成24年壬辰もあとわずかとなりました。説経師の1年としては、これまででも、

最も充実した1年間であったことを、皆様方に感謝申し上げます。

さて、ここで、「説経正本集第二」の内、五説経として名高い、「苅萱」「小栗判官」

「愛護若」を除いた、他の古説経達を読み終えることができたので、まとめをする

ことにいたします。

横山重編角川書店「説経正本集第二」の内容は以下の通り、※印のついたものを

本ブログで、翻訳し紹介しました。但し、シリーズ9の「山椒太夫」と、シリーズ13

の「弘知法印御伝記」は、「説経正本集第二」の内容ではありません。

 「山椒太夫」は、国文学研究資料館にある複写本の山本角太夫正本を読みました。http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120224

この原本は、舞鶴西図書館蔵とあります。また、「弘知法印御伝記」は、来年

取りかかる「説経正本集第三の43」に収録されているので、先読みになりました。http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120714

いずれも、作曲の必要性があっての取り組みでした。山本角太夫の「山椒太夫」

は、今年、「鳴子曳き」の部分を公演しましたが、来年の秋には、人買いの場面の

「直井の浦」、安寿受難の場である「姉弟山別れ」を加えて、三段組みの浄瑠

璃として復活する予定ですので、ご期待下さい。

「説経正本集第二」目次

十七 せっきょうかるかや(寛永八年しょうるりや喜衛門板)

十八 かるかや道心(寛文初年江戸板木屋彦右衛門板)

十九 おぐり判官(延宝三年正本屋五兵衛板)

二十 をくりの判官(佐渡七太夫豊孝正本)

二十一 あいご若(万治四年山本久兵衛板)

二十二 あいこのわか(天満八太夫正本)

※二十三 目連記(万治頃八文字屋板)

シリーズ8http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120131

二十四 目連記(天満八太夫正本)

※二十五 ほう蔵びく(天満八太夫正本)

シリーズ10http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120229

二十六 ほうぞうびく(佐渡七太夫豊孝正本)

※二十七 ゆりわか大じん(日暮小太夫正本)

シリーズ11http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120325

※二十八 わうしょうぐん(日暮小太夫正本)

シリーズ12http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120503

※二十九 ひょうごのつき嶋(石見掾正本)

シリーズ14http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20121123

三十 兵庫の築嶋(寛永六年江戸井筒屋板)

※三十一 石山記(天下一石見掾藤原重信正本)

シリーズ15http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20121213

今年は、なにより、六十年に一度の「壬辰」の年に「阿弥陀胸割」を復活することができて

よかったです。今後とも猿八座へのご支援、ご指導のほど、宜しくお願い申し上げます。

皆様が良いお年をお迎えできることをお祈り申し上げます。


忘れ去られた物語たち 15 説経石山記(蓮花上人伝記) ⑥

2012年12月21日 17時14分15秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

れんげ上人伝記 ⑥

 それから、蓮花上人は諸国修行怠りなく、近江の国は御影山(三上山)の山麓、野洲

川にやってきました。(滋賀県野洲市)もう日も暮れかけていましたので、とある商家

に宿を乞いました。さて、夜半の頃のことでした。その屋の亭主を初め人々が、何だか

得体の知れぬ物を布に包んで持って来たのでした。

「お坊様。大変、恥ずかしいことですが、お教え下さい。只今、主の女房が出産したのですが、

なんと言うことか、人の形をしておらず、この様な物を産み落としたので、皆一同、驚

いております。きっと、お坊様は、このような不思議なこともご存じと思いまして。ど

うか、お助け下さい。」

と、涙を流して、訴えるのでした。上人が、どれどれと、布をはいで見てみると、毬の

ような卵でした。同行の僧も皆、不思議がっていると、蓮花上人は、

「このようなことは、良くあること。皆これ、報いの業である。この屋の亭主は、い

つも殺生ををして渡世をしておるな。さあ、懺悔しなさい。奇特を表してみせよう。」

そういわれて、驚いた亭主は、

「はい、実は私は、山川の鳥、獣を捕り、商売としております。」

蓮花上人は、これを聞いて、

「おお、懺悔するからは、この卵を開き、その証拠を顕してあげよう。衆生皆共成仏道。(しゅじょうかいぐじょうぶつどう)

頼もしき弥陀の御誓願。南無阿弥陀仏。」

と、回向なされると不思議にも、卵が二つにぱっかりと割れました。中から出てきたのは、

頭は人間、胴体手足は動物の形をした畜生でした。亭主も人々も、飛び上がって驚き、

「ああ、このような報いがあるとも知らなかったとは、浅はかだった。」

と、涙を流して悲しみました。蓮花上人が、

「報いの業の恐ろしさが、このように歴然であるからは、これより、殺生をぷっつりと

止め、仏道の信仰を持ちなさい。そうすれば、この異形の物も人間となり、仏果の縁が

訪れることは疑い無いでしょう。」

と言うと、亭主達は、

「このような浅ましい事態を見た以上は、今後、殺生はいたしません。さて、仏道信仰

というのは、どういうものですか。」

と、問いました。蓮花上人は重ねて、

「それは、簡単なことです。まず、殺生をしないことが、仏道の入り口です。これを、

殺生戒と言い、仏道修行の段階は沢山ありますが、これが、第一の誡めなのです。さて、

万法の中で、最も優れて尊いのは、阿弥陀の本願です。下根(劣る)下地(下界)の衆

生、無知無行であっても、極楽往生は間違いありません。只、一心に、助け給え南無阿

弥陀仏と唱えなさい。今、このように浅ましい姿の物も、完全な人間に生まれ変わる

だろう。」

と言うと、あの「身代わり名号」を、生まれたばかりの異形の上に載せました。

そして、南無阿弥陀仏
と唱え始めました。亭主を初め人々も、一心

に念仏を唱えました。

 誠に、三種病人(らい病)ですら助かるという、大乗の冥加を説き、不可思議の力

を持つ如来の誓願は、なんと有り難いことでしょう。異形の物は、動物の姿をはらりと

脱ぎ捨てて、誠の人間の形となったのでした。まったく、仏果の実りの有り難いことです。

亭主は、余りの嬉しさに、

「大変ありがとうございます。まったく、あなた様は生き仏でいらっしゃいます。お名

前は、なんと申すのですか。いよいよ仏法を広めてください。」

と、ひれ伏すのでした。蓮花上人は、

「いやいや、これは、まったく愚僧の力ではないのだよ。阿弥陀如来のお助けなのだ。

このご恩をよっく胸に刻んで、殺生の道を止め、只、南無阿弥陀仏、助け給えと唱えなさい。

きっと、目出度く往生できること、間違いありません。我々は、これから、石山寺に参

詣いたします。互いに、命があるならば、又お会いいたしましょう。さらば。」

というと、もう既に夜も明けたので、石山寺を目指して、出発して行きました。まった

く、有り難い次第です。

 

 石山寺に到着した、蓮花上人は、

「これは、大変殊勝な御山ですね。そもそもこの寺の始まりは、聖武天皇の頃、奈良の

都の東大寺大仏供養の折の事。良弁僧正(ろうべんそうじょう)が勅命を受けて、陸奥

(みちのく)より黄金を見つけ出した時に、建立されたと聞く。ここは、慈悲観音の霊

験あらたかな寺であるぞ。」

と、信心深く仰るのでした。

 さて奇遇にも、そこに、諸国修行をしていた蓮花上人の父、豊春が、参詣してきました。

蓮花上人は、

「のう、父上、蓮浄坊殿ではありませんか。私は、蓮花坊ですよ。」

と、衣にすがりつきました。久々の対面に、互いに諸国修行の旅の出来事を語り合いました。

人々を利益した、様々な物語。この親子の殊勝な心の内は、誠に有り難い限りです。

やがて蓮浄は、

「そこに居られる皆さんは、愛弟子達ですか。」

と、聞きました。蓮花上人は、

「はい、こちらからお話しようと思っていた所ですが、先にお尋ねいただきました。

これは、弾正左衛門国光の一子、形部の介国長です。我々親子を敵と狙っているところ、

私と巡り会いました。母の教えを守り、首を差し出した所、「身代わり名号」の奇瑞が

顕れ、そのまま発心して、今は、蓮切と申します。また、残りの六人も、蓮切の従者で

したが、残らず発心して、皆、私の弟子となりました。」

と、事の子細を語りました。蓮浄は、これを聞いて、

「そうであったか。今より後は、互いの悪心を滅して、共に成仏いたしましょう。さあ、

仏前にお参りいたしましょう。」

と、言うと、一同、内陣にひざまつき、

「南無や大悲の観世音。一切衆生、ことごとく、西方極楽往生の誓願、助け給え、南無阿弥陀仏。」

と、しばしの間、回向なされたのでした。

 そうしていると、不思議なことに、どこからとも無く、赤ん坊の着物がひとつ現れて、

厨子の扉に打ち掛かったのでした。人々が、おやっと思って眺めていると、父蓮浄は、

「おお、蓮花坊よ。この薄衣は、お前が幼かった時に、お前の母親がしつらえて、着せ

てくれた着物に間違い無い。これは、いったいどういうことか。この寺の住職に尋ねて

みよう。」

と、住職に尋ねましたが、心当たりが無いと言うばかりです。親子が、不思議がっていると、

突然、厨子の扉が、さっと開いたのでした。人々が驚いていると、厨子の中から、異香

が漂い、有り難いことに、自然と御帳を開いたのでした。なんという不思議なことでし

ょうか。そこには、在りし日の蓮花上人の母上が、いらっしゃいました。人々は、いよ

いよ感歎して、拝みました。その時、蓮花上人の母上は、

「久しぶりの蓮花坊。母の言葉を守り、仏道修行に勤めている様子。神妙なことです。

さて、只今の薄衣は、疑いも無き親子の証拠です。無仏の者を仏道に向かわせようとする

大慈大悲(観音菩薩)の誓願の顕れです。ですから私は、かつて人間に交わり、生活を

共にして、草芥(そうかい:ゴミ)の土に穢れたのです。このことを、眼前に見たからは、

疑問に思うことはひとつとしてありません。他力本願の勧めは、一向一心に、南無阿弥

陀仏の名号を唱えることです。ますます念仏して、衆生を済度しなさい。私の教えは、

これだけです。それでは、お別れです。」

と、有り難くも、お話になりました。蓮花上人親子、住職、随行の人々も、皆、随喜の

涙を流しました。蓮花上人は、

「さてもさても、有り難い言葉。願わくば、本当のお姿を、拝ませてください。」

と、涙ながらに問いかけました。母上は、

「それでは、疑いを晴らさせてあげましょう。よくよく、尊っとみなさい。」

と言うなり御帳を閉じました。暫くすると、厨子の中から、有り難い声が聞こえてきました。

「今在西方名阿弥陀(こんざいさいほうみょうあみだ)娑婆示顕観世音(しゃばじげん観世音)

(※今は、西方浄土に阿弥陀仏として念仏の衆生を救い、現世には観世音菩薩となって

顕れて、苦しみの衆生を救う)

願えや願え、衆生よ。南無阿弥陀仏。」

すると、御帳がさっと開いて、金色の十一面観音が、光を放って現れたのでした。

 さては、蓮花上人の母上様は、石山寺の観音様であったかと、末代までも語り継がれたのでした。

さて、それから蓮花上人は、念仏の大道心、石山寺中興開山の善知識となられたのでした。

衆生済度の御方便、二世安楽の御誓い、仏法繁盛。

有り難きとも中々、申すばかりはなかりけり。

おわり

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