猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語32 古浄瑠璃 親鸞記 ②

2014年06月19日 19時02分10秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

しんらんき  

内裏において、善信房が歌の名誉を受けたことは、まるで仏の化現を思わせる様な出来事でした。さて、ある時、善信房は、修行のため六角堂(紫雲寺頂法山)にお籠もりになりました。すると不思議な事に、満月の夜に、観音様が白衲(びゃくのう)の袈裟をお着けになって、善信房の枕元に立たれたのでした。観世音は、有り難い事に四句の文をお授けになったのでした。

「行者宿報設女犯(ぎょうじゃ しゅくほう せつにょぼん)

  我成玉女身被犯(がじょうぎょくにょ しん ひぼん)

 一生之間能荘厳(いっしょうしけん のう しょうごん)

 臨終引導生極楽」(りんじゅう いんどう ごくらく)

 (そなたがこれまでの因縁によって、たとえ女犯があっても、私が玉女という女の姿となって、肉体の交わりを受けよう。そしておまえの一生を立派に飾り、臨終には引き導いて、極楽に生まれさせよう。)

 「これは、私の誓願である。一切の衆生にこれを説き聞かせなさい。」

 と仰ると、観世音は、掻き消す様に消えたのでした。善信房は、夢から覚めると、かっぱと飛び起きました。それから、善信房は、思う所があって、黒谷(京都市左京区岡崎:光明寺)の法然上人を尋ねました。すると、法然上人は、こうお話になるのでした。

 「昨夜、不思議な事に、六角堂の観音様の夢を見ました。」

 そうして、授かったという四句の文をお書きになったのでした。それは、善信房が授かった四句の文とまったく同じものだったのです。こうして、善信房は、法然上人と師弟の契約をなされたのでした。時に、善信房、御年二十九歳のことです。善信は大変優秀であったので、どちらが師匠でどちらが弟子か分からない程でした。

  さてその頃、九条の月輪殿(関白太政大臣九条兼実)は、法然の説法をご聴聞なされて、仏智にお近づきになっておりました。その日も、沢山のお供を連れて、黒谷へお参りになりました。月輪殿が、法然上人に

 「この間は、都合がわるくなって、お参りすることができませんで、申し訳ありません。」

 と言いますと、法然上人は

 「何処に居ようと、心にさえ掛けておられるのなら、阿弥陀の本願から漏れることはありません。阿弥陀の本願と言うものは、『本は、凡夫の為、予ては聖人の為』(歎異抄の引用)にあるのです。」

 とお話になったのでした。九条の月輪殿は、仏法に深い理解がある殿上人でありましたので、

 「これは、誠に有り難いお話です。この上は、どうか御弟子の中からお一人、私に戴きたい。それを菩提の知識とし、後世の成仏を願いたいと思います。」

 と願いました。法然上人は、

 「委細、承知。」

 と答えると、善信房を呼んで、九条殿へ移るようにと命じたのでした。善信房は涙を流して

 「どうして、その様なことを仰せになられるのですか。思いも寄らない事です。」

 と、断りましたが、法然上人は、

 「おまえの気持ちも尤もなことではあるが、これも私の義ではないぞ。これこそ六角堂の観世音の教えなのだ。六角堂で授かった四句の文の説く所は、まさにここだぞ。何の疑いがあろうか、早く用意しなさい。」

 と迫るのでした。善信房は、法然上人とは離れがたく感じましたが、四句の文の教えを考えれば、観世音の教えに逆らうわけにもいかず、法然上人のお計らいと自分を、無理矢理に納得させて、九条殿へとお移りになられたのでした。九条の月輪殿は、大変にお喜びになって、そのまま、娘の玉女(玉日)を、坊守(ぼうもり:真宗僧の妻)に備えたのでした。

  親鸞上人は、こうして真宗という法を確立なされて、一向専修の法を、お説きになられました。都中の老若男女が貴賤を問わず、こぞって聴聞にやってきたので、夥しい人々が、親鸞上人の説法を聞いたのです。親鸞上人は、高座に上がられて、第十八願をお説きになられました。

 「説我得仏 十方衆生(せつがとくぶつ じっぽうしゅじょう)

 至心信楽 欲生我国(ししんしんぎょう よくしょうがこく)

 若不生者 不取正覚」(にゃくふうしょうじゃ ふしゅしょうがく)

 「この文は、『もし、私が仏になる時、すべての人々が、心から信じて、少しも疑わずに、仏の国に生まれたいと願って、念仏を唱えたのに、もし、救われ無かったのなら、私は、決して悟りを開きません。』と言っているのです。又、いろいろな修行も一切やめて、一心一向に念仏を唱えなさいという教えは、神にお祈りをするなということではありません。何故かと言えば、神も仏も、これは、水と波の違いでしかありません。神というのも元々は仏様なのです。仏様は、衆生を済度する為に、あちらこちらに神々として顕れて下さり、色々な奇蹟をなされるのです。ですから、水を指して仏と言ったり、波を指して神と言ったりしますが、一滴万水、根本は只一つなのです。このように考えて行きますと、根源の阿弥陀如来を念ずれば、神様にも必ず通じていることになるのです。特に、皆さんの様に、愚痴無知の人々は、未だ目にもしない遠い未来のことを念ずより、今現在の利益を、身に余る程願いますが、そうした祈誓の為に、神様は、五衰三熱の苦しみを味わっておられるのですよ。明けても暮れても六塵の煩悩にまみれて、いつまでもこの国に居たいと願っている人ばかりですが、この世は、一休の世界と言って、一休みをする国でしかないのです。永遠の国である後世での成仏を願わなければ、あっと言う間に、地獄へ落ちてしまうのですよ。そんな悲しい事にならない様に、私は、皆さんに説法をしているのです。さあ、皆さん。この教えを信じ、雑行雑修(ぞうぎょうざっし)の心を振り捨て、一心一向に「南無阿弥陀仏、助け給え」と念じなさい。もし、念じた人が一人でも地獄に落ちたのなら、私はその人に替わって八万地獄に落ちるでしょう。南無阿弥陀仏。」

 親鸞上人のお話を聞いた人々は、弥陀如来の化現であると、皆涙を流して拝むのでした。

 つづく

 


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