猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語32 古浄瑠璃 親鸞記 ⑥ 終

2014年06月23日 12時43分30秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 しんらんき ⑥ 終

  さて其の頃、常陸の国の国主、佐竹の形部左衛門殿は、毎年欠かさず熊野詣をされていました。今年も、栗本房、尚信法印を先達にして、熊野へと向かわれました。佐竹殿を初めとして、お供の者一千七百余人は、やがて三つの御山に籠もられました。すると、夜半になって不思議な事が起こりました。御内陣の中から、金色の光が輝き出したのです。人々がこの光を拝んでいると、権現様が顕れました。ところが、予想外にも、権現様は、遥か末座に座っていた横曽根の平太郎という者に対して合掌をなされて、又陣内へと戻られたのでした。これを見ていた、佐竹殿は腹を立て、栗本房と尚信に向かい、

 「私はこの山に、毎年参籠しているというのに、たいした利益も無い。ましてや、御房達の様な聖人に対して奇蹟が起こったのなら、恨みも無いが、あの様な、卑しい人夫風情に、後光が射し、その上権現が、礼拝までするとは、いったいどういうことか。こんなものを、信じてられるか。もう帰るぞ。」

 と怒鳴るのでした。栗本房も尚信も、佐竹殿をなだめて、

 「確かに、仰せはご尤もです。佐竹殿は既に二カ国の立派な主であり、位の高いお家柄であるのに、相手にされず、道端の死人を弔う、あの様な卑しい男に礼拝するというのは、きっと何か、特別な事情があるに違いありません。もう二三日、お籠もりあって、夢のお告げをお待ちになった方が良いと思います。」

 と、進言したのでした。佐竹殿は考え直して、山籠もりを続けることにしました。そうして三日目の明け方に、御内陣から、お声がして、一首を詠じました。

 「千早振る 玉のすだれを 巻き上げて 念仏の声を 聞くぞ嬉しき」

 これを、聞いた佐竹殿は、有り難や有り難やと、念仏を三遍唱えたのでした。熊野権現は喜んで、もう一首を詠ずるのでした。

 「卑しきも 高きも並べて 頼みつつ 南無阿弥陀仏と 言うぞ 嬉しき」

 佐竹殿は、これを聞くなり、

 「ははあ、これより、私は念仏の行者となります。」

 と答えると、夢が覚めました。早速、栗本房と尚信法印に、夢のお告げを話すと、二人は、

 かの平太郎を呼んで、話しを聞くように勧めました。佐竹殿が平太郎を招きましたが、平太郎は、そんな高い身分の人と同席はできぬと、固辞しました。そこで、佐竹殿は、自分から平太郎に近付くと、

 「この間は、どうしてあの様な、霊験を受ける事ができたのか。」

 と、尋ねたのでした。平太郎は、こう答えました。

 「いや、なんの心当たりもありませんが、只、私は最近、親鸞上人様の弟子となり、一大事を授かって、念仏行者となったのです。それからは、身分の高い人を羨まず、身分の卑しさは気にせず、自分に辛く当たる者がいても敵対せず、明けても暮れても、只、一心一向に念仏を唱えるだけです。ひょっとすると、このことが、今回の不思議な出来事の原因かも知れません。」

 これを、聞いた佐竹殿も、二人の山伏も、頭巾篠懸を金繰り捨てて、この平太郎の弟子となったのでした。佐竹形部左衛門は、それから平太郎を伴って、上洛なされ、今回の霊験を奏聞しました。御門が、

 「此の度の、希代の霊験。どうすれば、その様に神慮に叶うのか。」

 と問うと、平太郎は畏まって、

 「ははあ、この頃、常陸の国へ親鸞上人がいらっしゃいましたので、常々説法をうけまして、一大事を授かりました。これ以外に、心当たりは御座りません。」

 と答えたのでした。すると、御門は、

 「そもそも、仏の加護を願うのに、神慮による霊験を受けるのは何故か。」

 と聞きました。平太郎は又、畏まって、

 「去れば、神と言いますのも、その根源は、仏様でいらっしゃいます。例えば、伊勢大神宮を御神(おんじん)と拝めば、五智の如来を拝むことであります。外宮四十末社は、弥陀如来。内宮八十末社は釈迦如来。ですから、伊勢道(いせみち)を四十八町に踏み分けますのは、弥陀仏の四十八願を表しているのです。」

 と、申し上げるのでした。御門は、感心なされて、

 「おお、平太郎は、大変な知者である。」

 と言うと、忝くも平太郎に、「神仏上人」という名を下されたのでした。驚いた平太郎は、

 「親鸞様を、上人とはお呼びこそすれ、私は神仏房で結構です。」

 と辞退するのでしたが、綸言汗の如し。平太郎は、神仏上人となって、常陸へとお帰りになられたのでした。

  さて、其の頃、都では不思議な事件が起きていました。突然に三日の間、洛中は真っ暗な闇に包まれたのでした。大に驚いた御門が、天文の博士に占わせてみますと、博士は、

 「むう、これは、都に御座あるべき上人様が、いらっしゃらないので、天の咎めが下っているのです。」

 と答えるのでした。御門が、

 「急いで、親鸞上人を、都へ戻す様に。」

 と、宣旨なされると、直ちに勅使が、常陸の国へと急行しました。勅命を受けた親鸞上人は、鹿島の神主に笈を負わせて、都へ向うのでした。さて、その道中、相模の国、国府津(こうづ:神奈川県小田原市)という所に来ますと、背丈五尺ぐらいの大関が、がき苦しんでいるの会いました。親鸞上人が、その指で、「帰命尽十方無礙光如来」(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)と書くと、直ちに文字が顕れ、大関の命は救われたのでした。今に至るまで、帰命堂というのはこのことです。(真楽寺帰命堂)親鸞上人は、ここで七日間、御法談をなされました。それから、親鸞上人が箱根の御山を越えようとする時、箱根権現は、60歳ぐらいの尼公となって顕れました。箱根権現は、他力易行の念仏を授かると、親鸞上人を様々にもてなすのでした。京までの途次、これ以上に様々の不思議なことがありましたが、ようやく都にご到着になった親鸞上人は、早速に参内されました。御門は、

 「京洛中において、衆生済度をしてください。」

 とお頼みになりました。こうして、親鸞は、西洞院、押小路の東側(京都市中京区二条西洞院町663付近)の辺りで、御説法を始めたのでした。神仏上人は、早速に佐竹殿を、親鸞上人の所へ連れて行き、一大事を与えてもらいました。こうして佐竹殿と神仏上人は、常陸の国にお帰りになり、稲田の里にお寺を建て、布教をしました。さて、親鸞上人は、それからも広く御説法されましたが、御年満九十の年に、西方安養極楽世界へお帰りになりました。東山(善法院)にて弔いが行われ、お骨は大谷に納められました。大谷本願寺というのは、この時にできたのです。親鸞亡き跡を継いだのは、如信上人です。(孫:嫡子善鸞は勘当された)それより代々、知識が輩出し、浄土真宗は、日本第一の宗旨として栄えるのです。真宗に、宗旨変えをしない者はありませんでした。

 おわり

 


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