猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち13 説経弘知法印御伝記④

2012年07月19日 17時02分44秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

弘知上人三段目 

 その後、弘友は、心に懸かることはもう無いと、高野山を目指すことにしました。その

途次、弘友は、柏崎にある越後の高野山と言われる国分寺の五智如来にやってきたので

した。この如来と申すのは、四十五代聖武天皇の勅願によって、行基菩薩が開眼した日

本屈指の霊仏です。秋弘は、

「私にはもう浮き世に望みはありません。発心堅固に成就して、六根清浄の身となり、

現に即身仏にさせて下さい。」

としばらく願念し、その夜は、そこに泊まることにしました。そこへ諸国行脚とおぼし

き六十歳ぐらいの老僧がやってきました。老僧も仏に礼拝すると、後ろの格子の近くに

座ると、座禅をして観法を始めました。既に、その夜も更けて、無常を示す寺の鐘の音

が澄み渡ります。漆黒の闇の中で弘友は、自分の身の上も身体も肌寒い限りです。磯に

寄せる波に驚いて、鳴き交わす浜千鳥の声を聞くにつけても、昔のことが恋しく思い出

されて、心細さは限りありません。その時のことです、浦風が一陣に吹き渡り、身の毛

もよだつと思うところに、どこからともなく一人の女が現れました。女は、

「お久しぶりです弘友殿。人の恨み、世の嘲りをも弁えず、色に耽って頓着の想いに身

を沈め、夢現とも分からずに暮らしたその人の昨日の姿とは見違えるようなお姿ですね。

浮き世の夢から覚める時が来ましたね。目を醒ましなさい。弘友殿。」

と言うのでした。驚いた弘友が、

「これは、この世の物とも思えぬ声音で、弘友と言うのはどなたですかな。このような

夜中に、女の声とは覚えもありませぬ。」

と答えると、女は、

「覚えもないとは恨めしい。二世と契った睦言を、早くもお忘れですか。私は、あなた

に斬り殺され、その恨みが尽きることはありません。生死は無常とは言いながら、女の

身で、冥途に落ちる罪障は、どれ程のものとお思いですか。魂は冥途で苦しみ、魄は未

だに娑婆で彷徨っているのです。その恨みを語るその為に、こうして仮の姿を現したのです。」

これを聞いて弘友は、

「さては我妻の柳の前か。お前を殺したのは私では無い。今、分かったぞ。いつぞやそなたが、

惣次を遣いにして父の事を知らせた時に、忍び逃げる為に、馬子と衣装を取り替えて、

つまらぬ謀をしたために、お前が、馬子を私と間違えたのも無理は無い。又、その馬子

もお前を知らないから、逃げるために誤ってお前を切り捨てたのだろう。お前を切った

刀は、私が馬子に貸した刀であるから、手には掛けなくとも私が切ったと同じこと、凡

夫の身では知る由もないことだが、このように深く謝るので、これ皆、前世の因縁と思

い、恨みを残すなよ。私も、このように親の勘当を受け、お前を殺した罪咎を発端とし

て発起して、菩提心に目覚めたのだ。どうか恨みを残すなよ。」

と深々と頭を下げれば、柳の前の霊はこれを聞いて、

「それは、嬉しいことです。その心があるならば、最早、恨みを残すことも無いでしょう。

しかし、凡夫の身の悲しさは、火に遭っては水を求め、水に遭っては火を求めるものです。

その時々の苦しみによって、変わり易いのが凡夫の心です。只今のあなたの道心は、親

の勘当を受け、妻子とも別れた悲しみのあまりに起こったことですから、これは皆、色

相の迷いから起こったことです。執愛恋慕の迷い、煩悩のおかげなのですよ。」

と言うのでした。弘友は、これを聞いて、

「安心しなさい柳の前よ。三千大千世界は滅びても私の発心が揺らぐことは無い。おお、

忘れていたことがある。千代若は、父秋弘に預けたので、ちちの跡を継ぐことに間違い

無い。千代若のことは心配せずとも良いぞ。」

と言えば、柳の前は、

「やれ、それこそ凡夫の心。どうして仏になった者に愛着心というものがあるでしょうか。

娑婆においては、色身に隔てられて分からぬことですが、今は私には色身はありませんから、

千代若と慣れ親しむようなことはもう無いのですよ。」

と話していると、座禅をしていた老僧が怒鳴りました。

「やあ、そこに居るのは何者であるか。先ほどよりここで聞いて居れば、事の子細は

分からぬが、このような尊い仏前において、若い男女が密会のていたらく。言語道断である。

逢い引きならば、御堂を出て、どこででも密会せよ。早く出て行け。」

その時、柳の前の姿は忽ちに消え失せたのでした。弘友が、

「私は旅の者。菩提心を起こして高野山に向かう途中、幸いにもこの如来堂に立ち寄り、

通夜をいたしますが、女人と逢い引きとは解せません。」

と言えば、老僧は、

「今まで、若い女と話して居ながら、そうでは無いと争うは曲者。盲語戒を破っておいて、

高野山を目指して何になるか。」

と恫喝しました。弘友が、

「しかし、ここに女などおりません。こちらへ来て見てください。」

と言うので、老僧が近づいてみると、成る程、女の姿はありません。老僧は、あっけに

とられて、

「先ほどは、確かに女がいた。今ここに居ないのも確か。しかしお前が羽織る小袖は、

女物。どうやら何か訳があるようじゃが、子細も知らずにとやかく言うのも盲語戒である。

本より愚僧は、高野山の奥院の者であるが、思うところあって、北陸道を行脚する者、

懺悔は罪を滅ぼす。有りの儘に話してみなさい。」

と言うと、弘友はこれを聞いて、これまでの事の次第や、妻の霊魂の現れたことを、有

りの儘に話しました。そして、老僧に向かい、弟子にして欲しいと手を合わせて願ったのでした。

老僧は、

「おお、それは誠に哀れな話。親子夫婦のことは前世よりの因縁であるから、良きにつけ

悪しきにつけ、善行を積むしか輪廻を断ち切り法は無いが、見性して道を悟ることができれば、

善悪共に生滅して、永久に生死の迷いから解脱する。だが、迷っている間は、六道の輪

廻から逃れることは永久に出来ないのだ。よろしい、望みであれば、愚僧の弟子になりなさい。」

と答えました。やがてその夜も明ければ、剃髪し「弘知」と改名しました。後の弘知法

印です。

老人は、弘知にこう言いました。

「如何に弘知。仏法を成就して、六根清浄になりたいと思うならば、我が身を我が身と

思ってはならない。我が身を我が身と思わなければ、一切衆生は我が身である。自他の

区別など存在しない。自他の区別をしなければ、天地の全ては、一仏一心である。そし

て、天上天下唯我独尊となる。」

弘知は、大変喜んで、夢から覚めた心地です。感激した弘知が、

「今までは うきよの夢に迷いつつ 醒むればひとり 月ぞさやけき」

と詠じれば、老僧も喜んで、

「夢も無き 世を我からと夢にして 醒むる見れば 夢にても無し」

と一首を連ねると、

「我をば誰と思うか。我こそ弘法大師であるぞ。」

と言い残して、忽然と消え失せたのでした。弘知は有り難い有り難いと、三度拝むと、

高野山を目指して、更に行脚の旅を続けたのでした。

 さて、高野山への旅も、紀州路となった頃のことです。近づいて来た女が声を掛けてきました。

「もしもし、お坊様。頼みたいことがあります。」

弘知は、女の声と聞いて、無視して通り過ぎましたが、女は更に追いすがって、

「これは慈悲も無い沙門殿。事の子細も聞かないで、修業者とは言えないでしょう。」

と言いました。弘知はそれも尤もと思って、何事であるかと、近づいて見ると十六ばか

りの美しい姫が、黄金の釜を抱えて立っていました。女は、縋るようにしてこう言うのでした。

「のうのう、お坊様。私は、幼くして父を失い、母に育てられましたが、その母も先日

亡くなりました。その母が末期に、黄金の釜をある所に埋めてあるので、それを

掘り出して、誰でもよいから夫婦となって、世過ぎの足しにしなさいと言ったので、この

ように黄金の釜を掘り出して来ました。あなたに出合ったのも他生の縁。私をどこにでも

お連れいただき、この黄金で一緒に暮らしてください。どうか宜しくお願いいたします。」

女は、馴れ馴れしく迫ってきました。驚いた弘知は、思わず跳びし去って、

「これは、とんでもない事を。そのようなことに、返答も必要ない。」

とその場は足早に立ち去ると、女は更に追い縋ると、

「我こそ第六天の魔王なり、お前の修業を邪魔するために来たのだ。」

っとばかりに、忽ち悪鬼となって襲いかかって来ました。しかし、弘知は少しも騒がずに、

手にした数珠を投げつけました。すると、数珠は般若の利剣となって悪鬼を切り払いました。(※弘法大師が「般若心経」を解説した「般若心経秘鍵」に「文殊の利剣は諸戯を断つ」とあり、これを引用したものと思われる)

魔王はとても敵わず、有り難き法力であると虚空に飛び去ると、利剣は本の数珠に戻って

弘知の手に返ったのでした。さて、それから弘知は高野山の奥院に閉じこもって修業を

重ねたのでした。弘知法印の法力は、有り難い限りです。

つづく

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