猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 15 説経石山記(蓮花上人伝記) ①

2012年12月13日 11時40分03秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

天下一石見掾藤原重信(天満八太夫)正本

延宝から元禄頃

つるや板

 この説経では、大津にある石山寺の十一面観音の本地を、蓮花上人の生涯を通して説

く物語である。しかし、石山寺の本尊は、如意輪観音であって、十一面観音では無く、

蓮花上人なる人物の存在も確認することはできなかった。同じ近江の中で、十一面観音

は数多くあり、例えば渡岸寺等が有名であるが、この話しの中では、他の具体的が寺の

名称は出てこない。従って、この説経の設定は、かなり架空の設定であるということに

なりそうだが、内容的には、念仏「南無阿弥陀仏」の奇瑞を通して、浄土教の思想を語

りかける点で、十分古説経の演劇的世界を感じることができる。また、「身代わり名号」

の説話は、日本各地に残されている点からも、当時はかなりポピュラーな題材であった

と言えるだろう。

れんげ上人伝記 ①

 それ、一切の衆生は、無碍光(むげこう)を発する阿弥陀如来のお名前を聞き、生死の

苦界から脱して解脱に至ることは、ひとえに、念仏往生の一道にあるのです。

  ここに、「身代わり名号」の高僧、蓮花上人の由来を詳しく尋ねてみると、人皇百

一代、後小松天皇の世、明徳(1390年頃)の頃のことでありました。紀州の藤白(和歌山県海南市藤白)

というところに、下河辺弾正左衛門国光(しもこうべだんじょうさえもんくにみつ)と

いう猛悪無道の荒くれ者がおりました。元はといえば、近江の国高嶋郡(滋賀県高島市)

の杉山兵衛の尉(ひょうえのじょう)と言う者でしたが、志賀郡を治めていた、梅垣監

物豊重(うめがきけんもつとよしげ)を、たいした理由も無く討ち殺したので、近江の

国に居ることが出来なくなったのでした。杉山は、母方の叔父を頼って、国光と名前を

変えて、紀州の国に潜伏していたのです。それから、年月は流れ、十七年が経ちました。

弾正国光には、形部の介国長(ぎょうぶのすけくになが)という男の子が一人おりますが、

元より大酒飲みで好色、人の情けも顧みぬ、悪逆深き傲り者でした。

 

 これはさて置き、討たれた豊重の一子、梅垣権太郎豊春(うめがきごんたろうとよはる)

は、その時七歳。豊春は、幼少にもかかわらず、敵を捜し回りますが、敵の行方は知れません。

無駄に年月をすごしていましたが、十九歳の春に、敵が名を変えて、紀伊の国に潜伏し

ていることをつきとめ、母上を連れて、和歌浦(和歌山県北部)へとやってきました。

明け暮れ、敵を捜しますが、なかなか、敵の居所がつかめません。とうとう、生活にも

困窮して、賎の手業に身を落としていましました。親孝行の豊春は、七十歳になる老

母を、土車に乗せて浜辺に出ては、潮を焼いてその日を過ごしていたのでした。

 さて、浜では、沢山の海女達が、潮汲みに出ています。海女達は、豊春親子を見ると、

「さてさて、あの人は、毎日、老母を土車に乗せて浜にやって来て、仕事の合間に母を

労る、その様子は、まったく奇特なお方であるな。私たちも、そんなふうになりたいものだ。」

と、話すのでした。そんな海女達の中に、若の前という大変優しい女がおりました。若

の前は、汲んだ潮を下ろして、豊春の傍に立ち寄ると、

「あのう、私は、この浦の潮汲み海女ですが、あなたのお姿を見ていると、卑しい賎の

仕事をするような方には見えません。特に、毎日、老母を乗せて土車を曳く、その孝行

深いお姿に大変、感心しています。」

と、優しげに声を掛けました。豊春は、

「ああ、そのような、お優しいお言葉掛けは、どのようなお生まれの方でしょうか。

私はと言えば、かつては、知る人は知る身分ではありましたが、ある事件によって、国

を出て、只一人の母上に、貧苦の苦しみを遭わせることになってしまいました。このこ

とが、なんといっても、一番の悲しみです。」

と、力なく答えたのでした。若の前は、これを聞くと

「まったく、世の中というものは、どうなるか分からないものです。私も、元は卑しい

身分の者ではありませんでしたが、父にも母も死んでしまい、住むところも無くなり、

頼むところも無いままに、仕方なくこのような仕事をするようになったのです。

 ところで、あなた様は親孝行で、お情け深い心がおありのようです。私を哀れとお思

いになり、もらっていただけるなら、私も一緒に働いて、老母の面倒を見たいと思います。

あなたが、山へ行き、私は浜へ出て、あの母上を自分の母と思って、一緒に孝行させてください。」

と、言うのでした。豊春は、これを聞いて、

「先ほどよりの情け深いお話。特に、老母を共に労ってくれるという志しは、大変嬉し

いことです。しかし、母上のお気持ちを尋ねなければ、お答えできません。母上のお心

次第にしたいと思います。それでは、こちらへ。」

と、母の傍に連れて行き、事の次第を母に語ったのでした。母はこれを聞いて、

「さてもさても、姿と言い、心といい、由緒ありげに見受けます。このような、世にも

浅ましい婆の面倒を見ようとは、これも前世の縁の結びかもしれませんね。

 のう、豊春よ。このような優しい女性こそ、末頼もしい奥方になるでしょう。一緒に

庵に連れて帰りましょう。さあさあ、早く早く。」

と、言いました。こうして、仮初めながら、浜路において、親子夫婦の契約をなされると庵に帰り、

三人で、仲睦まじく暮らし始めたのでした。

 さて一方、ある時、弾正左衛門国光は、一族郎党を連れて藤白峠に陣を張って、狩り

を行いました。岩代(和歌山県日高郡みなべ町)の山谷に入り、狩りに興じておりました。

そのうちに、関山という大変険しい山中の松の大木に、鶴の巣を見つけたのでした。

勢子達は、


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