断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

Monetary Realism...派は、Modern Monetary Thory...派とは、違うんだそうである。

2013-06-21 20:14:49 | 欧米の国家貨幣論の潮流
と、まあ、次から次といろいろ出てきて困るんだが、


実際のところ、L. Randall Wray のModern Monetary Theory の入門書という位置づ
けで出版されて、
で、実際読んでみて、多少の違和感を感じないでもなかった。
まずは、なんだか、前に Wray 自身が書いていたことと、やや雰囲気が変わってし
まっていたことが
第一だが、それは
Wynne Godley の影響が強くあったことなども、理由の一つなんだろうな、
と、思ってみたりもした。けど、
Godley とも、何とも違和感のある感じで、ちょっと戸惑っている。
で、
そんな中で、Modern Monetary Theory にやはり、違和感を感じていた人もいたよう
で、
(と、言ったって、おいらと同じ意味で、というわけではあるまいが)
たとえば、Cullen Roche と、いう人などが、新しく名乗り始めたのが、
Real Monetary 派 と、でもいうようなものらしい。
但し、Roche自身は、MMT も RM も、どちらもポストケインジアンの一流派だ、
と、言っている。ただ、この流派というのが、往年の
ホリゼンタリストにたいする構造派というのとは、ずいぶん違った雰囲気であり、
Roche 自身によると、

MMTでは、
「貨幣」とは、政府に由来するものであって、銀行預金通貨は含まれない、と考える
のに対し、
MRでは、
銀行預金は主要な貨幣であり、かつ、民間銀行により創造される。

MMTは
中央銀行の準備が貨幣ヒエラルキーの「頂点」にある、とするのに対し、
MRでは、
中央銀行準備は銀行間の決済を行うための手段であり、
単に銀行貨幣を支えているに過ぎない

MMTは
租税により、貨幣は「破壊」される
MRでは
租税は、既存の銀行貨幣を再分配する

MMTでは
政府は、貨幣の独占的支配者であるが
MRでは
政府は、貨幣の創造を、民間銀行に外注委託している。

MMTでは
貨幣は、政府とともに誕生することになるが、
MRでは
貨幣は政府の組成に先行し存在しており、より原始的な"種"である。
(アルチュセール的な物言いになってしまうが)

MMTでは
連銀も財務省も、「国家」として連結されている、のに対し
MRでは
連銀と財務省は、種差的に区分される。連銀及び民間銀行は
特権的なグループから貨幣を創造する権力を取り上げ、分散する形で
制度化されている。

と、簡単に7つ挙げているが、
でも、ここで言われているMMTというのは、
もちろん、法制度的な話をしているのではなくて、
実際の機能の話をしているのだとしても、やはりMMT自身の
現実認識とは、やや違うんではないかな、という気がする。
それもあるが、同時に、これだとMRって、CT (Circuit Theory) と、
どう違うの? と、いう話になってしまうんではないだろうか。

おいら的に考えると、
確かに、銀行預金を貨幣と考えないとしたらそれはナンセンスだが、
しかし、銀行預金は、支払い手段として用いられる場合は
他者宛手形(為替手形)の一種であって、最終的に
中央銀行預金によって決済されることが保障されているからから、
一つの「計算貨幣」による額面表示額通りの交換が維持されているのは
事実であるわけで、ここにヒエラルキー構造を見ないわけにはいかない。
簡単に、連銀の準備を facility と、呼ぶことはできないんじゃないだろうか。
実際、これを権力のヒエラルキー構造と考えないのであれば、
最後の主張、つまり、貨幣の創造圏を銀行に分散している、という主張の意味は
ないんじゃないだろうか。経済主体は、だれでも手形を発行できる。だが
発行した手形を受け取ってもらえるかどうか、さらには、
それが社会的(限られた範囲でも)に流通するかどうかは、
それが、より上位の負債によって、後日、精算されると
「社会的に」信用されるかどうかにかかっている。
商業手形は、銀行預金に。銀行預金は、中央銀行預金に。
こうしたヒエラルキー構造があるから、銀行預金のみならず、
民間企業の発行する手形も裏書流通しうるのであって、
このヒエラルキー構造がなければ、
円滑な決済は不可能だろう。
これがあるから、民間の振り出す商業手形が
「贋金」にならないですむわけである。

また、MMTが、「租税によって、貨幣が破壊される」と、主張している、
と、いうのは、正しい認識といえるんだろうか。
少なくとも、Wrayの"Understanding Modern Money"では、
貨幣は、政府が、遊休労働力を雇用するときに政府の負債として発行され、
それが、租税により政府に回収された時点で破壊される、そうある「べきだ」と
言っていたのであり、現実に、少なくともアメリカの貨幣システムが
そのようなものだといっていたわけではなかったように思う。
いろいろなスタンスがあるのは事実だが。。。

また、MMT では、JG(Job Guaranty)が、そのプロジェクトの中心にあるのに対し、
MRでは、理論の中心に位置しているわけではない、ということだが、

そおおおねえぇぇぇ。。。。。。

日本で、「純粋理論」なんてものに携わっている人たちからすれば
MMT が、今一ついかがわしく思われる理由として、
この Employer of Last Resort プロジェクトがあるんじゃないだろうか、
と、まあ、おいらなんか、前々から感じているところなんだが。。。。
要するに、日本の学問的雰囲気としては、
学問と政治経済的実践(あるいはプロジェクト)とは区別されるべきだ、
と、いう感覚が、根強くあるんじゃないかなあ、と、いうわけで、、、
(もっとも、そう言っている人たちが、政府の何とか審議会やなんかに呼ばれると
ホイホイ足取りも軽やかに出かける姿も見たことがないわけではないが。)

しかし、興味あることはあるので、
もう少し、注目してみよう。


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