断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

MMTの基礎の基礎の話(名目価値)

2020-06-27 07:34:30 | MMT & SFC
実は、先日の知恵袋で
貨幣の名目価値と実質価値の話を質問され、
で、どう回答したもんか、考えているうちに回答期限が終わってしまた。。。。

と、まあよくあることなので、別に気にもしていないのだが、
ただ考えてみると、この話ってMMTの基礎の基礎というか、
MMTそのものということになるのだけれど、
実は今、日本でMMT、MMTといっている人たちの間では
ほとんど理解されていないんじゃなかろうか、、、、、、
と、そんな気がし始めたので、確か、以前も同じテーマで書いたことあったような
気もするけれど(あんまり覚えていない)、
まあ、繰り返しをいとわず、取り上げることにした。
確かにこれってわかりにくい話かもしれないけれど、
MMTの基礎の基礎なので(というのはつまりMMTがわかりにくい話だ、
ということだが)、MMTについて語るなら、やっぱりきちんと
理解してほしい。

さて、MMTが重視しているのは、まず何よりも
貨幣の「名目価値」すなわち「単位」の話である。つまり
1円はなぜ1円なのか、米1ドルは、なぜ全アメリカで
1ドルで通用するのか、なぜ同じドルでも米ドルと加ドルと
豪ドルと香港ドルとでは1対1で交換できないのか、、、、こうした話である。
それに対して、貨幣の「実質価値」とは、要するに
1円で何をどれだけ購入できるのか、という話で、いわゆる貨幣の「購買力」と
いうやつのことだ。
通常、経済学やジャーナリズムで問題にされるのは
貨幣の「実質価値」、あるいは時間を通じての「実質価値」と「名目価値」の
乖離(要するにインフレーションやデフレーション)であるわけだが、
MMTは貨幣の「名目価値」にこだわる。これはなぜか。

通常の経済学では、主流派マルクス派を問わず、常に貨幣の名目価値は
所与として与えられ、一度決まったら、問題にされることはない。
一般均衡論にせよマルクス派にせよ、貨幣の名目価値とは、
交換される商品の中からある一つの商品をほかの商品を単位として
交換比率を表現するものに
過ぎない。もちろん、こうしてひとたびいずれかの商品が貨幣として
規定されれば、そこには独特の意味が与えられる。
サーキットセオリーでは、貨幣の存在が社会関係の中に「貨幣空間」を定義付けるが
しかし貨幣単位の存在そのものは所与として与えられ、
疑問に付されることはない。マルクス派では価値形態の
存立構造は重視されるが(ここでは歴史説や歴史論理説はとらない)、
しかし「単位」――貨幣である金商品の単位が「ポンド」であろうと
「ドル」であろうと「にゃんこ」であろうと――がどう決まるかは
ただの歴史的偶然に過ぎない。誰がどのようにして決めるか、
いかにしてその単位が、単位として再生産され続けるのかは、
改めて問うべき必要性のない形式的な話である。

MMTはこうした考え方に異を唱えているわけだ。なぜなら彼らによると
これが現代の経済システムを考えるうえで、避けて通れない問題のはずだからである。
MMTの考えでは、国内(この「国」という概念もまた、
めんどくさいのだが)で統一された貨幣単位が成立するのは
それほど古い話ではない。
メソポタミアやエジプト、
ギリシア、ローマの古代時代からヨーロッパの中世、
さらには19世紀のアメリカに至るまで、
ヨーロッパ人が世界史としてイメージする世界においては
長らく複数の貨幣単位が一地域内に存在していた。現代でも
呼称についてだけは、ドルに対するセントやら
ポンドに対するペンスやらと、補助貨幣単位として名残を
留めていることも多いが、現代では基本単位と補助単位の比率は
一定であり、変化しない。ところがこのような制度が整ったのは
近代的な銀行制度が確立してからのことということになる。
ヨーロッパでは15世紀になるまで、コインに金額を示す数字は
記されていない。それまでコインがいくらを意味するかは
布告により定められており、そしてそれは時として
発行者である国王の都合で変更された。
実際にはコインは国王以外にも数多くの商人や
地主、聖職者によっても発行されていたし、
中世の大市では、世界中から――中国や日本まで――
様々なコインが集められ流通していた。それらは
常に統一された単位で取引されていたとは限らず、
国王の定める貨幣単位以外の貨幣も流通していた。
国王の貨幣発行力は手持ちの貨幣として使える金属に量によって制約されていたから
財政が赤字になれば、増税や貨幣単位の切り下げ、さらには貶貨などによって
税収によって得られるコインの量を増やすことが必要になるわけだが
当然これが効果を持つのは一時期だけで、というのは、
貨幣単位を切り下げれば今度は同じ支出をするためには
その分、支払わなければならない硬貨の量も増えてしまうわけで、
あまり効果はないような気がするのだが、
その結果、政府の貨幣と民間の貨幣の間の交換比率に変化が生じ、
民間に対する負債を償還するのに必要な政府貨幣の量は
増えることとなった。結局のところ、
中世ヨーロッパにおけるインフレは、
政府貨幣と民間貨幣の交換比率が、後者に有利に、
前者に不利になったことを意味するだけのこともしばしばで、
国王のコインとは縁遠いところで生活していた一般庶民の暮らし向きには
それほど影響がなかったこともあった、とされる。

近代的な中央銀行制度が成立するまでの間、
各銀行は、それぞれ国境を越えた独立した
ネットワークを構成していたのだけれど、
この場合、貨幣はあくまでも民間銀行の発行する債務でしかなかったから
当然のことながら、銀行ごとに貨幣価値は異なっていた。
近代的な準備銀行制度が成立すると、
少なくとも一つの準備銀行の傘下にある銀行間の
貨幣単位は原則として統一されることになるが、
異なる準備銀行の間では、たとえ貨幣単位の呼称が統一された場合であっても、
交換比率は一定ではなかった。
アメリカでは国内に12の中央銀行(準備銀行)を抱えていたが、
シカゴの銀行からニューヨークの銀行へ送金しても
異なる準備銀行をまたがる送金ということになり、
送金額はレートによって変動してしまう。今の
アメリカからオーストラリアに送金するようなものである。
こうした事態を回避するため、アメリカでは19世紀の後半には
財務省が全中央銀行の上に立つ中央銀行的役割を
担うようになるが、実際に米全土にまたがる中央銀行(要するに
連邦準備システム)が正式に成立するのは1913年のことである。

さて、なぜそんな古い話をするのか?
そんなことは、昔の話であり、現在ではすでに貨幣単位はどの国でも
統一されているのだから、こだわる意味などないのではないか?
MMTに言わせればそうではない。もし、一般均衡論の言うとおり、
全国で共通の資産が自然と貨幣単位として選ばれ、その結果として
貨幣単位が統一され、問題が解消した、というのであれば
それでもまあいいかもしれない。
しかしながら実際にはそうではない。
現在、多くの国で貨幣単位が全国均一に統一されているということの背景には
全国にまたがる単一の準備銀行=中央銀行が存在しているのである。
そしてその中央銀行の準備通貨がなぜか(租税駆動)すべて銀行によって需要される存在であり、
そしてこの中央銀行(および政府)によって、すべての傘下銀行の負債が
額面通りに取引されることが保証されているから、これらの負債は
「貨幣」の名のもとに支払い手段や価値保蔵手段として需要されるのであり、
そしてその他のあらゆる民間の負債が(例外はもちろんある)、この
銀行貨幣単位で評価され、取引されているのである。
中央銀行の役割は、何にもまして
こうした一国に単一の(もちろん、ユーロを含めて例外はある)貨幣制度を
成立させ、安定的に維持することにあるのであり、
他にそれを超える目標(例えば戦争遂行や為替防衛など)が与えられない限り、
何よりそれを最優先することが求められる。
例えばインフレ政策だのなんだのと言っても、全国で統一の貨幣単位が
あるから意味があるのであって、単に準備預金と民間貨幣の間の交換比率が
変わるだけでは意味がない(というか、混乱しかもたらさない)ことは
誰にでもわかるだろう。

MMTが具体的に「記述」しているのは、この全国にまたがる銀行間の取引を
安定させ、統一の貨幣単位を守るために、政府や中央銀行がどのようにして
オペレーションに取り組んでいるか、である。
政府や中央銀行は、貨幣金融財政政策について
自分たちの判断で様々な政策を選択することが可能だろう。
ただし、どのような政策が選択されようとも、こうした全国にまたがる貨幣の統一性を
乱すような政策は採用できない。そのような可能性のある政策がとられるときには
中央銀行はその効果を相殺するような政策を同時にとるだろうし、
もともとそうしなければ政策そのものが実行不可能になるケースも
ある。ぎゃくに、こうした貨幣の統一性を破壊するような行動を自ら取ることは
(戦争やら為替防衛といった別の目的を上位にするのでない限り)
極力避けることになるだろう。そうしなかった場合に何が起こるかは、
ボルガ―の実験で実証済みである。

貨幣の統一性を守るため、中央銀行の行動に一定の原則が生じることは、
貨幣の発行を民間営利企業である銀行に任せているためには
やむを得ないことであろう。もし民間銀行が預金者から集めた紙幣や現金を
原資として、自らの負債発行によって融資を実行しており、
中央銀行は準備預金を本源的預金として提供しているだけなら、
銀行の預金通貨の価値は、その信用力や収益期待によって
常に変化してしまうだろう。小さな地域金融機関の預金の1円と
都銀の預金の1円とが同じ価値を持つはずはない。
これは両者の発行する株式の市場価値が、一口の額面が同じであっても
全く異なった市場価格で流通するのと同じことである。
額面の金額には意味がなくなってしまう。中央銀行の役割は
傘下金融機関の、個別の信用力や収益性にかかわりなく、
すべての預金通貨の価値が維持されるように、
銀行間の決済を守ることである。
金融市場は経済学でイメージされている市場モデルによく似ている、という人を
たまに見かけるが、もしそんなことが本当なら、
なぜ民間銀行の負債に過ぎない預金が額面通りで流通するのか、
皆目見当がつかない。あの教科書流の信用乗数理論というシロモノは
この点でも欺瞞の塊だろう。実際には現代の
貨幣金融制度は中央銀行を中心とする制度的な枠組みの上に構築されているので、
いわばお釈迦様の手の上の孫悟空のようなものである――と、カッコよく決めたかったのだが、
なかなかそうもいかない。この孫悟空は
中国の古典のサルに比べればはるかに厄介な存在だ。なんせ
どんな中小の負債であっても、どんな財務内容であっても、
とりあえず決済だけは、中央銀行が保証しているのだ、
といったら、これら営利企業は何をしでかすか分かったものじゃない。
だから中央銀行も金融庁(財務省)も、金融機関に対しては
他に営利企業に比べるとはるかに厳しい規制や監督を強いているわけである。
それがなければ常に負債の決済が保証されている営利企業は
それを利用して社会的に不適切な様々な事業を行うかもしれない。
「合理化」「効率化」のため、こうした規制や監督を時代に合わせて見直しする、
ということ自体に異を唱えるわけではないが、
単に「規制は合理化を妨げる」というだけの理由で
これを緩和すれば、傘下銀行はそれを利用してどういうことを始めるか
わかったものではない。だが同時に、営利銀行はこうした特権を使って
政治家や官僚に直接間接の影響を与えることもできる。
政治家には実弾をぶち込むことができるし、「専門家」の名のもとに
役所や「審議会」「理事会」に人を送り込むこともできる。その影響力は広く、
IFRSや諸GAAPといった会計原則まで左右している。
そして大学においては、金融機関の無制約な行動を正当化する教義が
「科学」「学問」の名のもとに流布されている。

要するにMMTが貨幣の名目価値を問題にするとき、
そこで問題になっているのは単なる形式ではない。
実際に国内に統一された貨幣制度を再生産しなければならない、という
経済的に実質的な制約であり、
政府にしろ中央銀行にしろ、
この制約に引っ掛からないかぎり、どんな貨幣金融財政政策でも
取ることはできる。法律的にそれが許容されているか否かはまた
全く別問題である。そして、いくら「経済学」のモデルから好ましいとされる
貨幣金融財政政策が出てこようと、それがこの実際のシステムと
矛盾するものである限り、実行不可能であるか、あるいは実行の際に
その効果を相殺するような形をとることになってしまう。
一方で民間金融機関側では
政府中央銀行による決済の保証のメリットは失いたくないが、
同時に厳しい規制や監督を何とか逃れようとして、
なるべく多くの取引を簿外化するか、規制を受けないノンバンクへと
移そうとするし、規制や監督自体を弱体化させようともする。

これがMMTの一方の問題である
「名目価値」の話だ。他方で、貨幣の「実質価値」すなわち、
貨幣の購買力、あるいは貨幣と貨幣以外の商品との交換比率の
問題であるが、
ちょっと長くなったので、今回はここまでじゃ。

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2 コメント

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Unknown (old-parr)
2020-06-28 21:54:33
話が長いし、意味がわからない。三橋貴明氏のMMTを調べることをお薦めします。
こうやって、MMTの内容を面倒くさいと思わせる手法、見事です。
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コメントありがとうございます。 (wankonyankoricky)
2020-06-28 22:58:05
コメントありがとうございます。

正直びっくりしました。
私は、三橋さんより早くからMMTを紹介していますが、それはともかくとして、思想などについては無関係な第三者の解説よりは、直接原典に当たるべきだ、と考えていますし、だれでもそう考えるものではないでしょうか。違いますか?原典より、赤の他人の説明を参照するべきだ、という考え方は、初めて出会う考えです。
 あなたはご自分で直接、原典とその三橋さんの議論とを比較したうえで、このようなことをお書きになっているのですか?ちなみに、あなたがお読みになったMMTの原典にはどのようなものが含まれているのでしょう?それでもし、ああなるほど、三橋さんという方はその人なりにきちんと原典に基づいてMMTを説明しているのだなあ、と思ったらぜひ三橋さんのものも読まさせていただきたいと思います。私としては、まずは次から次へと出版されるMMT関連及びその周辺の論文や書籍をあさるのに手いっぱいです。
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