断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

Scott Fullwiler の話② 政府と中央銀行を連結することの意味、再論

2014-12-28 22:08:58 | 欧米の国家貨幣論の潮流
これまで書いてきたことの繰り返しになってしまう
(ちょっとは、新しいことも書くよ)が、
まあ、違う書き方をすれば、違う知見を得られることがある
(たまにはね)、というわけで。

主流派経済学との対立点の一つは
金利とマネーストックの、どちらが独立変数で
どちらが従属変数であるか、という点である。
実はこの点は、同じ国家貨幣論であっても
NCT(Positive Money) 派とも、形を変えた対立点となっている。
NCT側は、実は金利の決定についてはほとんど
なんの考慮もしていないように見える。これは、NCTが
金利の影響を無視している、という意味ではあるまいが、
おいらが読んだものからは、
ほとんど積極的な意味づけというものは見られなかった――と、
いうほどは読まなかったんだけどね、結局。
MMT側は、
安定した貨幣量などというものはなく、
適切な金利の下で、ビジネスに必要なマネー(失業率とは関係ない)が
供給されている、と考えている。マネーの量は
所定の金利の下で、ビジネスの必要に合わせて常に
増減しているのであり、中央銀行は、インターバンク市場で必要とされる
準備預金の需要にアコモデートすることができるだけだ(それが必要だ)。
と、まあ、この点だけをとらえれば、アコモデーショナリストや
ホリゼンタリストとあまり違わない話になっている。
完全雇用を達成するためには、それとは別の、たとえば
JGPなどが必要ではあるが、こうした発行された過剰なベースマネーを
吸収するためには、政府なり中央銀行なりが
有利子負債(たとえば国債)を発行することが必要となる。
中央銀行が金利を決定すれば
裁定取引を通じて、長短の市場金利にも影響する。中央銀行は
所定のインターバンクレートを一定の範囲内に安定させようと
ベースマネーを調整するのであって、
マネーストックを直接調整することなどできないし、
そのようなことをすれば、金利の乱高下により
市場取引が停滞することになる、と考えている。それどころか、
最大の問題は
ベースマネー、マネーストックを一定の範囲内に抑え込もうとすれば
――外貨や特定の資産にペッグする場合と同様――
失業を許容するか、政府の債務不履行を引き起こすことにならざるを得ない。
これがMMTの主張である。
(NCTは、100%準備制度の元、潜在的経済成長率と
同一の伸び率で貨幣そのものを政府が発行し、その資金によって
公共事業を行って失業者を吸収すれば
非自発的失業は発生しないし、政府の債務不履行は定義上発生しえない、
という立場である。)
中央銀行(あるいは政府)がインターバンクレートを決定できる能力を
持つことは、インフレ・景気過熱を制御するためには
ぜひ必要な機能だ(それさえあればいい、というものではないが)。
インターバンクレートは、主流派が想定しているような
ベースマネーの量を操作することによって市場で決定されるのではなく、
所定の金利のもと、中央銀行が需要にアコモデートすることで
実行可能とされている。

ところで、MMTは、なぜ主流派のような
ベースマネーとマネーストックの関係を
想定しないのだろうか。LM曲線でも、テイラールールでもなんでもいいが
ベースマネーとマネーストックの間には
どのような関係があるのだろうか、あるいは
何の関係もないのだろうか。

マネーストックが所定の金利のもとで、
ビジネスに必要な分だけ(完全雇用に必要な分、ではない)、
供給されている場合、政府が完全雇用を目指し、
その財源として、貨幣を発行することを選択すれば、
貨幣は、ビジネスに必要とされる分を上回って
供給されることになる。その結果、金利は著しく低下するであろう。
つまり、完全雇用と金融市場の安定の両立は
不可能、ということになる。

さて、話をさらに先に進めよう。
政府が貨幣発行によって完全雇用の資金調達をする場合、
将来の物価上昇を引き起こすと期待されるなら、
長期金利は急騰するであろう。
と、いうのは、将来の短期金利の上昇が期待されるからである。
将来、貨幣を必要とする人たちは、将来の短期金利の上昇を
期待して、今のうちに固定金利の長期資金を調達しておこうとする。
それゆえ、長期金利もそれに引きずられて上昇する。
しかし、その理屈に従うなら、
政府の貨幣発行による資金調達にもかかわらず、
完全雇用が達成されることなく、
失業が多く存在し、経済的資源が過剰な状態がまだまだ継続する、
と期待されているのであれば、長期金利は
上昇しない、それどころか、短期金融市場でますます貨幣があふれるようになれば、
将来の短期金利は、ますます低下することが予想され、したがって
長期金利も、上昇どころか、低下してしまう。
逆に、もしも完全雇用が達成されないにもかかわらず、
他にボトルネックが発生し、完全雇用に先んじて急激な物価上昇が
発生すると期待されるなら、長期金利は急上昇し、
これが実物投資を圧迫すれば、低雇用率の下での物価上昇も
発生しうるだろう。
実際には、文字通り「長期の」金利というものが世の中に存在しているわけではない。
主流派経済学によれば、実質長期金利とは、実物の生産力に裏打ちされた
いわば、自然利子率に近いものになる。現実の市場では
将来の実物の収益率など事前に知ることはできない。資金を提供する側から見れば、
現物であれ先物であれ、
現に今ある貨幣(あるいは調達可能な貨幣)を、今、目の前の市場(「先物」
という名前がついていても、実際に取引を決定するのは、今この瞬間である)で
目の前にぶら下がっている様々なラベルの付いた商品のどれに
運用するかを決めているに過ぎない。もちろん、それぞれの商品には
それぞれの個性がある。「長期」とは、イールドカーブをベースにしたものであり、
そしてイールドカーブは、確かに「マーケットの予想」である。
だから「長期」という名前には意味がないわけではない。
そうはいっても、それは、現在の、現時点における貨幣を、現時点での予想に
基づき、現時点で発行されるあるいはすでに発行された負債と交換する
あるいは将来交換する約束をする、ということである。決して
長期金利によって将来の金利が決定されるわけではない。
したがって、すべての金融の中心にあるのが、短期の、
というより貨幣の供給なのであり、
その中心にあるのが、ベースマネーの供給なのである。その意味で、
ベースマネーの供給をどうするかが、
金融政策の肝にある、ということになる。

結局、金融・貨幣市場を安定させるためには
ビジネスの必要に応じてアコモデートするだけでは十分ではない。
完全雇用を達成し、同時に、金利・物価を安定させるためには
政府(財務省)や中央銀行は、金融市場(とりわけFF市場)で
どのようにふるまうべきか。これが、MMTの中心人物の一人、
Scott Fullwiler の問題提起である。



現在の貨幣(マネー)の定義からは
マネーストック統計に集計されるのは

民間非金融部門保有の紙幣・鋳貨
当座性預金

の合計だ。これに貯蓄性預金を加えてもいい。
郵便預金をどうするんだ、というような問題もあるが、
ここではあまり細かいことにはこだわらない。
要は、中央銀行が発行した紙幣・鋳貨のうち、
民間非金融部門保有の分と、
民間の企業・個人が市中金融機関(中央銀行の
当座預金口座を開設している)の預金の
合計が、マネーだ、ということだけ押さえておけばよい。
これは、教科書風に言えば
金融部門の、民間非金融部門に対する負債の合計
ということになり、中央銀行も民間銀行も含めて
通貨として発行された負債のうち、
民間非金融部門が保有している分、ということになる。

他方で、ベースマネー・マネタリーベースの定義であるが、
こちらは、

民間銀行保有の中央銀行の預金
および
中央銀行が発行した紙幣・鋳貨の合計
である。
つまり、保有者にかかわらず(ただし、政府部門は除く)、
中央銀行が通貨として発行した負債の合計である。

さて、ここではめんどくさいので、紙幣・鋳貨の発行残高は
ゼロということにしよう。
そうすると、
ベースマネーの定義は、中央銀行の当座預金残高と
ほぼ一致することになる。
なお、入門マクロ経済学の教科書的には
この当座預金残高は所要準備残高と
ほぼ一致することとされている。(入門レベルを超えると、
こんな話は無かったかのように、しかしそれに代わる何を
示されることもなく、「こうした統計結果が求められました。
こういう数式に当てはまります。」
という説明とともに、突然新しい「ルール」とやらが
導入される。)
だが、実際には、今のような「異次元の」金融緩和の話は
別としても、日本では地方の小規模金融機関の中には
普段から、所要準備をはるかに上回る(といったって、
倍を超える、ということはないだろうが)準備預金を抱えているところが
少なくなかった。なんでそういうことになったかは、
ちょっと想像すれば、素人でも容易に見当付く。大手金融機関と違って
いざというときに必要な資金を調達できるかどうかは
信用上も、あるいは場合によっては地理的・物理的な事情によっても、
難しいケースもあったりするからだ。(もちろん、
それ以外の理由もあったかもしれないが。)
また、そもそも
日銀当座預金(あるいは連銀の準備でも同じだが)には
政府への支払いや銀行間の決済という
役割を満たすだけの残高が求められる。
法律的な所要準備が、こうして当然求められる金額を上回るのが
常であるなら、銀行は所要準備にまで残高を圧縮する理由があるが、
もしもこうした必要な金額の方が法律上の所要準備を上回っているなら、
銀行がこの水準に準備残高を圧縮する必然性は
全くないことになる。

このマネーとベースマネーそれぞれの残高は
所要準備制度を通じて結び付けられていることになっているのだが、
Scott Fullwiler によれば、そのような実態はない。
と、言うのは、所要準備制度の下で
マネーとマネタリーベースを結び付けている、とされているのは
アメリカの場合、2週間(所要準備計算期間)の間の、
「営業終了時点」における銀行預金残高の平均値と、
同じく、その2週間後の月曜日に始まる次の2週間(所要準備積み期間)の間の、
「営業終了時点」における連銀準備預金残高の平均値だからである。
前に説明したときには、計算期間と積み期間の前後関係のことを
強調したと思うが、今回強調したいのは、
これが、「毎日の営業終了時点の残高」の平均値である、
という点だ。「営業中」ではなくて「営業終了時点」である。
まあ、棚卸と同じで、「残高」を計算するときには
数字が動いていては困る。だから、「営業終了時点」になるのは、
必然的といえば必然的なのだが、ところが、ここに問題が生じる。

連銀からの当座借越の金利は、即日物と一泊物とでは
一泊物の方が、当然高い。
だから、銀行は、日々の決済のために必要な準備預金が不足した場合、
なるべく、日をまたいでの借越を避け、すべての処理を日中に
済まそうとする。その逆に、法律的な所要準備の方が実務上必要とされる
準備の残高より大きければ、民間銀行は夜の間だけ
一泊物の預金を調達することで、所要準備を満たそうとする。
いずれにせよ結果的に、実際に日中の取引に必要とされている
準備預金の残高と、営業終了時点における準備残高の間には
大きな開きができてしまう。銀行にとって必要な業務は、
営業終了日時点における所要準備を、2週間前後先行する
計算期間の水準に合わせて用意することであって、
実際にその時点で必要とする準備とは、何の関係もないことに
なってしまう。少なくとも、日中必要とされる準備残高と
実際の営業終了時点における準備残高の間に一定の関係はない。
リーマンショックのの前、つまり「大規模資産購入プログラム」が
発動されるようになるまでは、銀行は
過剰な準備をやたら抱えることなく営業を続けていたが、
これだけでは所要準備を上回る準備に対する需要がなかったとも、
所要準備が実際に必要とされる準備の額を大きく超えることが
無かったともいえない。 
単に、銀行は、夜の間、営業が終わり、実際には準備が全く動かない間だけ、
所要準備率を満たしていたにすぎなかった。実は90年代には
このやり方では、もはや昼間の、営業時間中の
取引の金利に影響を与えることは難しくなりつつあったのである。
そこで連銀が、金利を効率的に決定する方法として
採用を議会に願い出ていたのが、「準備に金利をつける」
という方法であった。日本では、2008年のリーマンショック後に
連銀がそれへの対応策として準備への付利を議会に
要請した、と報道されることがあったようだが、
Fullwiler の、すでに2003年の論文には、
「以前から連銀は準備への金利支払いの実行を
求めていた」と書かれている。

連銀によるインターバンクレートの操作には
もともと大きな障害があった。
連銀は、昔は、アメリカの銀行が連銀に依存することが無いように
窓口では日常の営業のために必要な資金を
連銀に借り入れることについて、非常に渋い態度をとっていた。
様々な事情でどうしても市場から資金を
調達できなくなった金融機関に対しては
市場金利をはるかに下回る金利(公定歩合)での融資に応じてはいたものの、
ただしその際には、様々な有形無形のペナルティーを課すことで
銀行が中央銀行に依存しにくくしていたという。
こうしてFF市場が普段からタイトになるように導くことで
金利を効率的にコントロールしようとしていたのだが、
他方で、このやり方では納税はじめ、準備預金の
残高が急激に変動する場合には金利が乱高下することを
避けられなかった。こうした問題を
回避するため、70年代からアメリカでは
財務省がTreasury Tax and Loan Account (weblio では、
「租税公債勘定」という訳語が
充てられている)を開設した。このTT&L口座については
小切手方式と電信方式との二つの種類があり、まあ、いろいろと
難しい説明があったりするのだが、その辺は割愛するとして、
理解できた範囲で要点を記すなら、、

各銀行は、納税者から納税指示を受けると
納税者の預金を引き落とすと同時に
連銀の政府預金口座へ準備を送金するのではなく、
預金をTT&L口座へと移した。こうすることで
連銀は、納税が集中する時期でも
一気に準備預金からひきおとし、財務省口座へと
振替える必要はなくなった。銀行は、
所定の金利のもと、自己の判断で払える分だけ
政府預金口座への振替え依頼を連銀に提出し、必要な準備を手元に残したまま
自行に開設されたTT&L口座へ、納税者の預金を振り替えた。
(これは、MMTの理論からすると民間銀行の預金で租税を支払うことを
認めたということになりはしないだろうか。。。。?と、
いう疑問があるが、それはともかく)
当然、政府が支出をする際には、今度は、一部が
TT&口座から支出先の口座へと移されることになる。この場合にも、
銀行の準備残高には変化は生じない。
これによって準備預金残高の過不足が発生することを回避することができる。
そればかりではない。財務省は必要に応じて
この口座から連銀の政府預金口座へ(あるいはその逆)と資金移動を指示することによって
準備預金(として計算される金額)の残高に影響を与えていた、という。
もしも連銀が頻繁に租税公債口座から連銀の政府預金口座へと資金を移動すれば
結局、金融機関はそれに備えて相応の準備を保有しなければならないことになり
それはFFレートを引き上げることにつながるだろう。
したがって、中央銀行のオペレーションは、中央銀行単独で
行われていたのではない。財務省との密接な連携の上で、
やっと運営されていたのである。「中央銀行の独立」が相対的なものでしかなかった。
中央銀行がどのようなスタンスをとろうと、
財務省側には金融行政に影響を与える一定の手段があった。
また、この事実は、財務省にとっては財政政策と金融政策は一体であった(なぜなら
財政支出をするときには、そのうちいくら租税公債口座から
支出されるかを考えなければならなかったから)ことを示している。要するに
財務省には、政府預金口座と民間銀行の租税公債口座という二つの財布があったのであり、
財政を支出するときには、これら二つの財布のどちらからどれだけお金を払うか
それを決定しなければならない。そしてその決定によって金融市場は
大きな影響を受けるのである。ベースマネーが不足しているときには
財務省預金口座から、民間銀行へ準備が振替えられる分が多くなり、
そして納税の際には、準備預金から財務省口座へ振替えられる金額が減り、
納税者の口座からTT&L口座へ振替えられる金額が増えるであろう。
金融市場を引き締めたいときは、その逆が行われる。
そしてその影響が予想以上であった場合には
こうして連銀とともに、財務省が介入することで、
インターバンクレートを金利水準を目標レートに近づけようとする。
70年代からすでに、アメリカでは財務省と連銀が協力し合わないと
金融市場を安定させることなどできず、両者は
不可避的に協調行動をとっていたのであり、つまるところ、
財政政策と金融政策を分けて考えることなど、不可能だったのである。
このことは、中央銀行の独立性を考えることが無意味だとか、
金融政策と財政政策を概念的に区別することに意味がない、
などと主張しているわけではない。ただ、実務上、オペレーショナルな意味では、
両政策は常に連動しており、財務省と連銀は、
たとえ互いに異なった政策目標を持っていようと、
両者が協力し合わないとその政策を達成することができず、
従って、オペレーショナルな意味で矛盾する目標変数(たとえば、
財務省と連銀とが、同時に異なったFFレートを実現しようとするような)を
達成しようとして行動することは
不可能であった、ということを意味している。この意味で、つまり
オペレーショナルな意味で、政府と連銀を同一経済主体として
つまり、ベースマネーを、財政支出によって供給し、
徴税によって回収する一体の主体として、
概念化することには、何の問題もない(というより、それこそ正しい)のである。


なお、90年代に入り、民間金融機関の抱える準備が過剰になり
さらに諸種の金融手段が開発され(Fullwiler は、とりわけ
リテール自動預け替え口座――最近は、カタカナで
スィープ口座と書かれることが多いようだが――の導入が
決定的だった、という)、所要準備を満たすことが
民間金融機関にとって難しいことではなくなると
民間銀行の側からはTT&L口座を用いてコストのかからない準備を抱えている理由は
なくなってしまう。
そのため、銀行は、むしろ納税を即時に財務省に送金することによる
手数料収入の方を重視するようになり(この手数料収入がTT&L勘定利用の
「機会費用」と考えられるだろう)、
TT&L口座の利用は大幅に減少した、という。その結果として、
銀行は、所要準備を満たすためにもはや連銀にもTT&L口座に頼る必要も
なくなってしまった。銀行は、ただ毎日の営業終了時点での
準備残高に気を配るだけになってしまい、
準備預金制度によってFFレートを通じて市場のレートに影響を与える方法は
大きく制約を受けることになる。

しかしそれでも、準備に対する需要自体がなくなったわけではない。
銀行は、日々の取引の決済のため、あるいは納税のため、
相変わらず準備を必要としている。ただ、所要準備を満たすための
苦労がなくなっただけである。
こうした状況の下で、連銀がFFレートを効率的に管理する方法として
主張していたのが、準備に金利をつけることである。
連銀が目標とするFFレートを中心に、上下に一定の範囲(スプレッド)をもって
当座貸越の受取金利と、準備預金に対する支払金利とを設定する。
当座貸越に対する受取利息には、かつてのような懲罰的な意味を持たせることはせず、
単に不足があれば機械的に資金を提供し、そうして提供した
準備に対して、所定の利息を徴収する。保有されている準備預金には
自動的に金利が支払われるわけだから、実際に徴収されるのは
その差額だけになるが、いずれにせよ、銀行は
それだけの費用を支払ってもメリットがある場合にだけ
連銀から資金を調達するであろう。市場金利の上限は
これにより設定されるであろう。当座貸越の金利自体は
市場金利より高いのだから、銀行は極力これに依存することを
避けようとするであろう。その一方で、FFレートに突然の
下落圧力がかかった場合には、銀行はインターバンク市場に
準備を提供しなくなるだろう。というのは、準備を保有しているだけで
最低限の金利収入を得ることができるからである。
これは、すでにヨーロッパのいくつかの国で採用されていたコリドーシステムである。
イギリスやスエーデン、カナダなど、すでに準備預金制度(法定準備率)を
放棄していた国々では、こうした方式がかねてよりとられていた。

だがこうした方法を採用することには、アメリカでは
根強い抵抗があったという。
というのは準備に金利をつける、ということは
連銀が銀行に、ただ準備を保有しているだけで利益を与えることになるからである。
連銀は、年間の税引き後当期利益の大部分を国庫納付金として
財務省に支払っている。連銀が銀行に金利を支払えば、当然
連銀の利益が縮小し、国庫納付金が減少するわけだ。
つまり、最終的には税金によって銀行に利益を与えることになる。
この意見には、Fullwiler (というか、連銀自身)は、こう反論する。
もしも連銀の利息支払い額が十分であれば、連銀は
頻繁な売りオペレーションをしなくても金利水準を保つことができるだろう。
連銀の手持ち国債からの金利は、連銀の収入の一部となり、
売りオペによって手持国債が減れば、収入が減る。その結果、
国庫納付金は減少し、その分が、財務省から、直接
国債保有銀行に支払われることとなる。要するに、同じなのである。(この結論は
付利が、超過準備に対して行われるか、全準備預金に対して
行われるのかによって、変わってくるように思うが。。。?)
金利は、いずれにしても支払われなければならない。それが
国債という形で財務省によってであるか、
準備預金に対する金利という形で、連銀からになるかは
大した問題ではない。ここでの問題は、
インターバンクレートを安定させるために必要な有利子負債を
どのような形で提供するか、である。そのためには、
いちいち国債の売り買いをするよりも、準備そのものに金利をつけてしまうほうが
よっぽど手っ取り早い。コストにしても、そちらのほうが
少なくとも常時市場をモニタリングして、ディーラーの動きに
反応して細かく介入するために必要とされる人件費や手数料のことを考えれば、
多少なりとも、コスト削減に貢献するであろう。いずれにせよ、
支払元が財務省であろうと連銀であろうと、
どちらかが金利を支払うことによってしか、インターバンクレート
あるいは金融システム全体を安定させることなど
出来はしない。この意味、つまり、オペレーショなるな意味では
財務省と連銀は一体である、というか、区別することに意味はないのである。

結局、財務省(そしてMMT)の主張通り、
準備預金に金利をつけられることになるのは
サブプライムローン問題が顕在化した後のことであった。
バーナンキ氏のいわゆる「大規模資産購入プログラム」に際して
金利を支払わなければ銀行は資産を手放さないであろう、
ということが懸念されたのかもしれない。この
大規模資産購入プログラムは、一部では「財政政策的金融政策」とも呼ばれた。
従来のいわゆる金融政策が
ベースマネーと極めて代替性の高い、ごく短期の国債・手形を中心に
相対価格比への影響を極力回避する形で
行われていたのに対し、大規模資産購入プログラムでは
直接に債権市場で資産価格を下支えし、長期金利の上昇を
迎えようということが意図されていたからである。
だが実は、それ以前から、オペレーショナルな意味では
財務省の行動と連銀の行動の間には、明確な線を引くことなど
出来なかった。これは、金融政策と財政政策の概念的な区別に
意味がない、というとを主張しているわけではないし、
組織面で連銀が財務省と一体だ、と言っているわけでもない。
連銀が財務省からいかなる意味で独立していようと、
インターバンクレートを維持し、市場を安定させるためには
両者が共同歩調を取らざるを得ないのであり、
両者の目標がどうであろうと、特定のオペレーションについては
バラバラの行動はできない。そして、
その費用を負担するのは、それを「費用」と呼べると仮定しての話だが
――実際は、単に連銀の負債、それも、将来財務省への
納税のために使える、ということによって最終需要が保障されているものが
大目に発行されるだけだ――、連銀も政府も、一緒なのだ、、、

と、いうわけである。


(つづく。ただし、気が変わったら別のテーマ。)


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