断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

原発論争のはなし、、、かな?

2012-12-16 14:24:59 | 原発のはなし

ひところ、原発論争が盛んだったが、

今回の選挙では、争点としては、いまいち盛り上がらなかった感じがする。

日本人特有の忘れっぽさ(特に、日本人に特有とも思わないけど)、と、でもいうのか、

原発停止を掲げていた政党もあったみたいだけど、

結局、あまり争点として注目されなかった、という印象がある。

まあ、ここの所仕事が忙しくて、よく見ていなかった、というのもあるんだが。。。

 

昔から、原発論争で、ちょっと気になる「言葉使い」の問題がある。

原発推進あるいは原発維持派が、反原発、脱原発派に対して投げかける言葉で、

「無責任」という表現が、しばしば使われるのだ。

だが、この「無責任」あるいは「責任」という言葉が、いったい何を意味しているのか、

よくわからないのである。

「責任」ということであれば、今の時点で、まずもって考えなければならないのは、

福島の災禍を起こしてしまったことに対する責任であろう。だが、

端的に言ってしまえば、おいらのような一般市民のスタンスで、

福島の原発災禍に対して、いったいどのような責任があるのだろう。

どのような責任を取るべきなのだろう。どのような責任を果たせるのだろう。

まず、原発推進・脱原発、どちらにしても、福島が一つの出発点になるわけだから、

ここから、はっきりさせなければならない、と考えるのが、

普通でしょう。だが、どうもよくわからないのである。

原発推進の人は、この福島の現状に対して、いったいどのような責任を取るのだろう。

脱原発の人だって、同じことだ。そもそも、いったいどんな責任があるのだろう。

東電の人たちのことを言っているわけではないですよ。

ここが具体的にはっきりしないもんだから、

「代替エネルギーの道筋もはっきりさせないで、ただ

脱原発というのは無責任だ」という主張を聞いても、ピンと来ないのである。

責任って、何?

言いたいことは、わからないでもない。

要は、現在の日本の産業・消費生活は、原発も含む

電力供給によって支えられている。その少なからぬ部分を原発が供給しているのだから、

原発を停止したことによって不足する電力について

あるいは電力価格の高騰について、何らかの方向性を示せ、

ということであろう。だが、それって、誰かの「責任」なの?

世の中は、常に、変転する。経済環境もしかりである。

それに対して、対応するのが経営者の責任であり、

それに失敗した企業は、市場から退出してもらう。

それだけの話でしょう?

オイルショックが起こった時、多くの企業が

コストアップと収益性の悪化に苦しんだが、

オペックに「責任」を求めたのか?

六価クロムや有機水銀が、市民生活に

大きな悪影響を与えた。それゆえ、

今日ではこうしたものを簡単に廃棄することはできない。

それによって、収益が悪化し、雇用を減らした企業もあるだろう。

それって、誰の「責任」なの? 誰か「責任」とった?

鉛を使った電気製品は、ヨーロッパ県内に輸出できない。

それで、まあ、うちあたりのような製造業は

しょっちゅう問題を起こしているんだが、その責任って、何?

 

結局のところ、政治的レトリックとしてはともかく、

実際の実務的な議論において、こんなところで「責任」なんて言葉を振りかざす人って、

要は、現場で働いた経験が全くない、曲学阿世というか、

評論家だと思うんだよね。こんなことは、常に起こっているんで、

電力だけの問題じゃあない。言えることは、せいぜい、東電に対して、

「てめえらがきちんと管理してないから、あんな原発問題が起こったんだ。

てめえらで責任とれ。電気料値上げとか、政府に

費用負担を求めるなんて、とんでもない」

という程度のもんではないだろうか。といったって、これだって、

政治的レトリックにすぎない。実際起こってしまった事故の責任なんか、

誰も取れはしないのである。

その点、大飯原発再稼働に際して、野田さんが

「私の責任で」といったのは、全く意味不明だ。

いったい何の責任を、どうやっておとりになるの?

あんたが、総理大臣やめるときは、

大飯原発って、また、停止するの?でなきゃ、筋が通らないよね。。。。

たぶん本日の選挙で、

内閣退陣決定的だろうけど、それで、大飯原発は、停止????

だから、こういう意味のない言葉遊びはやめろっていうの。

「責任」なんてこと言っているのは、むしろそんな空疎な言葉を使ってこのもんだいが語れる、

と、まともな判断ができなくなってしまっている証拠。それは、停止した場合の

経済的悪影響についても、同じ。電力費が高くなり、多くの工場が閉鎖し、

失業者が大量に発生しました。さて、誰が、どうやって責任を取るんでしょ。

一方、事故が起こった時の責任は? 

 

しかし、まあ、政治的レトリックの話はさておき、、、

 

実は、原発の話自体というのは、おいら的には

それほど興味があるわけでもない。今後福島をどうするのか、

電力価格がどうなるのか、関心はあるけれど、

おいらが騒いだところで、どうなるもんでもないし。

ただ、無責任という言葉でいうと、

本当に無責任だな、と感じるのは、

一部の経済学者に対して、である。

ここでいう「責任」というのは、かなり具体的な話で、

経済学者が、経済学にどう向き合い、どのように発話しようとし、

そして、それが、経済学の理論とどのように整合しているのか、

という点である。そして、それがあまりにもひどいのであれば、

「もう経済学者を名乗るのは、お控えなさい」と、お勧めしたいのである。

もちろん、小栗虫太郎を評する江戸川乱歩を気取るわけではないが、

経済学、とりわけ、一般均衡理論は、あまりにも抽象的すぎて

現実との照応関係を探ろうにも、手掛かりがなさすぎる、という面もある。

(というか、論者によって、いくらでも恣意的に援用することができてしまう。)

だが、この場合、論点は明確だ。

原発は安上がりだ、と主張する人(とりわけ、経済学者)に尋ねたいのは、

いったい、その原価計算は、どのような情報に基づいているのか、

ということだ。

現場の情報、決算報告書においてすら、

原発の原価は、認識不可能(というより、包み隠さず言えば、

無限大)である、とされているのに。

 

原発コストの最大のものは、

事故引当繰入金である。ただし、これは、

(すべての国で共通だが)原発のコストとしては

著しく低く抑えられている。その理由は、まともに考えたら、

これが無限大になってしまう。これでは、決算にはならない。

当然、民間企業による運転は不可能だ。

だから、事故損失引当金には一定の上限を設け、

それを上回る事故費用が発生した場合には、全額政府が負担することになっている。

何のことはない、原発のコストは、

ほとんど陽表的に示されることなく、常に陰伏的に、実際のお金のやり取りの背後で

処理されているのである。同じことは

廃棄物の処理コストについてもいえる。

この廃棄物の処理コストについては、動燃リサイクルを断念する(当然のことだが)結果として、

原価の上限が全くわからなくなってしまった。いや、動燃が稼働し続けていれば、

分かった、という意味ではない。リサイクルの研究をつづけたとしても、

今後も、動燃が実用化される見通しなどたちはしない。どっちにしろ、処理コストも

無限大になりそうなのである。(が、こちらは、地中に埋めて、

無害になるまで管理し続ける、ということであれば

具体的な費用を算出し、現在の利率で割り引けば、会計的な金額は

算出可能だ。人類をのものを、ゴーイングコンサーンと、つまり、

使用済み燃料が無害になるまで、

人類がずっと存続し、今のような経済活動を

継続する、と、考えて。)

さらに問題なのが、

固定資産除却債務費用が、全く適切に引き当てられていないことである。

固定資産の除却に大きな費用が掛かる施設については

その稼働期間中に、その除却費用を稼ぎ出さなければならない。

この除却にかかる年あたりの負担を、損益計算書上の費用として計算し、

そして、同額を、固定資産除却債務として、貸借対照表上の負債項目に

計上する(日本の場合は、減価償却累計額に組み込む)ことが、必要になる。

ところが、日本の電力会社は、こうした費用については

適切に組み入れることをせず、余剰が出たら、その一部を

費用扱いにしているだけなのである。

税法上、こうした費用が損金算入されるのかどうか、

おいらは知らないが、下手すると、税金の調整のためだけに

用いられている可能性だって、ないとは言い切れない。

(まあ、さすがに、それはないと思うけど。)

これらは、単純な事実であるのだが、

こうした前提で、いったいどうすれば、コストが安いの高いのと、

論じることができたのだろう。唯一考えられるのは、

こうしたコストを考慮しない、ということだ。

なぜ、経済の専門家が、こうした単純な事実を

あるいは意図的に(?)、コスト計算から取り除いているのか、

全く理解できない。もちろん経済学の専門家が

原価計算や財務諸表の構成のことまで詳しく知っているとは

必ずしも期待できないが、それにしても、いくらなんでも

ひどすぎやしないだろうか。こうしたことを無視して

原発の低コストを喧伝する、ということは、

(原発を継続するしないにかかわらず)こうした問題があることに、

目をつぶり続けろ、ということである。

学者が、無知で居続けること、

事実から目をそらし続けることを、推奨しているわけだ。

経済学は、

「長期的」な均衡を考えるものだ、と思っていたが、

これでは、会計的な「現金主義」以下の、超近視眼的な

コスト計算であって、まともな議論の俎上に載る性格のものではない。

これは、単なる「無知」を超えたレベルであり、

それゆえ、「あなたの態度は、経済「学者」としては

ふさわしくない。経済学者を、今後名乗らないことが、

あなたにとっての、人間としての「責任」ではないでしょうか」と、

言いたくなってしまうわけである。

むしろ、「経済学者」として、この状態に直面したなら、

いったい、正確な、事故の可能性を評価に組み込んだ

コスト計算が、どのようにすれば可能なのか(最初っから

不可能と決めつけることはない)、検討してみよう、という問題意識を

持つことはできなかったのだろうか。

 

この問題が経済学的に重要なのは、

いわゆる事前効用定理では

個人のリスクは、個人の効用で評価されるものになっていたのに、

この場合は、

事故の可能性と、そのリスクを評価する社会的な方法を

探し出さなければならないからである。

今、一つの金融商品があるとき、

それが値上がりする確率と値下がりする確率が、事前に分かっている。

しかしながら、同じ確率を共有する経済主体であっても、

仮に、悪い結果が出た場合の損失を大きく評価する経済主体と

良い結果が出た時の利益を大きく評価する経済主体とでは、

当然、行動が異なる。これが、多数ある有価証券の選択であれば、

それぞれの経済主体が、事前の効用を最大化できるように選択をすればよい。

そうすれば、証券の価格が決まり、事前の効用が最大化される。

(もちろん、結果については、どうしようもない。)

いったい、原発のような、

それひとつで、多くの人が便益を享受し、リスクも共有しなければならない場合、

どうやって社会的な効用最大化点を見つけることができるのであろうか。

さらに問題は、有価証券などと違い、

ひとたび事故が起こってしまえば、もはや取り返しのつかない損失を

もたらす点と、

事故の可能性について、同一の見込みを共有する手段が入手不可能だ、

ということである。この点を明らかにしないと、

少なくとも、経済学者である限り、原発のコストについて、云々など

語ることは不可能なのではないだろうか。これを語らないで

「原発は安価だ」という経済学者に対して、

「無責任」という言葉を冠するとすれば、この言葉の用法には

疑問の余地はないであろう。

 

だが、まあ、この話には、まだ続きがある。

実際、会計的には適切に(というのは、不可能だが)、

事故引当金を引き当てることができたとして、

それにいったい、経済的に、何の意味があるだろうか、

という問題がある。この、「経済的に」というのは、

ミクロ・マクロの、両方について、言えるのである。

ミクロ的な問題としては、

仮に、原発事故費用について、会計的に、

有限の値が見積もられた、として

(このような仮定には、常識的には何の意味もないが、

しかし、経済学(一般均衡理論)は常にこのような仮定で話を進めるのだから

仕方ない)、それを、実際に事故が発生する確率で割り引いて、

事故費用債務を計算する。そしてその事故費用債務に応じた引当金を

年々の収益の中から、費用として繰り入れる。

こうした金額は、実際に事故が生じた時、それで何をどれだけカバーできるのか、

全く考慮されていないのである。会計的には、

ただ、現時点での収益を適切に評価するだけの意味しかなく、

そうやって積み立てられた事故債務は、一種の保証債務に過ぎず、

評価勘定の域を出ない。経済学的に、実際に発生しうる損失を

カバーできるような、それによって、均衡供給量を計算できるような情報を

与えるものではないのである。

 

マクロ的には、、いざ事故が本当に発生したとき、この負債を償還するための

どのように資金調達が可能なのか、という問題がある。

これは、経営学的な問題であるけれども、

マクロ経済学的な問題でもある。というのは、

どのような割引率を使おうと、

この債務は天文学的な数字になってしまい、

どのようにして資金を調達しようとしても、金融市場に大きな混乱を

引き起こさずにはいられないからである。

ポジション・ステイトメント(バランス・シート)に載せるだけであれば、

どのような天文学的な数字であっても、それに見合う資産さえあれば

いいだろう――そんな資産があると期待するのは、現実的ではないが、

何しろ相手は経済学者なのである――が、

しかし、いざ、本当に事故が発生してしまった場合

いったいどのようにしてその負債を取り崩せばいいのだろうか。

この巨額の負債に対応して

取り崩し可能な資産が、どのように運用されているのか、

という問題がある。

仮にそれが実物資産であるとなると――とりわけ、

その事故を起こした当の原発であるとなると――

事故と同時に資産価値を失う。これを処分して費用をねん出するなど

全く論外である。しかし、そうでなくとも、

例えば、何らかの換金可能な短期金融資産の形で運用されているとすると、

これは金融市場全体に、ものすごい影響を及ぼすことになる。

下手をすれば、パニックに陥ってしまう。

このような状況を前提として、

引当金を引き当て、負債に計上することに、

いったい何の意味があるのか、ということである。

 

なお、このマクロ的な問題については、

ある程度具体的な回答を出すことが可能なはずである。

(まあ、無意味だとは思うけど。)

おいらが思うのは、いやしくも経済学者を名乗るんであれば、そして、

原発推進の立場を主張するのであれば、

原発が効率的かどうか、脱原発が無責任かどうか、そういうことは

ジャーナリストに任せて、

こういう専門的な問題に取り組んでもらいたい、ということである。

実際、原発は、事故を起こす可能性がある。事故は、現実に、スリーマイル、

チェルノブイリ、福島で起こった。今後も、避けられないだろう。

その上で、仮に、事故が起こってしまった時、

その、経済的な影響を、最小限にするためには、

どうしたらいいか、どのような方法があるかを講じるべきではないだろうか。

経済的影響といったって、人命や財産の物質的毀損による損害については

経済学者には、どうしようもない。だが、

こうした事故が起こる可能性をゼロパーセントにできない以上、

こうした事故に備えて、それに対処する費用をどのようにすれば

市場に悪影響を及ぼすことを避けながら、ねん出できるようになるのか、

こうした議論を進めることが、せめてもの「責任」ではないのだろうか、

と、思う。福島の損害について、どれが、どのように負担するのか、

その費用をどのようにねん出するのか、そういうことに

もう少しまじめに取り組むことができないのだろうか。

この「未曽有の」危機に際して、

自分の責任は何か、自分にできることは何か、

自分がやって、一番役に立つことは何か、

そういうことを冷静に考えることができない人間たちが、

いったいなぜ他人の「責任」について、語るのだろう。

 

さて、経済学について話が出てしまったついでに、

もうちょっと別の視点から、今度は、原発というより

経済学そのものの問題を、つまり、今回のような問題が起こってしまった時、

どれほど、明らかな「経済的」問題に直面してすら

「経済学者」が、原発を推進しよう、という立場に立った時、

せいぜい、「代替案も示さないで

脱原発というのは、無責任だ」というような空疎な(知的努力の跡を全く感じさせない)

ことしか、言えなくなってしまうのか、

つまり、現に目の前に存在している経済的課題に対して、

それを、見事解決することによって、

「この通り、原発は、たとえ事故が起こったとしても、少なくとも経済的な問題に関しては、

ともかく対処の仕様があるのです」

と、示すことを、早々断念し、自らの無能力さを

さらけ出し、それを知られまいとしてか、

意味不明の「責任」論を振りかざす程度のことしかできないのか、

その点について、経済学そのものに内在する

構造的問題を、一つだけ、指摘しておこう。

 

入門レベルのミクロ経済学で扱うテーマの一つに

「外部性」というものがある。

これは、入門レベルでは、必ず扱われるのだけれど、

その後は、多くの経済学者にとって、

テーマから外れた、

特殊理論とされてしまうのである。

だが、本来必要なのは、

この「外部性」こそを一般化した理論であって、

境界線を含むか含まないか、

有限個数なら成立するが、無限個数でも成立するか、

そんなことを一般化しても、

ほとんど現実に照応関係はない。勿論、

現実との照応関係が画もん的価値を決める唯一の基準ではないが、

しかしながら、こちらの方向性での一般化が

全く試みられてこなかった、という事実にこそ、

現在の経済学の政治的性格が

如実に表れている、と言えるのである。

 

「外部性」というのは、入門レベルで扱う限り、

さほど難しいテーマではない。

今、需要と供給があった時、

その需要や供給を行う経済主体が直接

負担することのない費用あるいは直接享受することのない

便益が発生する状況を指す。

もしも、供給者によって負担されることのない費用が

あれば、その供給は、社会全体にとってのコストを反映していないので、

社会全体から見れば、超過供給になっているといえるし、

需要者によって直接享受されない社会的便益があれば

本来は、誰かがその便益に見合った限界費用を支払うことで、

より多くの供給を促すべきだ、ということになる。

 

実際、世の中で生活しているなら、どのような経済活動であっても、

何らかの「外部経済」を引き起こしてしまっている。これは、

歴然たる事実だ。ただし、現実生活においては、

ほとんどの場合、それは小さすぎて

問題にするに値しない。だからこそ、外部性の問題は

経済学でもマイナーな分野に留まってきたのである。

ところが、今や、そのような扱いは時代遅れになった、といわなければならない。

確かに、我々が日々生み出している経済的外部性の問題は

論じるに値しないものであろう。

家を建てて、日照権が問題になるケースがどれほどあるか。

地下水をくみ上げ、地盤沈下するケースがどれだけあるか。

ペンキを塗って、悪臭が問題になるケースがどれだけあるか。

これらは、しばしば報道のネタになる話ではあるが、

日々行われる膨大な取引の数と比較すれば、問題となるのは

ごくわずかである。ところが、ここにきて、

問題はそれほど単純ではなくなってきている。

たとえば、地球温暖化の問題だ。

日々、走っている自動車、家庭の暖房や調理、

企業の生産活動、これらから発される排熱は

直接には、誰かの生活を侵害しているわけではない。

(とも、言いきれないのだが、そういうことにしておこう。)

産業革命以降、人間が生活・生産活動の中で消費するエネルギーは

どんどん増加していったわけだが、そこで、

多少熱が放出されているから、といって、

それが学問的に取り扱われるべき大問題だ、

などと考える人は、昔はいなかった。

エントロピー理論などが提起され、

一部、物理学から経済学へ移ったような人の中には

これがと受からぬ将来問題になることを警告した

先見性のあった人もいなかったわけではなかったが。

今日では、地球温暖化は

――実際、それがあるのかないのかも含めて――、

避けて通れない問題になっている。いまや、経済活動から

発される排熱は、地球全体の気候や

植生を変更し、人間全体の生活に影響を与える可能性が

指摘されているのである。しかも、このコストを負担するのは、

どちらかといえば、その経済活動からの利益を直接享受できない

地域・時代の人々なのである。(そして、残念なことながら、

こうした地域出身の人が経済学などと言うのんきな学問を

勉強できる機会は、しばしば限られている)

つまり、問題は、こうだ。

入門レベルの経済学では、外部性とは、

取引に参加する経済主体が直接コストを負担したり

便益を享受することはないが、しかし、社会的なコスト、

便益は、認識可能とされていた。いまや、

こうした便益やコストは、

認識可能ではないし、いつ発生するか(あるいは発生しないのか)

それすら、わからないのである。

外部性が発生するかしないかわからない、というのは、

例えば地球温暖化のように、そのような事実があるのかないのか

よくわからないケースもあれば、

原発のように、もしかしたら事故が起こるかもしれず、

起こらないかもしれない、起こるとしてもそれは偶然であり、

事前に予期できるものではない、こうした、地雷原のような外部性である。

一般均衡理論は、こうした外部性があるという現実を直視し、

いっそう一般化されるべきだし、思うにこれは、

急務ではないだろうか。

この方向での一般化が行われてこなかった理由は、

おそらく政治的・社会的なものであろうが、

だが、現在の経済学、一般均衡理論の枠組みが

私的所有権を前提とし、確率的であれ何であれ

コストと便益を認識でき、そしてそれを個々の経済主体が

直接負担・享受することを、その骨格の中心に据えてしまっているからでもある。

つまり、この方向での一般化は、一般均衡理論そのものの否定に

結びついてしまうのだ。だが、

この方向に足を踏み出すことを拒否しながら、

原発のような、あのような大きな潜在的外部不経済を有する存在を

経済学者が語る、というのは、たちの悪い冗談でしかない。

 

経済学者に検討してもらいたい課題は、他にもまだある。

インセンティブの問題だ。なんのことか、というと、

バックアップ電源の話である。

日本は、原発は絶対安全だ、と言ってきた。

世界最高の科学と技術の成果であり、

チェルノブイリのようなことは、絶対にない、と、

断言してきた。しかるに、

バックアップ電源喪失の問題では、

小学生並みの設計ミスが明らかになった。

なんせ、主電源より先に、

バックアップ電源のほうが水浸しになり、動かなくなってしまった、

というのである。で、ここでの問題は、

じつは、津波や洪水が起こった場合、バックアップ電源のほうが

先に喪失する、という点は、現場の人たちには

よく知られた問題であり、しばしば現場の職員から

上層部へ、上申が行われていた、という。

ところが、この問題は、上層部では、まともに相手にされることなく、

そのまま3.11を迎えることになる。

バックアップ電源を高い位置に移設することなど、

いくらも費用はかからなかったはずである。

これをやっていれば、爆発が防げたかどうかなど、

わかりはしない。だが、どうしても

たった数百万円をケチったばっかりに

水俣病を避けられなかったチッソの姿にダブってしまう。

どれほど素晴らしい科学や技術の粋を集めたところで、

現場の作業は現場がやる。時には、高尚な学問では

棚上げにされてしまうようなどうでもいいところが、

実際の震災においては、重大な問題になりうる。

だから、科学や技術では想定できなかった現場の

ミスがあったとしても、それ自体は常に起こりうることにすぎない。

要は、それが、現場の指摘を受けて、上層部も認識していたにもかかわらず、

一向に改善されなかった、ということである。

なぜ、そのような馬鹿げたことが起こったのだろう。

 

この点について、経済学的に言えば、

一つにはモラルハザードという問題設定の立て方が

可能だ。

つまり、自己損失について、東電は100%の負担を負う必要がないことを

初めから約束されていた。冒頭にも述べたとおり、

一定金額を超える事故損失については、政府の負担で処理されることとなっていた。

だから、モラルハザードが発生し、

事故を防ぐ努力、いざ事故が発生したときにその被害を最小にとどめようという努力が

おざなりにされた、ということだ。

さて、経済学的には定番ともいえるこの分析を、この原発事故に当てはめるのは

やや無理がありそうだ。仮に、政府によるそのような保証がなければ

現場の声は生かされたであろうか。たぶん、そういうことはないだろう。

(その辺の理論的・実証的検証は、どなたかやってくだされ。)

だとしたら、いったい何が妨げとなって、

後の小学生レベルの問題を回避する努力がなされなくなってしまったのだろう。

過信? 慢心?

それも変な話である。実際、現に小学生にもわかるような

設計上の落ち度が、皆の眼前にあるとき、

そして、それを現に指摘している人がおり、

それを、認めざるを得ない、そんな時、

もしも経済主体が「合理的」なら、

いったいなぜ、慢心や過信を持ちうるだろうか。

水害が起こったら、まず真っ先にバックアップ電源が機能不能になってしまう、という

目の前の事態は、すでに、慢心や過信を打ち崩すのに十分ではないだろうか。

まさに、裸の王様になってしまった、ということなのか。

目の前の異常を目にしても、それを異常と感じることができないような

権威主義のマジック? (笑えないのは、

この同じ権威主義を、原発推進派も反原発派も、自分の武器にしようと

躍起になっているように見えることである。おいらが、原発そのものには

必ずしも反対ではないにもかかわらず、日本の現状で

原発を再稼働させることに反対なのは、

こういう連中が存在している、という事実そのもののためである。

そして、こういう連中が、何とか、自分には、

科学だの、なんだのと権威をつけようと必死になり、

そして互いに相手を「神話」

「無責任」「ヒステリー」などとなじりあっているのだ。)

いずれにせよ、経済学を学ぶものであるなら、

なぜ、このような非合理な行動が選択され、

そして実際に悲劇的な損失を発生させることになってしまったのか、

そして、このようなことを再発させないようなインセンティブの構造

(そしてそれを支える組織構造)が

どのようなものでありうるのか、

十分に検討することが必要なのではないだろうか。

 

福島の震災と、それに続く原発事故は

痛ましい悲劇で、被災された方たちは、

おいらなんかには想像もつかないつらい体験をされていることと思う。

だが、それにもかかわらず、

いやしくも学問を志そうという者であるなら、

この異常事態の中で、

心を痛めてはいても、

同時に、そこに、通常では見られない研究のネタがあふれかえっていることに

喜びとは言わないまでも、

知的好奇心を刺激され、

学者としての義務感を感じないのであれば、

学者として失格ではないだろうか。

せめて、あの異常事態の中で、経済学的には

このような課題が持ち上がった、

その課題に対するアプローチとしては、こういう方向があり、

こういう方向で解決が図られれば、

将来、この点で同じ問題を引き起こさないですむ、

ぐらいのことは、原発推進派から提起されなければおかしい。

コストが低いから、原発を継続するべきだ、など、

ジャーナリストに任せれば済む話で、

このようなことを言っている学者がいたら、それだけで、

もはや学者として信頼できるとなどと思っていはならない、

そうした配慮が、

裸の王様的事態を回避するための、唯一とは言わないが、

効果的な方法なのである。



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