断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

ドレーンということ

2021-01-03 14:42:53 | MMT & SFC
MMTの文献で、重要な概念の一つに
「ドレーン( drain 排水口)」というのがある。まあ、MMT派全員がこの言葉にこだわっている、
ということではないんだけれど、例えばレイの諸文献においては重要な役割を果たしている。
この比喩的表現の含意について、今回のエントリーではちょっと検討したい。
この言葉が重要なのは、一つにはMMT派の経済政策一般に対する考え方が
示されているからだ。

MMT派は一般に、経済成長や景気拡幅を目的とする経済政策に好意的ではない。
経済の数値を目標にして政策を行うことは手段と結果を取り違えてる、というのが
根本的な理由ではあるけれど、他に、技術的な難しさも繰り返し指摘している。
この辺の理屈は、実は積極財政金融政策拒否派とそれほど大きく隔たっているわけではない。
教科書に載っているような認知ラグ、計画ラグ、実行ラグ、、といった様々なラグの存在が
その理由の一つである。実際に景気の変化、特に好況から不況へ、不況から好況へ、といった
景況の変わり目が認識され、それによって計画が変更・修正・追加・削減等され、
それが実際に入札にかけられ業者が決まり発注され実行されるまで
かなりの時間がかかり、実際に動き始めるときにはすでに景気の潮目が変わってしまい、
景気の山を削り谷を埋めるどころか
かえって谷を掘り下げ山に積み増しすることにもなりかねない。これでは単に
景気の振幅の幅を広げるだけにとどまらず、投資決定者のかかえる将来の不確実性を増し、
結果的に常時景気の不安定化に拍車をかけることになる。だからレイは
景気の不安定化を減らすため、政府の投資や経常的支出(裁量的支出)を
安定させることを求める。その場合、政府支出は民間投資に比べて
ある程度大きくなければならない。政府が民間の実際の公共サービス需要に
答えるために、道路港湾鉄道教育医療施設やエネルギー分野、環境歴史史跡保全へと投資することは
こうした景気を相対的に安定させるうえで必要な投資支出を賄うのにも役立つだろう。
(そしてこれが将来の供給不足によるインフレーション発生を抑制することになる。)
政府支出のうち、裁量的な部分を安定させることによって
国内総支出全体を相対的に安定させようというのであるのだから、
この部分があまり小さくてはうまくない。だから
政府投資や経常的支出はある程度の規模を維持することとされ、
景気動向などに左右されてはならない、とされている。

金融政策についてはまたちょっと違う面もある。金融政策は財政政策に比べれば
その動きを速くすることが可能だろう。認知ラグは避けられないとしても
理事会で金利目標を変化させることを決めれば、
それはその日から実行可能だ。が、政策金利を上げ下げすることによる景気への
影響というものは、MMTによればどのようなものかはっきりしない。少なくとも
標準的なマクロ経済学の教科書に書かれているような、資本の限界収益スケジュールの
あるプロジェクトと金利とが一致する点まで投資が行われる、投資が増えて
総需要が増えて、それでおしまい、などということはない。
(投資は企画立案から実行まで小さなものでもある程度の時間を要する。
他方で金利目標は、日刻みで変更することが可能だし
実際の市場金利は秒刻みで変化する。製造業における設備投資はこうした多少の金利の変化は
誤差の範囲でしかなく、限界収益スケジュール――これは投資家自身の将来に対する
期待以外に根拠がないのだが――の変化をカバーなどできはしない。)投機的取引や
住宅建設に対する正の影響はあり得るが、年金所得者や金利所得者の所得に対しては逆の
影響がある。さらに様々な所得階層の退職後の年金所得に対する影響が
現役世代の消費貯蓄行動にも影響する。こうした金利所得者・年金所得者、
将来の年金所得者たちの行動の変化は、次には製造業や建設業の期待に影響するだろう。
景気過熱時に金利が引き上げられた結果、金利階級の消費投資意欲がますます高められれば、
製造業や建設業ではますます強気気配が支配的になるかもしれない。
経済情勢によっては金利負担の変化は価格に転嫁され、
だれにどのような影響を与えるかは分り難い。
しかもMMTの立場からは、市場利子率の上昇は
国債利回りあるいは付利の利率の上昇を意味しており、
これは中央政府部門から民間部門への利子支払=補助金の増加を意味している。
民間部門におけるこうした純資産の増加が、これだけ他の財政政策による補助金と異なり
景気刺激にならないとは考えにくい。
そんなわけで、金融政策に対しても、MMTは裁量的財政増減策同様、
あまり好意的な評価は見せていない。これは何も中央銀行の役割が
なくなることを意味しているのではない。中央銀行の役割は
景気刺激などではなく、決済・金融システムを安定させ金融危機を回避するための
事前の防衛策をとることにあるとする。

そんな中で、MMTでは中央銀行あるいは政府による財政金融オペレーションの
「事実の記述」を議論の中心においている。ここでは、中央銀行が
インターバンク市場の金利が乱高下しないように、
需給に合わせて準備預金を供給しているような描き方になっている。
財政政策と異なり、金融オペレーションがなぜ
何らのタイムラグを生み出すことなく、民間の資金需要に対応できるのだろうか。
MMT派によるなら、一言で言えば、それが「ドレーンだから」ということだ。

「ドレーン(排水口)」というのは、読んで字のごとくで、
要するに、風呂場の床にでも湯舟の脇にでも、しかるべきところに穴をあけておけば
水がそこに到達した時にはひとりでに水が排水され、それ以上は貯まらない、
と、そういうシステムだ。樽の横に穴をあけておけば、水を樽に入れても
その高さまで貯まると引力に引きずられて水は穴から自ら出てゆく。
必要な水の量を溜めるのに、水を入れる人が主体的に水量を調節する必要はない。
MMTによれば、中央銀行のオペレーションは、こうしたドレーンである。
インターバンク市場で準備預金が停滞し、過剰になって金利が下がり始める。
中央銀行は公開市場で常時、目標とする利回りの水準で国債を売却している。
金利が高い間は、どの金融機関も中央銀行が売っている割高の国債を購入しようとは
しないだろう。しかし準備が過剰になり、金利が低下すれば、
中央銀行が売りに出す国債からは自然と割高感が消え、
市場金利が国債利回りより低くなれば、金融機関は自動的に
国債を購入しようとする。中央銀行は、ただ「この価格(利回り)でいつでも
お好きなだけ国債を売りますよ」と待っているだけでよい(十分な国債が
手許にあるかどうかは問題だが)。あらかじめ
所定の金利(価格)で国債を売却する、という「穴」をあけておけば、
あとは準備は、民間営利銀行の利潤動機にひかれて、
自動的に穴の水準に満たされる。そして同時に
それより高い値段で常に国債の購入も行っている。市場で
金利が上昇し、中央銀行がいつでも買い取りますよとしている
利回りを上回れば、民間金融機関はいつでも国債を中央銀行に売却して
支払利息を節約しようとするだろう。手持ち準備が過剰な銀行が
それより高い金利で運用しようとしても、中央銀行は無限の準備供給が
可能なので、どの銀行も中央銀行に国債を売却して
準備を調達するだろう。そのため、過剰な準備を持っている銀行も
この金利を上限とせざるを得ない。ここでも中央銀行は
自ら主体的に行動して国債の売却を行う必要はない。
必要な金利水準に国債購入という「穴」をあけておけば、あとは準備預金が
民間銀行の利潤追求という引力にひかれて、
勝手に穴から市場へ流れ出てゆく。樽のどこに穴をあけるかは
金融政策の決めることであって、現場のオペレーションには
それほど関係ない。現場は、ただ銀行の要望を知り、
銀行の要望に合わせて準備と国債とを交換すれば済む。こうした「ドレーン」方式であれば、
政府が財政支出をいつどのような形で行おうと、
所定の金利の下、必要な準備を過不足なく決済システムに
投じることができる。逆に、もし、中央銀行が
民間の必要とする資金を調査し、能動的にそれに合わせてあとから
準備の「供給量」を決定し、その「供給量」になるように
オペレーションを行うことで、金利を調整しようとすれば
ここでも様々なタイムラグが発生し、銀行はむしろこうした
中央銀行による準備の予想外の過不足によって生じる
金利の乱高下に振り回されることになるだろう。金融市場で
こうした混乱が起こりにくいのは、中央銀行による金利調整が
「ドレーン」方式だからである。

MMT派が裁量的財政政策に代えてJGPを主張しているのは、
こうした「ドレーン」方式であれば、様々な経済政策に伴う
タイムラグを考える必要がなくなるからだ。
JGPも、こうした金融オペレーション同様に、
あらかじめ求人求職市場にJGPという「穴」を設けておくことで、
民間で雇用されない人が発生した時には
本人たちの意思で自動的に労働市場からこうした相対的過剰労働人口を
「排出」することを想定しているのである。
したがって、そのためには民間部門で雇用にあぶれた人たちが現れてから
仕事を作り出すのではなく、
常時、求人が求職を上回る状態でなければならない。
民間部門でいつ大量解雇が生じても
求職の受け皿が常にある状態を保ち続けることが必要だ。
もしそれが可能であれば、JGPは失業の「排水口」として
機能するだろうし、それができなければ、
JGPは、ドレーンとは言えず、結局は景気循環に合わせてプロジェクトを企画し、
求人するというタイムラグを多かれ少なかれ伴う「裁量的」財政政策になる。
そうなれば「ビルト・イン・スタビライザー」というわけにはいかない。

金融政策でもそうだが、「ドレーン」をひとたび開けてしまえば
中央政府のやることは、ドレーンに水が迫ったときに確実に
排水できるように準備しておくことだけである。しかし
いったいどの水準(金利)にドレーンをあけるか、
どのようなドレーンを使うか(国債か、超過準備に対する付利制度か、
あるいはそのほかの何かか)は理事会なり政策委員会なり
場合によっては内閣によって決められ、さらには国会での法律改定などが
必要なケースもあるだろう。
JGPも、賃金水準をどの水準に決めるか、
雇用されるべき公共サービスをどのように決めるのか、
そうした事々は、政治による影響が大きい。ひとたび
こうしたことが決まれば、ドレーンとして機能させることも
難しくはないかもしれないが、多くの人たちが指摘する通りで、
ここに難点があるのは事実だ。ただし、この難点が
しばしば過大視されすぎている、というMMT派の指摘にも
一理あることはある。多くの経済的資源を動員し、
時として財産権を制限することも必要となる様々な公共事業が
普通に行われる一方で、JGPのような単に
民間で雇用されなかった人ができる公共サービス雇用を
創り出すことにそんな大きな困難があるというのは
ちょっと信じられない、というのである。確かにそうかもしれない。
しかし、問題は、求人を作り出すことより、むしろ
こうした求人の多くが何年間も満たされることなく放置され続けるだろう、
ということにあるのではないだろうか。

JGPは、こうした公共サービス雇用が常に求人欄を
満たしている状態を持続しなければ、ドレーンとして機能しない。
そしてP.チェルヌバさんあたりは、そうすることこそ、
自分たちの地域社会を改善してゆこうとする努力そのものに
つながっているんだ、というわけで、これを欠点ではなく、
むしろJGPの積極的な側面として、強調している。この理念には
おいらなんかは賛成するところが大いにあるのだが、
理念は理念として、実際にやるとなるとやはり簡単ではない。
さらに言えば、こうしたことは地域社会内で、住民の義務として、
無償の貢献として行われてきたことを、貨幣化することも意味している。
まあ、これも悪いことばかりではない。近年、
田舎暮らしの問題点ということで、数多くの寒村で
若い人を都会から招いて、そこでの移住を進めていこうとする動きが
ある一方で、こうした動きは、結局のところ、
都会から来た若い人間を、単なる地域社会の無償労働の提供者とみなし、
そうして扱うことしか考えていない、というようなことを指摘する記事を
見たことがある。まあこうした記事の中には、
文面には表れてこない様々な複雑な問題があることも少なくないので、
全く知らないおいらが口出しするような話ではないけれど、
それでもJGPのようなシステムがあるという前提で話を進めることで
何か一石を投じることにつながるのではないかな、とそんな期待も
あるわけよ。地域社会を支えてきた様々な「絆」(とやら)を貨幣化することが
いいか悪いか、、、石牟礼道子を愛好してきたおいら的には
まあ、こうしたことを自分で書くことには、内心色々ないわけじゃないが、
まあ、いずれ一つの選択肢としては、念頭に入れてしかるべきだと思う。
ただ繰り返すが、「ドレーン」ということになると、
職探しの人がそれほど多くない普段は、ただの「穴」に過ぎず、こうした求人が
必ず満たされることを前提に考えることができなくなる。
その点は景気変動によって裁量的に調整される財政支出で埋めたところで同じことで、
だから常に人員不足になるわけだから、JGPの欠点とは言えない、
というのはいいとして(屋根に虫食いがあって雨漏りするからといって、
屋根をとっぱずす理由にはならない。修理することを考えるべきだ、
とはチェルヌバさんの先日のツイッターの便)
こうした地域社会を支えるうえで必要だけれど、営利事業では
提供されることのないサービスを、いつ提供されるかわからない労働力を
あてにしていても、まあ、結局事態は変わらないのかなあ、、、、
という話になってしまう。。。

とはいえ、MMTが提起してしまった問題は、やはり大きいと思う。
資本制経済を財政政策によって安定させようとしたら、それは裁量的支出ではなくて
ドレーン方式だろう。裁量的方式では、数々のタイムラグに由来する不安定性の結果、
かえって景気振幅を大きくし、モラルハザードを助長し、
資産所得格差を拡大する。こうした指摘は重要だ。しかし、
ドレーン方式による雇用の維持は、チェルヌバのいうとおり、
つねに求職者より求人が上回っている状態を前提とする。
そのためにはJGPによって満たされる求人より、満たされないまま放置される求人を数多く
維持し続けなければならない。JGPかどうかにかかわらず、そういう状態にならない限り、
資本制経済は安定しないわけだ。
これは確かに一つの矛盾であるように思われる。これは
JGPか裁量的財政政策課、という枠組みを超えて、
結局、マルクスがその昔提起した、資本制経済そのものに根差した相対的過剰人口の課題に
行きつかざるを得ないのだろう。

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3 コメント

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Unknown (小澤英明)
2021-06-05 19:22:21
知恵袋からSoft Currency Economics IIの日本語レビューを見つけて読みました。

MMTの根幹はここにあるというわけですね。
これを知らないままではMMTのあり方が理解できないままでした。
日本語レビューありがとうございます。

これを読めばなぜMMTがベーシックインカムに反対なのかわかります。

>現在では、金にそのような役割を果たさせることはできない。
>むしろ労働にその役割を与えるべきであろう。
金(GOLD)の代わりを労働にやらせるということは、金本位制ならぬ労働本位制を採用するということではないでしょうか。

疑問なのは租税貨幣説との整合性はどうなっているのかということです。
商品貨幣説は否定したはずなのに、金本位制を復活させるがごとき態度は理解に苦しみます。

>そして、(一般均衡論の示す通り)
>各商品の相対価格比は市場で決まるが、
>その絶対価格水準は、政府が定める
>最低賃金によって決まる

最低賃金を物価の基準にすることと政府支出を固定することで経済を安定させるという考えなのですね。
政府支出を固定するというアイディアはどこからでてきたのか疑問でしたが、理由を理解できたように思います。

労働本位制のもとでデフォルトは起こらないのでしょうか。
納税を貨幣の根幹に置くことと労働を貨幣の根幹に置くことは両立するのでしょうか。

日本版MMTではJGPと政府支出の固定を無視しているように見えますが、その理由もわかったような気がします。

https://toyokeizai.net/articles/-/311863?page=7
>いずれにせよ、JGPはMMTから導かれる必然というより、著者の政治的な立場から導かれた主張というふうに見えてしまいます。
>佐藤:「JGPを提唱しない者はMMT論者にあらず!」というぐらいの勢いですよね。資本主義経済の中に、社会主義的なセクターをつくりたがっている印象を受けます。

ネットを漁ってみたらこんな文章をみつけました。
なぜ労働を金(GOLD)の代わりにするのか本家MMT側の説明があれば良いとおもうのですが。
返信する
Unknown (小澤英明)
2021-06-22 07:10:03
ブログを読んでいくと、第2世代のMMTerはJGPをMMTの必然ではないと考えているようですね。
管理人様がJGPの価格安定効果に疑問を持っているという記述もみつけました。
MMTが普及すれば経済問題が解決するというほど簡単なものではないようですね。
返信する
お返事遅れて申し訳ありません (wankonyankoricky)
2021-07-03 12:53:51
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありません。

JGPについては、MMTの中核に位置すべき議論だと思います。政府による政府貨幣の償還が実物資産に基づいていない以上、その価値を実物の生産活動に結びつける契機がなければならない、交換過程は貨幣の交換価値を安定させる役割を果たせない、というのはMMTがリカードやマルクスやケインズ、ヴェブレンから引き継いだ重要な指摘だと思います。労働本位制であれば、市場で新たな雇用を必要とする労働力がなくなれば政府の支出がその分なくなるというだけのことですから、デフォルトとは関係ないと思います。
ただ実際にJGPをやるとなると、数多くの困難があるのも事実なんでしょうね。何より、教育や医療その他公共サービスがどの程度、公的部門の支出によって支えられるかによって、「decent」な雇用条件というものが変わってきてしまいますから、JGPの賃金水準だけを切り離して考えることは無理なはずなんです。また、日本のような社会構造の下でJGPが地域社会によってうまく運営されるかどうかも、少なからず疑問に感じています。
JGPはじめ、MMTには、「いかにして民主主義と向き合っていくのか」という論点を避けて通ることができません。「民主主義」というのは支配従属関係を心理面から正当化する機構の一つとして、現代では最も重要なわけですけれど、MMTでは、これを国会といったマクロな論点と、地域社会の参加者というミクロの論点と、両方から当事者意識をもって国内居住者が参加しなければならないことを強いる。同時に、少なくともそれだけのことができるような経済的余裕を与えるものがMMTでありJGPでなければならない相補的関係にあるわけで、民主主義を欠くと政府貨幣はただのむき出しの支配の道具になってしまう。
民主主義の経済的前提を作り上げるのがMMTでありJGPだと思っていますが、まあ、なかなか簡単じゃないですよね。。。(´・ω・`)
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