新しいじんけんの話(その2)
じんけんは、不変の真実ではないらしい。
じんけんは、時代によって変わるらしい。
何によって、変わるか。
人々の感情によって。
その時代の人々が、「共感」する程度に応じて、じんけんは変わってきた。
いま同じ時代でも、生まれる国や地域が違えば、じんけんもちがう。
だから、じんけんを、じんけんから考えても、わたしにはよくわからない。
そこで、じんけんしんがいについて考えてみる。
じんけん・しんがい…。
あ、だめか。
じんけんが分からないと、何がじんけんのしんがいかも分からない。
私が、生活の実感のなかで、確かに感じてきたもの。
それは、「子どもの気持ち」しんがい。
人権侵害かどうかは、確かじゃなかったけれど、
「子どもの気持ち」しんがい、であることは、私には確かだった。
体罰はいけない。
子どもの心と身体を傷つけるから。
心理的虐待もいけない。
子どもの心と身体を傷つけるから。
ネグレクトもいけない。
子どもの心と身体を傷つけるから。
子どもを分けてはいけない。
子どもの心と身体を傷つけるから。
かかわりがないのもいけない。
踏み込みすぎてもいけない。
「いっしょがいいなら、なぜ分けた」
障害で分けていいか。
点数で子どもを分けてはいけない。
卵の殻のかけらがみえる幼い子どもを、分けてはいけない。
では15才は分けていいか。
能力で分けていいか。
点数で分けていいか。
子どもの感情は、大切にされなければいけない。
子どもの感情は、敬意をはらわれなければいけない。
子どもの感情を大切にするとは、どういうことか。
日常場面では、どうすることが、子どもの感情を大切にすることになるのか。
子どもの感情に敬意を持つとは、どういうことか。
日常場面では、どうすることが、子どもの感情に敬意をはらうことになるのか。
・・・・・
次々と考えてきて、ふとある言葉が頭に浮かぶ。
このブログの左上にあることば。
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子どもの屈辱をわかってやる感覚が、
私たちにはまだ備わっていません。
子どもを尊重しその傷ついた心を知るというのは、
知的な行為ではありません。
もしそれがそんなものだったら、
もうずっと前に世間一般に広まっていたことでしょう。
(アリス・ミラー)
![yellow5](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ap/yellow5.png)
ああ、このノートは、ずっとじんけんのことを、書いてきてるんだ。
それなら、わたしにも、少し考えらるかもしれない。
さて、じんけん、じんけん、・・・。