ワニなつノート

新しいじんけんの話(その3)


新しいじんけんの話(その3)


私のいまの仕事は、援助ホームで、子どもたちの自立を援助すること。

ここでの「じんけん」とは何だろう?
私は、ここで、子どもの「じんけん」を、守れているか? 
子どもの「じんけん」を、大事にできているか?

ここで、じんけんとは何か?
やはり森田ゆりさんの声がきこえる。
「安心、自信、自由」

ここは、「安全」だと感じてくれているか?
ここで、「自信」を感じてくれているか?
ここで、「自由」に生きられているか?

「自信」とは、「自尊感情」「自己肯定感」を含む。

私のいるホームで、子どもたちは、「安心して、自信をもって、自由に生きる権利」を、感じてくれているか。

15才でここに来る子がいる。
長くて19歳まで、一緒に生活できる時間は約4年。

16歳、17歳、18歳、19歳、…4回の誕生日をいっしょに祝うことができる。
その間に、私は、何を、することが、「自立の援助」の「仕事」だと言えるのか?

そもそも、15、16でここに、来なければいけない「状況」は、その子の「人権」が奪われたからだ。

「安心、安全、自信、自由」という子どもの人権、保護されるべき子ども時代が、奪われた状態で過ごしていたから保護され、「自立の援助」をする「家」に来たのだ。

子どもの人権が奪われた状況とは、どういう状況か?

子どもの側からすれば、「家族・親子・きょうだい」から、「切り離される」「捨てる・捨てられる」状況。子どもにとって、家、親子、きょうだい、祖父母、親せき、学校、地域、つまりは「社会」から、「見放された」状況。
その「状況」から、「一人」で「自立」しろ、といわれる。

時に、児童相談所に一時保護され、時に、自立支援施設で「軟禁」され、または「少年院」の後に、「自分の意思」で、ホームに来る、ことに、なっている。


子どもの人権と、「自己決定権」「自分の意思」とは、何か?

ホームに来る、ことは、「子どもの自己決定」か? はい。いいえ。

はい、は、そこから「はじめる」という、私たちの側の立ち位置。
いいえ、は、子どもの側の、正直な思い。
他に選択肢がない状況=子どもの人権が奪われた環境で、他に「選択肢がない」状況で、本人が決めたことを、「本人の意思」と言えるか?
子どもが、人権を奪われて、奪われて、奪われて、奪われて…
助けてくれる人もなく、人もなく、人もなく、人もなく…。
その後に、「子どもの人権を守る児童相談所等」が、「子どもの人権を与えてくれる場所」として、「ホーム」を紹介して、とりあえずの納得と疑いとあきらめのもと、ここに来る。


そこが、ここ。
私は、「ここ」で、何ができるか?
何をすることが、「子どもの人権」を回復することか?
「子どもの人権を守る」ことになるのか?

こうした言葉の問いと、子どもたちと暮らす日々の生活が、違っていてはいけない。
そう、思っている。

そう思っていながら、しょっちゅう、やりそこなっている自分がいる。
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