ワニなつノート

《みっけ》の話 (その3)

相手をみつけることを、
「みっけ」という。

相手に敬意をみつけることを、
「みっけ」という。

相手のなかに敬意をみつけること、
それは自分の中の敬意を思い出すこと。

だから、一度も敬意をはらわれたことのない人は、
他の人にそれをみつけることは難しい。


子どもの中に敬意をみつけること、
それは子どものころの自分の敬意をみつけること。

子どものころに一度も敬意をはらわれなかったおとなは、
子どもに敬意をみつけることが難しい。


その人は、敬意の代わりにしつけとか教育をつかう。

だから、子どもに敬意を払うという意味が、さっぱり分からない。
子どもは、しつけるもの。
子どもは未熟で間違うもの。
子どものいうことを真に受けてはいけない。
そう、信じているらしい。

子どもには、矯正、服従、従順が必要なのであって、
敬意とか人権とかといって甘やかしてはいけない。
そんなふうに言う人は無数にいる。


障害のある子が一年生になるとき、
「いじめられますよ」という校長先生がいる。

30年前も、いまも、変わらずにいる。

その人は、どんな一年生だったんだろうと思う。
どんな先生たちに教育されてきたのだろう。
どんな大人たちと出会ってきたのだろう。

私の同級生も何人か校長になっている。
あいつなら、私が出会った6才の子どもに何て言うだろう。
なんて声をかけてくれるだろう。

校長や教員になった同級生の顔を何人か、思い浮かべると…。
やっぱり生徒会長とか、学級委員とか、とにかく成績がいいやつの顔が浮かぶ。
何より、みんな、先生たちに気に入られていた。

先生に嫌われて、ふつう学級から追い出されそうになった私とはちがう。


そんなことを考えていたら、先日の相談会で、Jくんの小学校のころの教頭が、私の高校の同級生だったと発覚。

あいつは、どんなやつだっけ?
どんなふうに、最重度の障害の子に向き合うんだろう。
ちょっとドキドキした。

「いい先生だったのよ」とJ君の母親がいう。
学校とも教育委員会とも話が通じず一番大変だった時期に、たった一人、J君を抱っこしてくれたのが、その先生だったという。

へーーーと思った。
ただ、顔と名前と野球部だったことくらいしか覚えていないけど、ちょっとだけうれしかった。

他の先生は誰も近づかないのに、どうして抱っこしてくれたのかと聞くと、わたしの学校の子どもだから、と答えたとか。

へーーー、あいつも、ちゃんとJ君を「みっけ」て、出会ってくれていたんだとうれしくなる。

「普通学級だといじめられますよ」という校長が、全国でかなりの確率でいるなか、同級生がそうじゃないのは、やっぱりちょっとうれしい。


故郷が人情に篤い、あたたかい町だったと思い出せる。

そう、あいつもおれも、特別なことを学んできた訳じゃない。
子どものころ、特別な配慮や知識などなかった。
差別も偏見もいっぱいあった。

でも、ありふれた親切のいっぱいある町だったと思い出せる。
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