ワニなつノート

『子ども救援』について考える(3)




私たちが子どもの支援や救援について、
考え直さねばならないことはあまりに多い。

支援とは、ある人に何らかの特別な事情が起こり、
必要とされるものであり、
誰でも「支援」する立場、される立場になることがあるという了解がある。
支援とは、一方的、固定的な関係の営みではない。

障害のある「ふつうの子」も、障害のない「ふつうの子」も、
ある時、ある場面、ある時期、救援を必要とすることがある。

子どもは、子どもなんだから、大人を信じ、
堂々と助けてと声をあげていいのだ。
「ぼくはいいです…」とか、
「ぼくはえんりょしておきます…」などと6才の子どもが言えば、
「何言ってんの! 子どもが遠慮なんかするもんじゃないの」
そう言ってくれる大人のなかでこそ、
子どもはふつうの子どもとして、
子どもらしく生きることができるのだ。

ところが、その6才の子どもが、障害をもつふつうの子どもの場合、
この社会の対応は違った。

「ぼくはしょうがいがあるからえんりょします」
「そうね、その身体じゃ、しょうがないわね」
そうやって就学猶予や就学免除を押しつけてきた。

「ぼくはしょうがいがあるから、ようちえんはえんりょします」
「ぼくはしょうがいがあるから、しょうがっこうはえんりょします」
「ぼくはしょうがいがあるから、ともだちもえんりょします」

ずっと、この社会はそう言わせてきた。

そのことが、子どもから、
「ふつうの子ども」であることを、奪ってきたのだ。

「障害」があることで、「ふつうの子どもであること」や
「ふつうの生活」を奪われてきたのではなかったのだ。

「特別支援学級や特別支援学校に行っても、ちゃんと交流があるわよ」
「こうりゅう?」
「そうよ、体育とか、音楽とか、給食とか、
みんなの勉強のじゃまにならない教科だけだから、
それは遠慮しなくていいのよ」
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「手をかすように知恵をかすこと」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事