ワニなつノート

『受けとめられ体験について』(1)




『もういちど親子になりたい』 
芹沢俊介 主婦の友社 

1400円 2008年3月発行


まず、[どんな子ども]について書かれたものはひとまず横において、
ちょっと長い引用を読んでほしい。


≪になうことができる・受けとめることができる≫ということ

子どもが自分の人生をあきらめてしまわないためにも、
子どもにとって、子どもの荷物をともに背負ってくれる人、
重く大きすぎる荷物をどうかついでいいのか分からないで、
もがいている子どもをまるごと受けとめてくれる人、
すなわち受けとめ手が絶対に必要不可欠なのです。

受けとめ手と出会い、受けとめられ体験をもつことで、
子どもは自分に課された負荷を
自身で背負っていけるようになるきっかけが生まれます。

受けとめられ欲求を受けとめられるという体験なくしては、
自分で自分を受けとめる、
自己受けとめという事態は起こりようがないのです。

小さな子どもが「抱っこー」とせがむこと。
それは、「受けとめられれば」、
いつまでも、その状態に執着していない。
「もう降りる」
「もう少し抱っこされてなよ」
「いやだ」と抵抗し、からだをバタバタさせる。
一人で立ち、一人で歩くことができる。
一人で歩くことができるということは、
受けとめられ体験を得たことで、
子どもが自分の今の現実を自分で受けとめ、
自分でになうことができるようになったということ。
子どもの自立性のあらわれ。

経験的にいって、親が早く寝てほしいと願っているあいだは、
寝てくれません。
子どもは受けとめ手の不在を感じ取っている。
だから、いつまでも受けとめられ体験を得られない。

まるごと受けとめられる必要を、
こうした身近なありふれた日常的なひとこまから教えられます。

このような受けとめられ体験の積み重なりが、
受けとめ手への信頼をつくるのであり、
受けとめ手への信頼は、そのまま子どもが自分自身を自分で受けとめ、
自分でになうための力となっていく。

受けとめられる体験なくしては、
自己を受けとめるという事態は起こりようがない。



☆  ☆  ☆


上記の文を読んで、私のなかでは、
普通学級に通う子どもたちの受けとめられ体験ということについて
想像が広がる。

生まれた地域の保育園や幼稚園で、
そして小学校でふつうに受けとめられることなくして、
社会参加とか自立という、
自分を受けとめ、自立し、
社会に参加することなどできるわけがない。

それは「障害」のせいではない。
受けとめ手がいないせいだ。

学校の先生に、「いるだけでいいんですか?」と否定的に言われるとき、
「いるだけでいいんです!」
「いることが大切なんです!」と私たちは言ってきた。

それは、ふつうの配慮や援助をする気がなくても、
せめて、みんなと同じ場所にいることまで奪うな、ということだった。
同じ場所で生活すること、
そうすれば、学校という場所は、
最低限の「受けとめの場所」として機能することを、私たちは知っていた。
30人、40人の子どもたちの集団は、
先生がせめて「いること」くらいを引き受けてくれさえすれば、
あとは子どもたちの豊かな世界が開くことを、私たちは知っていた。

地域の小学校で、当たり前に受けとめられること。
「通級」などという条件をつけずに受けとめられること。
みんなと同じように、ふつうの1年生、
ふつうの子どもとして受けいれられる体験。
そんな当たり前のことを、気にもとめずに通過してきた者には、
それがどんなに大事なことかが分からないのだろう。
(つづく)
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