ワニなつノート

2010年の未解決メモ(その1)

2010年の未解決メモ(その1)

『子ども被害者学のすすめ』という本を読んでいます。難しいので、なかなかページが進みません。でも、いつものように、私の中では勝手な妄想が浮かんでいます。「ちゃんと書く」のはいつになるか分からないので、原文抜きで、「勝手に翻訳」を未解決メモとして残しておきます。

     ◇     ◇     ◇


障害児の「子ども時代」の重要性を、個人の問題としてではなく、社会のあり方として考えること。

障害児の学校教育の内実を、「教科教育」の問題としてだけでなく、「コミュニケーション」や「孤独と所属」の問題として考えること。

教育を、「個人の能力」を伸ばすこと、だけに限定して考えることが、逆に障害児の多様な「能力」を伸ばすことを制限してしまっているという事実を明らかにすること。それとは別の、社会モデルから障害児の教育を考えること。それは、従来の障害児教育の、「障害の矯正・治療」「健常者社会への適応や同化」を見直すことであり、問題を社会全体のこととして、概念化する試みである。

今まで、私たちは、大きな視野を持てずにいた。私たちは、障害児の教育に関して、明治時代から「盲聾唖教育」と「精神薄弱児教育」として進められてきた、特殊教育(特別支援教育)の場での教育か、または「普通学級」での教育を求めるか、ということが「争点」にされてきた。それゆえ、本来社会と個人(コミュニオンとコミュニケーション)という視点が薄められ、親と本人の学校「選択」の問題に、矮小化されてもきた。

これらの断片化によって、不幸にも見落とされてしまっていることがある。
分離による、社会と子どもの被害の深刻さと複雑性がどれほどなのか認識されてこなかった。そのために、その場限りの不適切な施策と対応システムを生んできた。

「これらの、問題を総合的な視点を持って見ることが、どのような利点をもたらすかを明らかにする。」

子どもの「障害」の「治療・療育」の問題は、それぞれの分野がばらばらに扱われてきたために、「子ども時代」という一つの重要課題であるとは認識されず、「学校の選択」の問題、または「教育方法」の違いとして過小評価されてきた。障害を理由とした、子どもの「分離」による「被害」へのアプローチが断片的であることは歴然としている。

・・・
障害のある子どもは、社会で分離の被害に最もあいやすい。大人が出遭うのと同じ分離や差別にあう率が高いことに加えて、虐待など、子どもであるがために受ける攻撃にも出あう。子どもは家族からも、兄弟からも分けられ、学校でいじめにあい、仲間から攻撃されることもある。しかも、対応する大人は、それを「子どもの被害」としてとらえることができず、「障害」の問題に矮小化する傾向が強い。実際は、「障害」が、いじめの直接的な原因であることは少なく、むしろ障害への周囲の大人・社会の扱いが、子どもたちの攻撃対象として「障害」を目につくものにするのだ。障害のある子どもの、子ども時代とはなんと困難が多い時代なのだろう。
障害のある子どもが、他の子どもと比べて最も分離の被害に遭いやすいという主張は、教育をどのように定義したとしても、疑問の余地のない事実だ。しかも、病気やケガによる入院のような「分離」は、その分けられることの物語が広く知られており、回復と分離からの復帰にも壁は少ない。
いずれにせよ、子どもたちは実に多く分離被害に遭っており、にもかかわらず、その事実が十分に認識されておらず、探求もされていないということが重要課題である。
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