ワニなつノート

すり替えられた自信



≪すり替えられた自信≫


通級に関しては、最初からいくつもの問題のすり替えがある。

この子が失くしたもの。
それは、この子の障害のせいだという前提がある。
障害のために欠けている能力があり、
そのために「できない」ことがある。
「障害児」なんだから、それは仕方ない。
でも、障害児もがんばれば「その子なりに」発達する。
だから、個別で特別に支援してあげなければならない。
かわいそうな障害児なんだから。
普通の子どもたちと同じにやることは無理なんだから、
障害児に無理をさせるのはかわいそう。

そうして、「この教室にいる自信」を失くして、
うなだれている子どもに、
別の場所を用意して、
ここが「あなたの居場所」だよと、やさしく声をかける。

ここでなら、あなたはどんなに「遅れて」いてもいいんだよ。
できなくても、失敗してもいいんだよ。
あなたは障害児なんだから、あなたのペースで、
障害児のペースで、障害児なりに発達すればいいの。
どっちにしても、普通の高校や普通の就職は無理なんだから、
ゆっくりでいいのよ。
それに親が面倒見れなくなったら、
施設で暮らすしか道はないんだし。
普通の子どもたちのじゃまにならないこの場所が、あなたの場所。
普通の子どもたちに迷惑かけないようこの場所が、あなたの場所。
ここでなら、あなたはあなたのままでいい。
障害があっても、差別されるのかおかしい。
あなたはありのままで、
自分ができることをせいいっぱい努力して、
がんばればそれでいいのよ。

そうして、「この場所にいる自信」を、
別の場所にすり替えて、自信を作り変える。

そうすると、この子が当たり前に、
ありのままでいる自信を、取り戻して元気になれるかもしれない。
でも、それは、いつだって、
みんなのじゃまにならない場所、
特別に用意された場所での「自尊感情」になってしまわないか。
すり替えられた場所での、
すり替えられた自信を身につけてしまったら、
「普通学級という場所、
 みんなが当たり前にいる場所で失くした自信」は、
失くしたままだ。

そして、今度はそのすり替えられた自信で生きていく道しか、
歩けなくなる。
それは、ちゃんと苦労して、ちゃんと傷ついて、
落ち込むことより、大変なことになる。
ちゃんと自分の障害や、自分の苦労に向き合うことを、
させないことで終わらせてはいけない。


この子が、「ここ」で失くしたもの。
それは、「ここにいる自信」。
子どもにとって「ここ」とは、
「子どもなら誰でも当たり前にいられる場所」のこと。
ここにいる自信。


 ☆   ☆   ☆   ☆  


(ハンセン病の、宗教者の問題を思い出す。
 繰り返しになるが、もう一度記す。)


≪宗教者の責任について≫

宗教者たちの根底にあるのは「救らい意識」

世の中で最も哀れな人たちに、
救いの手を差し伸べなければならないという思い。
入所者には隔離の現実を受け入れて、
ここで一生を終えることこそが、
あなたたちにとって救いなのだと。

隔離に抗うのではなく、
受忍、受容、救済という意識へ導かれた結果、
入所者は内面に自ら囲いを作らされた。

隔離も試練へとすり替えられた。
隔離の中での救済という自己完結に陥ってしまった。

断種、堕胎、などの人権が奪われていく隔離の現実に、
覆いをかぶせて見えなくした。

ある意味、
これこそが究極の人権侵害だと思います。

(p150)

コメント一覧

「宿題はないの?」「ある!」じゃ、ここに来て一緒に
しよう、と声をかける。でも最近は、『オレ、一人でできるきん!!』という。でも、わからんやろう!?というと、『オレわかるきん!』『○○君もしよる』というので、○○君は自分でできるじゃない!と言うと、『先生が自分でせいゆうたあ』と言って、スラスラと漢字や数字、掛け算などの式を書いていく。やる気満々で見事なまでの速さで『できた!!』の声。「ににんがご」であり、創作漢字もたくさん。育ちのアンバランスさの中で「あほ」「あんぽんたん」と言葉をかけるけれど、さほど気にする様子もなく、自信に満ちている。家族の中で、また、学校の中で本人のありのままの今のあり様が受容されている環境があることが、今の大切な育ちにつながっているのだろうと思う。自己肯定感を失うことなく、これからも歩みを進めてくれたらと願っている。
限られた場所ではないところでいろいろなことを感じながらも、自尊感情をそれぞれがもてるようになることは、これから生きていくうえでとても重要なことではないかと、ハンディをもつ我が子を見ていてつくづく思うところです。
やすハハ
「その子にあった教育」といって障害児をとりだしてしまう特別支援教育はお断りですね。養護学校義務化の時も言われていたこの言葉。何十年たってもなにも変わっていないことに驚きです。県の教育委員会や福祉関係の方々は、みんなの中で特別な支援をしていくのですよ、と言っていますが、それなら普通の支援でいいのにと思います。予算をとるための名目なら、インクルージョンに向けてとかできないのかな~。でも根底の考え方が、「障害はかわいそうなもの」という考えがあるかぎり、わからないんでしょうね。自分もわが子が障害児でなければわからなかったのだから、行政の人や世間にわかりなさいと言っても難しいのかもしれません。でも障害のあること一緒に育っていく子供たちには期待していきます。親にできるのは子供をあたりまえに、みんなと一緒にいさせてあげることだけかもしれませんね。
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