ワニなつノート

ふつう学級の子どもたちが教えてくれた大切なかけら(その1)


ふつう学級の子どもたちが教えてくれた大切なかけら(その1)


P《否定的な経験の領域について》(1)



共に生きる社会の始まりとしての学校。
そこには、子どもにつきまとう「否定的な経験の領域」がある。

親は、かわいいわが子に、「否定的な経験」をさせたくはない。

「ふつう学級」という場所が、「否定的な経験」の場だとすれば、そこに子どもを入れたくはない。

「ふつう学級」という場所が、「無条件の肯定的体験」を贈る場だと思えば、そこから子どもを分ける分けにはいかない。


昔から、「かわいい子には旅をさせよ」といわれてきた。

それは、子どもを世界に送り出す親の態度であり、「否定的な経験の領域」を渡っていく子への信頼でもある。


「渡る世間に鬼はなし」といい、「渡る世間は鬼ばかり」ともいう。


「鬼」は現実に子どもがぶつかる壁というより、経験も少なく幼く頼りない「大切なわが子」の人生についての大人の不安を表す。


これは、障害児の話という訳ではない。

もし障害があるとしても、子どもの人生は「障害」を克服することが一番の目的ではない。

障害のあるままの姿で生きていく道が、その子の大切な人生ということもある。
たとえ数日、数年の人生であっても、子どもの人生だ。

この世界では、「否定的な経験の領域」をすべてなくすことも、かばうことも、守ることも、親にはできない。

障害によって人の手を借りることが欠かせないとしても、

事件によって人の手を借りることが欠かせないとしても、

災害によって人の手を借りることが欠かせないとしても、

虐待によって人の手を借りることが欠かせないとしても、

ひとりの子どもが、朝に目覚め、話しかけられ、話しかけ、
笑ったり泣いたり、ふつうの生活を繰り返し、
夜の闇のなかでも安心して眠れる安心感とつながり感がはあるか。

ふつうの生活より大切なことはない。

ふつうの生活とは何か。

ふつうの生活を脅かす、「否定的な経験の領域」とは何か。

それは、助けられないことか。

助け方はないのか。


助け方はある。

私は、「無条件の肯定的態度」という助け方を選ぶ。(ホームN)


無条件に子どもの側に立つということ。

それが、私にできるか。


子どもの問題ではない。

私が、自分に向き合えるか、自分への無条件の肯定的態度についての問題だ。
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