和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

絶えず口説かれ。

2010-01-21 | 短文紹介
外山滋比古氏の本に、三人会が登場します。
三人による勉強会。
「コンポジット氏四十年」によると、

「日曜日に、三人のうちのどこかの家を会場にする。家族に迷惑をかけると長続きしないから、会費百円で、出前の寿司をとって食べ、夕方まで大いにしゃべるというのである。はじめは一学期に一度か二度、ということだったが、おもしろくなり、毎月集まり、ときには月に二度会をしたこともある。鈴木一雄君は文献学的背景の学問をしており、鈴木修次君は、経学、訓詁の学によりながら、それを批判した。根本(コンポジット)はケインブリッジ学派の文学研究に夢中だったから、それをふりまわした。互いに、それまでまったく知らなかったことに触れて、知的興奮を味わった。世の中がすこし違って見えるようになる。根本(外山滋比古氏のこと)がまず付属中学から足を洗うと、両鈴木君も、助手として大学へ帰ってきたから三人は同じところで勤めることになる。・・・」(p76)
うん。その三人会というのは、どんな会だったのでしょうね。
さて、大修館書店に、鈴木一雄・外山滋比古編「日本名句辞典」(1988年)があります。
古本で安かったので、さっそく買いました。そのはしがきを鈴木一雄氏が書いております。
そこを引用。

「・・編者のひとり外山滋比古は、かねて日本に本格的な名言名句の辞典のないことを嘆いていた。イギリスの政治家は演説にシェイクスピアや聖書を好んで引用する。日本の政治家が芭蕉の句や世阿弥のことばを引くのを聞いたことがない。うっかり引用すればぺダンティックだと見られるおそれもある。日常会話にもほとんど先人のことばを引き合いに出さない。日本人は、どうも、アフォリズムが肌に合わないのではないか。そんなところに良き名句引用句辞典の出現を阻んでいる因があると思うが、このままではいけない。本格的な名句辞典をつくって、もっとわれわれのことばと心と頭を培うべきではないか。彼の持論である。つねに口にし、エッセイに書き、とうとう、日本人のための『英語名句事典』をまずつくりあげた。外山に絶えず口説かれ、日本の名句引用句辞典に本格的なものがないと言われつづけているうちに、どうやら私もその要請に応えたい気持にかりたてられていったものらしい。すでに『中国古典名言事典』『漢詩名句辞典』『漢詩漢文名言辞典』などの好書が並び立つときでもある。ひとり『日本名句辞典』だけが貧弱であってよいものか。たしかに日本人は人前で先人の言を引くことが不得手かもしれない。といって、名言名句を軽んじているわけではけっしてない。簡潔鋭利な評言、警句、箴言の見事さにわれと膝を打ちながら、おのれのことばの貧しさとひき比べて嘆息する気持が強いのである。名言名句を口にするとき、ちょっとはにかむところがあるのだ。自分自身の心をくぐらせ、心に融け込ませることが先であり、自身のないかぎり人前では口にできない含羞が深いのである。内輪では、親父はけっこう諺ーーー外山はこれを作者出典不明の、庶民のアフォリズムというーーーを引いて息子を説教したり、老母は浄瑠璃のさわりを口ずさんで生涯の指針としたりしている。
われわれの祖先も名言名句にはきわめて鋭敏であった。古典の起筆冒頭に多く古来の名句が活用され、すぐれた散文には引用和歌ーー引き歌ーーがちりばめられている。歌語の発達、本歌取りの技巧なども名句摂取の効用といってよい。軍記物などの道行文、謡曲や浄瑠璃の詞章など、名句名言の頻用はあげれば切りがないくらいである。日本人もまた名言名句をこよなく愛しているのである。やや含羞をこめた、それとない引用のしかたこそ、むしろ日本の美学の特色のひとつといえるであろう。わが国においても、長い歴史の積み重ねのなかで、数知れぬほど名言が生まれ、名句が口ずさまれてきた。人々はこれに親しみ、味わい、人生の証言とも自然美の記憶ともしてきたのである。これを再確認して、その粋を集め、ことばの主と出所を明らかにしておくことは、やはり大切なことと思われる。・・・・」

う~ん。今年はB5より大きめの日めくりカレンダーをもらって毎日めくっております。いつもは小さな日めくりなのですが、今年は日めくりが2冊というわけです。
その大きな日めくりの格言。20日はこうありました。

「才能を疑い出すのがまさしく才能のあかしなんだよ」ホフマン

とあります。
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