「四季終刊 丸山薫追悼号」(1975年)に掲載されていた
篠田一士の「打明け話」(p193~195)の最後は、こうでした。
「 一介のアンソロジストとして・・・
なるべく早い時期に全詩集を読んでみたいと願っている。 」
ここに、ご自身を『一介のアンソロジスト』としておられる。
アンソロジストの紹介する本を片端から読んでみなくてもいいのかもしれない。
あらためて、そう思ってみるとだいぶ、気が楽になってきます(笑)。
ということで、幸田露伴を読まなくてもいいやと、
短絡的に判断しながら、気が楽になります。なんのこっちゃ。
それはそうと、詩とアンソロジーということで、
思い浮かぶ対談がありました。
丸谷才一対談集「古典それから現代」(構想社・1978年)
そのなかにある大岡信氏との対談「唱和と即興」の
しめくくりで、丸谷才一氏はこのように語るのでした。
丸谷】 それで思い出したけれど、
アンソロジーがどういうものかわかってないのが、
近代日本文学ですね。『新万葉集』とか『俳句三代集』とか
いうアンソロジーがあったでしょう。あれ読んでみても、
ちっとも面白くないね。ただ雑然と並んでいる。・・・・
はい。のちに、
丸谷才一氏は『新百人一首』を、
大岡信氏なら『折々のうた』を、発表するわけです。
そう思いながら、この丸谷さんの話を聞いてみたいのでした。
その話をつづけます。
近代日本文学における詩の実状を手っとり早く示しているのが、
いいアンソロジーが一つもなかったってことですね。
つまり、文学と文明との間を結びつける靭帯がなかった。
言うまでもなく、文学の中心は詩なんだし、
その詩と普通の人間生活、あるいはそれをとりまく文明とを
結びつけるのは、個人詩集じゃなくて詞華集・・・。
だから、ある程度以上の歌人、俳人になると、
年間十首とか、二十句とかいうのがあって、それで
それに載ったといって喜んでる本があるでしょう。
それは歌人、俳人の、歌壇的、俳壇的な位置のためには大事でしょう。
しかし、現代日本文明にとって、
そのアンソロジーは何の意味もないわけですよ。
眠られないときに、日本人がみんな読む、
そういう詩のアンソロジーはないんですよ。
詩人の仕事が今の社会の言葉づかいに対して
貢献するというようなことはないし、まして
一社会の恋愛の仕方をきめるなどという、
大それたことはやってないんだ。これではいけない。(笑)
大岡】 しかし、そういうものをつくれない時代なんだよね。
丸谷】 そうなんです。つらい話になってしまった。(笑)
対談はこのへんでよして・・・
( p120~121 )
私も同感です。
コメントありがとうございます。
ここから、
丸谷才一著「新百人一首」
大岡信著「折々のうた」
そして、篠田一士の「現代詩集」と
読みすすめられますように。
こうして、自分の問題に、
ゆっくり答えてゆきます。