下書きのままだった記事をアップしますシリーズ。(この記事も記録程度に色々割愛して書きます。)
前回の記事の鳥海山の後、御鉢まわりもできる岩手山も登ろう!となって富士山に行く一週間前に行ったのですが…
その時は息子途中で膝が痛み出して(サッカーをやっているのですが、その影響や成長痛もあるかも)
無理しないよう、富士山に備え途中で引き返しました。
▲岩手山 またリベンジしたい!とのこと♪
さて、富士山は…出発2日前までどの日も雨の予報でこの休日は岩木山とか青森コース、または、白神山地エリアを満喫する予定を立てていました。
梅雨の遅れや色んな不安定要素が重なり、まぁもともと天候に関しては運任せなところがありましたが、今回も晴れ男っぷりを発揮!
出発前日の22日土曜日に、富士山の方の天気予報をみると見事に行動したい二日間が晴れる見込みとな!!!
急遽、富士山+大井川鉄道の旅に決めたのでした!
6月23日 秋田から車で移動 PICA表富士というキャンプ場のコテージに泊まり(富士宮登山口まで30分と一番近くてアクセス良い)
もちろん途中色々寄りたいところも寄る
富士宮市に入り、花の湯へ 死海の塩の湯がインパクト大 海水の10倍の濃度で本当にからだがプカプカ浮いてたw
6月24日 早朝(4時頃)に登山口を下見&色々確認。この日は23日の時点でもしかしたら25日の方が天気は良いかもと考え大井川鉄道をこの日にする。
千頭駅からアプト式列車に乗る 接岨峡温泉へ その後静岡市街周遊&温泉(風の湯)
富士宮のスーパーOGINOさんを利用してPICA表富士で自炊の二泊三日
6月25日火曜 富士山登頂 帰りは天母の湯
6月26日 移動 秋田に戻る
という日程でした。
この記事では、大井川鉄道の様子は割愛し
25日の富士山の山行の記事をアップします。
▼こちらも記録程度に単につなぎ合わせた動画で編集も特にない雑な記録ですが、様子をアップしてます。
PICA表富士の泊まったコテージ。▼富士登山を考えている方にはおすすめ、自炊の準備さえしっかりしていれば最高なところです!
▲24日の大井川鉄道に行った日の朝
◆富士山登頂の日 25日の記録
3時半前に起きてPICA表富士を出て車で五合目駐車場まで移動。
4時15分くらいに登山口を出発
話に聴いていたより全然人がいなくて駐車場にも余裕で停められて(多分先にいたのは一組だけ)
無事出発
▼この時は山頂も雲に隠れていなくて、やっぱり今日だ!いいぞー!と進む!
すぐに気持ちのいい雲海
富士宮出身の山岳部出身の小林さんが愛鷹山の話をよくしていたのを思い出して富士宮川の景色を望む。
そういえば朝は10回を越える程道路を横断する鹿の群れに出会ったのでした。
登山開始直後も数頭と出会う。
6合目までは余裕綽々で
気持ちいいなぁと話しながら進む長男。
前にいた二人組もすいすい抜いていく長男。
この後登頂するまで前には誰もいなくて、後続の人達も後になって長男のハイペースさと
8歳という事に驚く。
▼宝永山も随分下にみえる高さまで登ってきた!
8合目 実はあおいくん、あまりの風の強さに不安になって、脚の痛みもあって、
急に泣き出したのでした。その直後の休憩時。父はハグして温めて安心してもらう。
息子の防寒着だけだと足りないようで、僕のゴアも着てもらって登る▼9合目途中
上部最難関だった雪渓 流石に強風下でアイゼン必要な斜面はピッケルとアイゼンがあっても、
子連れだとなかなかなプレッシャー。写真で見るより落ちるとアウトな傾斜です。
ここを無事に越えた時は久々の大きな安堵感。写真で見るよりね、傾斜もルートのもろさもなかなかなのです。
頂上の富士山本宮浅間大社▲あまりの強風と寒さで(思っている以上だった)とりあえず、
剣ヶ峰(頂上)アタックの前に、建物の風の当たらないところを見つけて二人で休む。
写真撮影時は、この画像からは伝わりませんが、かなりの強風と寒さでした(報道ではマイナス5度以下…
この時、遭難して亡くなっていた方が御鉢の下にいた模様)ニュースで報道されたのはこの翌日。
剣ヶ峰山頂には9時半。休憩も入れて5時間くらいで登っているので良いペースといえる。
ただ、浅間大社から剣ヶ峰は、蒼唯君特に弱気になっていて心も身体も弱っていました。
そういうわけでおんぶしながら移動したり、頂上は同じように冬装備の大人達も震えていてスペース的にも風の強さに対しても余裕がなく
撮影はしてません。
高度障害は大丈夫そうだったけど、
経験したことの無い強風と寒さに身の危険を感じていたようでした。
雪渓くらいからは、泣きを越えて、ずっとかなりの緊張感。これは、僕も息子に怪我させられないないし、万が一落ちたら、と思ってかなりの緊張感でした。
帰りは、雪渓をくだる選択肢を外し、避難道ともいえるブル道を一部使いました。
剣ヶ峰の稜線から外れただけで、強風から抜ける感じ。これこれ、と思うも、息子は想像を越えていた経験の連続だったようで
とても良かったと思います(笑)
登山口まで下ってから車で移動して、近くの温泉へ▼
のタイミング。完全にぐったり休息。
僕らが頂上にいた時は山頂は雲に隠れていて、写真ではわかりづらいのですが、視界も悪くなったりひょうが降っていて
ささる寒さだったのですが…
▼降りてきてからの気持ちよさそうな晴れた山頂に おーい!とつっこみたくなる泣
息子のリクエストにつき、このおみやげキーホルダーと一緒に富士山を撮る。
帰りは朝霧高原を通って、この日のうちに長野方面へ。
山頂は震える寒さだったのが、ここえはTシャツ一枚でも汗をかく暑さ。。
山岳部時代は合宿以外にも何度も登っていて、慣れした親しんだトレーニングの山だったわけですが、
今回久々に息子と登れて、色々思い出したり、新しい発見もたくさんあってとてもいい経験になりました。
ここからは少しおまけ話です。過去の様子。
▼4年前は今年随分話題になった富士吉田口から少し息子と二人で登りました。4歳の蒼唯。
▲4年前 河口湖に滞在、帰りに箱根から富士山
さらに過去の話になると…
▼大学山岳部時代は、新雪期合宿というのが11月終わりから12月はじめかかるかかからないかくらいにあって
一週間の合宿を富士山で行っておりました。
御鉢の中で滑落停止の様々な訓練や8合目でのビバーク訓練などです。
20年前の写真ですが、冬はこんな感じで今も昔も変わらないはず。
剣が峰の稜線から静岡側のツルツル斜面…そりゃ軽装備で落ちたら止まるわけありません。
▲山頂での写真
実はこの翌日
僕は先輩とロープをつないで相手が滑落した場合の停止させる訓練中、諦めの悪い止め方をしてしまい(制動悪く止めきれず一度転ぶも再度立ち上がり止めようとした)
かなり足に負荷がかかったようで、骨折してしまいました。
そうして御鉢の下の方まで滑り落ちていき、立ち上がろうとしたら、あれ、とても痛い、捻挫とも違う…
みんな集まって応急処置をしてもらい、骨折の疑いもあるので
とりあえず訓練も合宿も中止で「福島は降ろそう」となったのでありました。
大学山岳部がヘリを呼んで、となるととても恥ずかしいを越えて歴史の汚点になる、ていう捉え方もあるのですが、
実際にけが人が出た場合のいい訓練にもなるし、僕が精神的にも身体的にも平気そうだったのもあったと思います。自力下山。
そうして、先輩達の交代でおんぶしてもらい御鉢の下から剣ヶ峰まで登って(この時数人がロープで確保しながら)
下りはザックを空にしてそりがわりにして、5名6名が僕とロープをつなぎ、確保しながらくだるという方法をとりました。
晴れていて東京側も山梨側も神奈川、静岡、愛知側も気持ちよく見えて、最高だなぁと 殿様気分で足を上げながら
くだった記憶があります。
途中監督が何度か滑り落ちるもこの確保した体制だったので全く無事で問題なかったのですが、なんかそれがとても面白かった記憶もあります。
やー、こんな事を書けるのも時効だからでしょう、みんなとても心配してくれて一生懸命僕に負担が無いように降ろしてくれたのだと思います。
御殿場口は流石に長く、新雪期といえども7合、6合上くらいからは雪がなくなり、交代でおんぶしてもらっての下りでした。
脚が揺れるたびに痛みがあって、いてーっと言いつつ監督には我慢しろ!と言われたのも覚えてます。これは記録です。
そして、5合目におりるくらいに救急車を呼んでもらいました。
3776m歩かずに下った記録を持つ男になりました!!!
話は戻り、御殿場の病院に入り診察してもらったところ
思ったよりも複雑で入院と手術が必要となりました!本人が超絶驚き、手術やだ!こわい!となりました(笑)
この日はとりあえず監督のおうち(都内まで戻り)に泊まらせてもらい、翌日、スポーツ等骨折案件でみんなが行く順天堂病院(小渕恵三首相を思い出す)へ。
そしたら、特にこういった場合であれば紹介状を出すので、杏雲堂病院がいいよ、となり
その日のうちに同じ御茶ノ水で近くの杏雲堂病院に入院する運びとなりました。
この二日間の細かいところは覚えていないのですが、全部楽しかった記憶です(笑)
入院生活…山関係の方や身内や地元の同級生、みんなお見舞いに来てくれて、僕の好きなものを持ってきてくれました。食べ物や本等(共同冷蔵庫が僕のプリンで埋め尽くされみんなに同じ部屋の方や看護師さんにわけました)
同じ部屋の方々との話が楽しく、看護師さん達とも仲良くなって
色んな気付きと学び、楽しい思いでになったのでした。
僕の向かいのベッドにいた方(某商社の社長さん)ご夫婦とは、ある日男鹿半島の特集のテレビ番組がやってて、あ!そこは僕の地元です!と話した事がきっかけで
とても仲良くなり
退院後もとてもお世話になり(奥様は飲食のお店をやられていて)
、今も家族で付き合いがあります。骨折しなければ得られなかったご縁も気付きもいっぱい。
そういう出来事だったのでした。
ただ、手術の麻酔時はみんなの前でぽこちんまるだしなのが、二十歳の自分にはとても抵抗感がありました。
それから大学も1か月間公休扱いとはいえ、試験は試験で変わらずあるので、追いつくのが少し大変だった記憶も蘇る。。
あとは、松葉杖をつきながらの通学、満員電車の中で座れなかった時、電車からでる人に押されて身動き取れず倒れそうになった時がありました。
その時、40代くらいお男性だったかな、倒れないようにお姫様だっこのような感じで支えられ見つめ合った記憶が…
やー、色々ありました(笑)