グルメストアフクシマのブログ

男鹿にある大正七年創業の
お肉とお惣菜のお店グルメストアフクシマ
(有)福島肉店スタッフのブログです。

日本で最も歴史のあるコロッケ!?フクシマのコロッケ

2023-02-25 08:16:09 | コロッケ

こんにちは、グルメストアフクシマの福島智哉です。
ご覧くださっている皆様、ご利用下さっている皆様、いつも本当にありがとうございます。

創業から今年で105年目となりました。これまで書いたブログ記事を整理しながら振り返っていましたところ、フクシマのコロッケに関して11年前に書いた記事をみつけました。当時と今では自分の持つ情報量に差があり考え方も異なりますので、以前の記事はそのままにして、それをベースにコロッケに関して更新してみたいと思います。

【フクシマのコロッケを軸に当店の歴史をまとめた記事】になります。

ちなみにタイトルの写真は、2009年の5~6月頃(秋田に戻って数日後)ホームページを自作で作る際、商工会さんの専門家派遣を活用させてもらい撮影してもらったものです。

さて、早速、コロッケの歴史のお話ですが、明治後期生まれの創業者福島秋太郎は、創業前に何をやっていたかの話に遡ります。
創業の大正七年以前は、秋太郎は調理師であり成城学園の調理学校の講師でした。後述しますが、明治期にヨーロッパから日本に伝わったクロケットがこの頃じゃがいもの「コロッケ」として進化を遂げ世に普及し始めたタイミングでもありました。料理の指南書をいち早く手にすることが出来たのも江戸時代からの家系の話にもなるのですが武家の出であったことも関係あるようです。
コロッケ作りをしていたのは、この調理学校の講師の時代だったことを考えるとコロッケの歴史としては、少なくても今の時点で105年以上となるといえます。元祖とうたわれているお店のどこよりも歴史があり、文献を見渡しても今のところフクシマのコロッケが最も歴史あるコロッケということなのでございます。

2011年くらいにも祖父が亡くなったことで色々調べどこよりも歴史があることを認識しだしました。もっとちゃんと調べたり自社の歴史もしっかり調べたり自分達の核がしっかりしてからと思って、あちこち情報を追って10年以上経ちます。

そうして時間も経ちましたが、今のところ、ネット上でも文献を見渡す限り、フクシマのコロッケは最も歴史のあるコロッケと認識しております。紡いできた先祖や関わって下さった多くの方、お客様に改めて感謝の想いです。

自社のコロッケの歴史を世の動きも併せて紹介しながら自分達の想いもお伝えできればと思います。

さてのさて、このフクシマのコロッケは
創業者福島秋太郎が考案し作りはじめたものですが
これまでどのように続いてきたかというとちょっとしたストーリーがあります。


明治から大正中期の当時、日本でコロッケといえば特別な洋食屋さんで食べる事の出来るフランスから伝わったクリームコロッケが主流。明治時代は呼び名もまだクロケッツの時代です。

秋太郎は、この頃若くして喉に違和感を持ち病院に行ったところ、治す方法としては豚の甲状腺を煎じて飲むのがよいと帝大の大学病院でいわれたそうです。今の東京大学の大学病院なわけですが、当時は東洋医学の考え方も大切に判断されていた時代。そして、この持病がきっかけで当店は創業されます。つまり、豚の甲状腺を得ることが出来る仕事を考え、

調理師学校の講師から、持病を治すため肉の仲買人になり肉屋がスタートする事になったのです。

このような背景があったので、自分の「いのち」をながらえるため、この「いのち」を大切にという精神が、弊社、僕ら福島家の芯だと考えています。もしかすると、病気がなければ肉屋ではなく秋田とのご縁もフクシマのコロッケの存在も無かったのかもしれません。

 

それが大正7年の事ですが、大正中期、世は西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流布していた真最中。明治時代に入ったものが日本の中で化学変化を起こし、都市を中心とする大衆文化が花開いていた時代です。

食においても西洋の影響を受け日本独自のものに変身しはじめたものがありました。その代表にコロッケがあげられます。

コロッケの起源などに関しては後述しますが、秋太郎は当時ビフテキやとんかつ、オムライスよりも高価であったコロッケを、じゃがいもとお肉を中心にした手に取りやすい価格で庶民に広めた肉屋の一人であったといえます。

明治期は付け合わせの料理でしたが、コロッケはごはんのおかずとして千切りキャベツの横に添えウスターソースをかけて食べる、という提案をしておりました。

創業と同時に呼び込みのために店頭でコロッケを揚げ始めたというのは、コロッケの唄によるコロッケブーム(詳しくは後述します)が始まった時とも重なりました。店頭で揚げたて販売をするよりも以前から、コロッケは作り続けておりとても人気があったそうです。

創業者秋太郎と妻ハナ(五城目出身です)

▲武蔵小山商店街の皆様の中で(前列左から3,4が夫婦で、秋太郎が手をかけている子が2代目基良)

文明開化により明治期に多量に入った西洋の様々なものが、明治後期から大正期に自由に融合変化を起こし、コロッケ以外にも様々なものが庶民のものとなっていきました。昭和初期にコロッケが全国的に広まった背景には前述した通り肉屋の存在も大きかったようです。

創業者秋太郎の場合は、好きであった調理を活かした点と流行をいち早く取り入れた点、安価で出せるようにラードやお肉の端材を活かしきった点、親しまれる努力をした、という点で、現在も大切にしたいと原点であると考えております。

コロッケの起源と日本での普及

コロッケの起源を辿るとフランスの「クロケット」に由来するという定説にあたりますが、フランスの1740年の初出文献よりも、英語の文献に登場するのが1706年と34年の間がある事、オランダやイタリア、スペイン、ポルトガル、エジプト、その他の国にもクロケット、もしくは似た料理として存在していたため、起源は明確とはいえません。ちなみに英語の初出文献は、Phillips(フィリップス)という調理方法を紹介した本です。

いずれにせよ、日本の江戸時代には世界では存在しており、日本に初登場となるのは明治に入ってからのようです。最も古い記録を調べると、(明治5年)1872年に出版された「西洋料理指南」に「ポテトコロッケの作り方」が載っています

じゃがいもは安土桃山時代にオランダより長崎に伝えられたという記録があります。この時のオランダ船の荷物は、ジャワ島から運んできていることから「ジャガタラ」と名付けて呼ばれていたことから、オランダから運ばれる芋ということで、ジャガタライモとなり、短く言いやすくジャガイモと呼ばれるようになったようです。安土桃山時代は、甘みのあるさつまいもに人気があり、普及はしなかったようです。ちなみに馬鈴薯という呼び名は、じゃがいもを畑から掘り撮った時に、馬につける鈴が薯のようにたくさんついている様子から、漢字で「馬の鈴のような薯」という意味で馬鈴薯という呼び名がついたとされています。

 じゃがいもの収穫量とコロッケの関係性は非常に深く、じゃがいもの収穫量とその年代を照合するとコロッケが普及し家庭に浸透した時期と重なりあいます。大きな伸びは昭和に入り記録されておりますが、最初の動きは明治20年に初の10万トン代、その後徐々に収穫量を伸ばし大正5年には、100万トンの大台を記録。昭和11年には200万トン、昭和56年には370万トンを越える収穫量を記録しております。ここ数年は240万トンくらいを推移しています。

ジャガイモのコロッケは古くから、ヨーロッパ各国にみられる古典的な付け合せ料理であり、こちらも起源を特定するのは困難ですが、明治時代の文明開化の中でフランス料理やイギリス料理の一つとして日本にもたらされたものと考えられています。

明治28年(1885年)の女性誌『女鑑』の家政の項目「だいどころ」という料理紹介の記事には、このクロケット(「仏蘭西コロツケ」と表現)をクリームコロッケとして、ジャガイモを使ったコロッケと対比して、それぞれ別の料理として書かれています。

明治40年頃より東京銀座の洋食店などで、クリームコロッケが登場していますが、当時はあくまでまかない料理であり、お客さんに出していたお店はそれまでなかったといわれています。

当店創業の大正7年(1918年)の1年前の大正6年当時、前述した通りですが

洋食の豚カツは13銭、ビーフステーキは15銭だったのに比べ、コロッケは25銭と高価な料理でした。

当時の大工さんの1日の手間賃平均が3円なのでコロッケ12皿分ともいえます。これを現代において考えると日給が仮に6000円だとするとコロッケは1個500円という価値です。このコロッケがどのように普及していったのか、コロッケの唄も大きな役割を果たしています。

「ワイフ貰って嬉しかったが、いつも出てくるおかずはコロッケ♪」という歌詞の「コロッケの唄」の大ヒットです。これは、益田太郎冠者の作詞で帝国劇場で上演された『ドッチャダンネ』という笑劇中の一曲で、コロッケが知れ渡り徐々に家庭にも登場するようになります。その大きな助けとなったのが、肉屋のコロッケであり、多量に生じる肉の端材や揚げ油に使えるラードなどの活用でが、より安価に提供でき庶民に馴染みだした、という背景があります。

そしてここに、当店もいたという事になるわけです。

初代秋太郎の人間像にも少し触れますと、幼少時のエピソードとしては、お地蔵様に立ちションをし、下半身が腫れあがったというものが有名です。

このあたりで当時を知る方からは、仕事が早く頭がキレる江戸っ子風情漂う人だったときいておりますが、いわゆるべらんめい調の語気が強い口調で、当時は驚いた方もいたようです。2代目の妻イヨによると、その強い口調に最初はおそろしい人にうつったようですが、裏表がなく気持ちのいい心意気の人だった、ともききます。

左 幼少時の基秋

 

▲こちらの写真だとのどの病気で大きく腫れているのがみてとれます。(サワキ写真館さんの文字も刻印されております)

昭和30年代半ば 基秋と 左は2代目基良(僕の祖父)の姉はなこさん(加賀谷さん)

創業時の写真や2代目の幼少時の写真が数多く残っており、写真に価値を置いていた事は考えられますが、新しいものが好きで流行のものにはお金をかけていた面も多々みられます。

昭和12年(1937年)男鹿への移転時は、現在の船川は栄町通りにある加賀谷洋服店さんのところで営業しておりました。妻のハナが旧姓加賀谷で本家が船川にあったことが運びとなったようです。

数年後火事があり、仲買人時代にまわっていたつながりのあるところ(岩手や仙台、北海道も候補地であった)
へ移転する事も考えたそうですが、まわりの方の助けを頂き、丁度現在地の土地が売り出されたタイミングもあり、元浜町の現在地へうつったようです。写真は丁度そのころ、第二次世界大戦がはじまり、加賀谷さんのご主人が出兵時のもので、洋服店として既に開かれております。

こういう時代▲ 「船川美人」としてとりあげられている戦前の写真集「船川案内」より。やーすごい。

 

コロッケストーリー 昭和

2011年の1月29日(肉の日に生まれ肉の日に逝く)に亡くなった祖父の葬式の際集まった親戚や祖母に福島家の歴史やコロッケの事等色々聞きました。
「フクシマのコロッケ」は、単に「ころっけ」として販売していたようです。フクシマのコロッケと名乗るようになったのは、昭和50年代に入ってから。

初代の秋太郎が亡くなってからは祖父が受け継ぐのですが、当時は一度に500個分程作っていたので、祖父はよく「今日俺何時に起きてやってたと思う?」「3時からやってたんだーげへへへー」といった事をコロッケを作る時は毎回言っていたようです(笑)

そんな祖父の赤ちゃんの頃~若い頃

船川第一國民學校の文字 船川第一小学校のことで、現在の市役所に位置し、中川公園のところに新しい校舎が増築されたタイミング

二代目 基良の時代は、(初代からの話ですが)レシピはなくて、決まった材料の使用量目安はあっても

味は勘と経験で決めていたため甘い時もあれば塩分の強い時もあるなど
若干味にむらがあったようです。
パン粉は創業時から細かいドライパン粉で薄衣。
使用する材料や製法は昔ながらのものです。
昭和中期はこのような店構えで

入り口右側で揚げたてをご用意していたようで、今もその記憶があって小さな頃から楽しみに買い物に来てた、とお話下さるお客様もいらっしゃいます。

▲祖母 イヨ あげている図 目の前でお客様がお待ちなってます。

右上の写真はコロッケのたねを混ぜている様子

昭和47年店舗改装時▼(1972年)

昭和47年(1972年)店舗改装時

1980年代 父が京からもどりデリカテッセン・惣菜製造を開始。コロッケの種類もたくさん増え今までのコロッケと見わけをつけるためネーミングを改めました。

それで「フクシマのコロッケ」となったのでした。

▲当時 いつもお店前や近所で弟と遊んでました。1987


煮込んだお肉をさらに挽き
玉ねぎはよーーーーーく炒め調味料をからませた後に煮込み挽いたお肉をさらに炒め玉ねぎとからませ
茹で上げたアツアツのじゃがいも挽いて時間をおかずすぐに混ぜ合わせる、
基本的に製法は変わりませんが販売日は祖父の代は曜日限定だったり毎日ではなかったようです。
 
僕が生まれて最初にコロッケに携わったのは小学生の頃、学校から帰るとじゃがいも洗いや皮むき、お肉も運んだり手伝っていたのを思い出します。バイトのお姉さんより早くじゃがいもの皮をむくのが自分の中のルールで、じゃがいもの皮を早くむける男は最高にかっこいいのだと思っていました。そして店の手伝いは非常に面白かったです。ちなみにそのバイトのお姉さんが、今社員として2010年頃から長年はたらいてくださっています。

この頃父はコロッケ作りをスムーズに行う為の仕組みを作り上げます。

時期によって変わる野菜の持つ甘みを調整するためその時変わる硬さは水分含有量、それらに対するボイル時間や歩留まり、最終的な総量、毎回色んな計測をして数字にする作業を重ね、基準となる季節変動レシピが誕生したのでした。

といっても調味料で甘みを調整する量くらいで、塩の量は固定、あとはじゃがいもや玉ねぎの様子見で使用する量を変えるというもの。企業秘密でも非公開でもないですが、父が積み重ねた努力を簡単に公開するのも気が進まないので

こういう数字になってます。というのは控えます。ただ、使用する材料や分量なんかは公開してます。



1990年代 母はパン粉大臣に就任します。

祖母がつけてきた揚げ物のパン粉、むらなく、とろがつきすぎずうすすぎず、を受け継ぐのですがこれまた奥が深くものにするためには非常に時間がかかったと聞いております。
まだ毎日販売ではない時期、コロッケの日 というのがあったのですがその日はいつもきまったお店に外食に行くのでした。夕食を作る体力は誰も残っていなかったのでしょう。
1996年前後、
フクシマのコロッケを毎日でも食べたい、と言って下さる方がいらしたり、販売頻度を高めてほしいとのお声も多く頂いておりました。

そういったお客様のお声にお応えし毎日販売するようになりました。

▼それくらいの時、今の外観に改装した時です。輪郭は残っていて、中に入ると部屋は昔のままだったりします(笑)

それくらいからたまーにテレビや新聞、ラジオでとりあげてもらう機会が出てきて、

うちのコロッケてそういう取り上げてもらったりするようなものなんだなーと認識しだします。

中学、高校と、たまに持って行って友人達に食べてもらったりしたもんです(宣伝してたwww)

大学生になって初めての仕送りをもらった時、既にホームシックだったり早速都会の洗礼を受け色々弱っていたタイミングだったので、そこにコロッケが入っていて口に入れた瞬間無条件に涙あふれ、その場で崩れ落ちひたすら食べた事も懐かしいです(笑)

2004年頃にはmixiというSNSのさきがけみたいなサイトで

学生時代「グルメストアフクシマ」を勝手に作ったのでした。ネットにあがったのは、一応これが初めてだったかも。

社会人になった時もいつかは戻ると思ってたのですが、結構思ったより転機が訪れ、迷走した末

2009年のはじめに決断し、5月19日に戻り

福島肉店に就職したのでした。そうして、そこからは一緒にお作りしております。

そこから今までの歴史を振り返るとまた色んな人が登場し色んな事がありますが割愛し一旦しめます。

 

フクシマのコロッケは、色んな部分で繊細で、やはりパン粉つけのところは難しく

母が最も安定してスピードも速いし綺麗です。

使用するお肉、塩、じゃがいも、玉ねぎは「できる限り地場産地場消費、できる限り安全性の高い食材を使用する」という信念に基づき材料の配合は変えず使用する材料の種類のみ変更してきました。
例えばお肉はりんごで育った信州牛→秋田錦牛
じゃがいもはできる限り農薬を使わないもの、かつ男鹿産。
塩・・・男鹿工房さんの男鹿の塩

最近はこちらのコンドウダイスケさん、船橋陽馬さんに撮ってもらった写真を使っております。

さて、だーーーーっと文章を書き続けてきて、読み手の事を考えずにとりあえず投稿しますが(後程読みやすいようなおしたいと思います)

コロッケを中心に当店の歴史も振り返りました。

改めて、原点を大切により喜んで頂けるよう勉強し続けわたし達も成長していけるよう励みたいと思います。

 

 


TOMOSU CAFE 「昔の喫茶店風カレー」

2023-02-09 12:36:47 | tomosu cafe

こんにちは、グルメストアフクシマの福島智哉です。

本日はTOMOSUCAFEで昨年からメニューに加わった当店のカレーのお話です。

カフェオリジナルのカレーとは別で「昔の喫茶店風カレー」という名前でご用意しております。

▲自宅でパックをあたためてごはんにのっけただけの図。(トモスでの盛り付け図が手元になくてとりあえずの投稿ですみませぬ)

こちら、当店でも販売していて珈音さんでも出されていたカレーです。

色々と話すと長くなるルーツやエピソードがあるのですが、「伝える」ことを今年は意識していますのでまとめたいと思います。

このカレー、珈音さんで出されていた牛煮込みカレーであり当店の冷凍ケースにいつも入っているカレーの事なんですが、ルーツは昭和、京都にあった「ほんやら洞」という伝説の喫茶店と称されているお店にいきつきます。

そうです、前回読んでもらった方には、色々つながると思うのですが、父基秋が京都での学生時代、そこで出会った辛めなカレーと珈琲の組み合わせです。

2015年に火事で焼失閉業してしまっていますが、ここをルーツにしたほんやら洞のうち、東京の国分寺にシンガーソングライターの中山ラビさんが1977年から引き継いだお店があります。(彼女は一昨年亡くなっちゃいましたが)

基秋は、大学時代(1973年~1976)京都で過ごしたのですが、

当時よく通った喫茶店の一つがこの「ほんやら洞」です。

多くの詩人や美術家、音楽家、文化人たちによって利用され、文化の発信拠点となったところとして有名です。先日投稿したイノダさんもそういった文化人が集まった事で有名ですが、ほんやら洞は文化を意識した店づくりで、詩の朗読会(後に作詞家となり音楽になる作品も多数)なども行われる等文化活動スペースがありました。浅川マキさんのLIVEもここで行われていたそうで、それも伝説級ですが、すごかったそうです。

現代のブックカフェ、ギャラリーカフェなどに代表されるカフェ文化の先駆けとなるルーツともよく言われます。

ここに集った人らが当時は無名でも現在ではレジェンドといわれる人達ばかりで、多くの人に影響を与えた事からも伝説の喫茶店といわれるようになりました。

ほんやら洞の説明で長くなってしまいましたが、基秋が、ここに行こうと思ったきっかけは、当時聴いていた音楽による影響が大きいです。

フォーク、ロック、ジャズなどの音楽雑誌をみていた際に、

当時反戦活動や差別撤廃運動、平和運動などを行いながらそれを音楽で表現していた人達が、そういった文化や活動の拠点となる喫茶店をつくる、という記事をみたようです。

そして、ほんやら洞が完成した一年後に丁度京都の大学に進学する事に決まり、上京と同時に行ったそうです。

これもプリンの話と一部重複しますが、こういった音楽の精神性のお話をしますと

基秋が小四の頃(1965年)P.P&Mによるボブディランの「風に吹かれて」のカバーを聴いて衝撃をうけた、てところまでさかのぼります。

歌詞を見ながら、その音楽性と主張に驚き、原曲のボブディランとはどんな人なのか、

と音楽やその精神性を深堀するようなっていきました。

音楽はもちろんのこと、平和を願った表現やその思想に大きな影響を受けたわけですが、

戦争や差別、公害、不条理な国家間での条約が問題となって続いていた中で、それらに対して「活動をしていた人達」も日本で動き出していた時期です。

60年代後半からタイムリーなのはベトナム戦争に対する反戦運動など、いわゆるヒッピー文化が日本にも広がり、反体制機運が高まり、実際にデモや表現活動と形にうつす人らが増えました。その象徴的なものが全共闘の学生運動が挙げられます。

基秋は影響を受けた音楽の表現の変遷も社会情勢と関係性が強いという捉え方で当時の記憶と結びついていて、後に子ども達(僕ら兄弟)も地球環境や社会と自分達の小さな選択の結びつきをなんとなく考える機会があったのでした。当時日本では高度経済成長期における大気汚染や水質汚濁、自然破壊、新幹線などによる騒音・振動などの公害問題も日本各地で顕在化し、深刻度を増していた時期。公害やこれに対する活動の話にもなります。

 

ほんやら洞では、この時代に前述した「活動をしていた人達」が集まっていて、基秋は影響をどんどん受けます。

こういった事と音楽と自然環境や食がつながっている感覚は、この頃からのものです。

食に目を移すと、効率重視で大量生産が一気に盛んになっていった時代。

農業政策は化学肥料や化学合成農薬の使用を前提とした食糧増産の路線を進み、近代農業が既に主流となっている時代です。レイチェルカーソンが沈黙の春を発表し地球の環境や生態系、資源の限界において疑問を持った人は少なからず今から60年程前にも世界各国で活動しだしていました。

「地球の美しさに深く思いを巡らせる人は、生命の終わりの瞬間まで生き生きとした精神力を保ち続けることができるでしょう。」byレイチェル

日本でもこの経済合理主義や農業の近代化、都市工業化に対して疑問を持つ人がでてきてはいても、圧倒的に「まずは食べる事」「まずは生活する事」が重視され「国」を盛り立てる事に価値観がおかれた社会。

農村社会にあった助け合う仕組みや伝統やライフスタイルまでも破壊する近代化のスピードはすさまじく日本古来の思想そのものも段々失われていった時代だと思います。まともな大人は本当に少ない。そう考えると、今、自分も後世に胸をはれるまともな大人として生きているのか、一つ立ち返る点です。

話は戻り、人間社会や自然生態系の存続を危機に陥れかねないと大量生産効率化をはかった近代農業に対して疑問を持ちはじめた人達が、前述した文化人には多く、京都から発信された考え、主張が広まった後押しになったと考えられます。

と、ここまでが、カレーの話の前置きです。…え!えええ本題まだなんかい!!!(笑)とても長い前置きですね、すっません(笑)

ほんやら洞のカレーは、原材料などは不明ですが、牛煮込みのスパイスのきいたコクのあるもので、珈琲とセットというもの。

そして、やっぱりそういう文化的背景もセットなので、お話せずにはいられなかったのでございます。

基秋はほんやら洞の他、秋田では「びすけっと」という角館にある喫茶店で「有機無農薬珈琲」とカレーというセットをこのお店が創業当時から食していて、そのカレーがやはり深入り珈琲に合うほんやら洞のものとそっくりと感じ、今振り返ると昔の喫茶店が様々な文化背景の中独自に生んだカレーの内珈琲を重要視しているところの味なのだなーと振り返り「昔の喫茶店風カレー」という名称が浮かんだわけでございます。

びすけっとの店主は登山が好きで両親も登山が好きでそういったつながりもあります。そして、「自然」や「手作り」「手仕事」を大切にされている方で色んな道具やバッグなど天然素材で自分で作っちゃう方で、僕も小さな頃からお世話になっており今も交流のある尊敬するおじさんです。創業は1980年で現在も営業されております。

最近の一枚。(秋田ホリデーパスで息子と二人旅、内陸線の缶バッチを頂いたのでした♪)

基秋は実家のお店を継ぐ事になると(1977年くらい)
間もなくコロッケの素材は有機無農薬のものに変える判断をするなど、学生時代醸成された価値観を形にしていきます。

また自らカレーをつくる時は決まってほんやら洞のカレーに似たものとなり、それが福島家我が家のカレーでもありました。母のカレーはまた違ってそれもとても好き。

そして、総菜の販売(揚げ物以外に現在の品揃えをはじめたのは1984年頃)も安定してくるとカレーの販売(1990年代後半から)も始めます。僕は学生時代(2003年~)など仕送りで嬉しいアイテムの一つだったりその当時のカレーもよく覚えています。秋田に戻ってきた頃色んな新しい取り組みをはじめ、たくさんの方と交流する機会がありました。その中で、

2010年頃、某シェフよりいいかげんなカレーだと厳しいご指摘を頂きまして、一旦販売を中止し、あれこれ見直す事にしました。そのお言葉があって、カレーの素材・レシピ・分量や保存方法や販売方法を一から見直して、小麦粉や調味料、油、スパイス、をそれまでのものから地元の安全性の高いもの、とどんどん変えていきました。厳しく言って下さったシェフはじめ関係者の方に心から感謝です。

そして、また新たな形で出したいなーとなったきっかけが、珈音さんの「蛍カフェ」のお話でした。

2010年の6月に蛍鑑賞をご案内してもらった際に毅さんの蛍にかける想いをきき胸があつくなりました。ホタルが舞う光景を子ども達の子ども達にも残したい、そういった想いを伝える機会を蛍カフェとしてやってみたいとお伺いし、夜のフードで珈琲に合うカレーをセットでコラボしましょうととんとん進んだのでした。

珈音ブレンドと合せた試食を数度、微調整を繰り返し仕上げて今の形になりました。

▲陶房つるかまさん(地元若美の作家さん)の釉薬も地元の素材を織り込んでつくられた陶器の器に珈音とFUKUSHIMAの文字も!

なるべく顔の見える地元の農家さんや作り手さんのオーガニック素材、安全性の高い素材を選択したいと思うようになったのは、食べる人のからだの健康面や環境や社会におけるお金の巡り、人の行動も含む様々な循環が挙げられるのですが、深くは前述してきた事がベースになっており、そこをつきつめると「家族」「愛」になると思っています。

そう在りたいという事です。

珈音さんでの蛍カフェは2011年6月からのスタート、これを機にお店での販売も新しいカレーとして生まれ変わり再スタートしております。「フクシマの牛煮込みカレー」として、地元の牛という事で秋田錦牛(2010年末に切り替え…それまではりんごで育った信州牛)を使用しておりますが、

今までカレーにおいてルーツを深く追った事はなかったのでトモスでもメニューにしよう、となった時は

良い機会を頂いたなーと思い感謝しております。

この取り組みは何度か数社に取り上げてもらったのですが、男鹿を取材しようといらしてた通りすがりのチームがうちに寄って下さり、急遽このカレーから毅さんのホタルへの想いや取り組みを紹介するような企画も作って下さりました。荻野目洋子さんがナレーターの時は少しやりとりもさせてもらってラッキーでした♪(バブリーな再ブレイクはこの後色々重なって起こったのでした)

この時のリーダー的な存在の長谷川さんが大学の先輩だったり色んなつながりがありまして、

フランスの写真家シャルルフレジェ氏をアテンドしたきっかけにもなったのでした。

▼秋田県民なら誰もが目にした事があると思うこの一枚、このシャルルによるものです。芦沢地区のなまはげ(通称岡本太郎の面)

▲寒い中小雨が降ってたのと長時間の撮影で皆さまお疲れだったなーというのを思い出します。こんな静かななまはげ達をみたのは初めてでした(笑)

話は戻りまして、日本の黒毛和牛のルーツは神戸牛などで有名な但馬牛であり、関西圏が牛を食す文化が強く、それがカレーにも表れており、一般家庭で「カレー」といえば関西だと圧倒的に牛が多く、東日本や九州では豚か鶏、等のお肉というアンケート結果も数字に出ています。

このフクシマのカレー(昔の喫茶店風カレー)も牛の煮込みカレーで父が京の街で過ごしほんやら洞で受けた影響は大きいなと思います。

素材は、秋田錦牛・玉ねぎ・人参(基本的には松橋さん、安田さんはじめ大潟村で農薬化学肥料不使用で作っている方のもの)ホールトマト、レーズン、にんにく、しょうが、バター、米油、小麦粉、スパイス各種、醤油、ブイヨン、ローリエを使用しており、地元産の有機野菜がそろわない時は市場のお野菜を使用しています。

▲店内入られましたら右の冷凍ケース、真空パックでこちらにご用意しております。

前述したとおり、僕にとっては父の味で本当好きなカレーなので、この感じ共有してくださる方が増えたら本当嬉しいのでございます。

是非、機会ありましたら、トモスブレンドとこのカレーを合わせてお召し上がりください。
当店のレーチンケース(冷凍)やirutocoさんでもご購入頂けます(^^)ご家庭でも是非ご利用ください♪


トモスカフェのプリン (TOMOSU CAFE プリンのお話)

2023-02-07 19:59:16 | tomosu cafe

こんにちは グルメストアフクシマの福島智哉です。

今日はTOMOSUCAFEのプリンのお話です。

▲(一人さん撮影 たしか)

トモスのプリンのルーツを辿るときっかけは60年くらい前のお話になります。

プリン自体は京都にある「イノダコーヒ」さんの昔ながらのカスタードプリンを模しており、学生時代、現社長基秋が影響を受けた事に起因します。

ちなみに「イノダコーヒー」と「―」はつかず「コーヒ」です。今では全国のスーパーにもアイスコーヒーや珈琲豆まで販売されておりご存知の方も増えていると思いますが、イノダ本店でのむのがイノダの珈琲なのだ!と僕個人は思います。

▲最近行った時の写真▼

そんな話はまた後述するとしまして…

時は1973年 基秋、大学時代(1973年~1976)を京都で過ごしたのですが、

(左 基秋 料亭こあん さんでのアルバイト時 しょうけんこと萩原健一さん右から二人目と一番右が父の同期の友人、真ん中おかみさん)

(大関のCMで湯豆腐で有名だったこあんさんのところに来た時だったようで、探したらその時のCMもみつけましたhttps://youtu.be/oPCrN4gh2JM)  

当時よく通った喫茶店の一つがこのイノダさんでした。

創業からかわらず現在もネルドリップで本店の方はかつてのレトロな空間をそのまま残していて「ザ昔」を楽しめるお店です。ちなみに当時は、今ほど観光化されておらずまだ街のおっちゃんが通う「地元の喫茶店」だった印象とのことです。

ここに行きたいと思ったきっかけが、高田渡さんの珈琲不唱歌(コーヒーブルース)という曲です。この曲が世に出たのは、1971年5月20日でシングルレコードのB面。ちなみにA面は「自転車に乗って」…このコーヒーブルースの曲で「三条へいかなくちゃ 三条堺町のイノダっていうコーヒー屋へね」という歌詞があって、イノダの存在を知るのですが、三条には近距離に三条店と本店と二店舗あるのですが、「自転車に乗って」を考えると間違いなく本店なのですわい!

そういうわけで、当時聴いていた音楽の影響もろ受けなミーハー基秋でしたが、プリンの話に行く前に、さらに何故高田渡さんが好きだったかの話をすると…

基秋が小四の頃(1965年)P.P&Mによるボブディランの「風に吹かれて」のカバーを聴いて衝撃をうけた、てところまでさかのぼります。

もし音楽の影響がなければ、プリンも今のお店のスタイルも無かったんじゃないかなーと思うわけです。

話は戻りまして、この、「風に吹かれて」の歌詞を見ながら、その音楽性と主張に驚き、原曲のボブディランって何者なんだ!

と音楽やその精神性を深堀するような感じになっていったそうな。

音楽はもちろんのこと、平和を願った表現やその思想に大きな影響を受けたわけですが、

当時の世界情勢や日本の社会情勢をみるとそこには安保闘争やベトナム戦争に対する文化人や音楽シーンの動きが背景としてあります。

この流れで、反戦活動や平和活動をしている人とつながりの深いシンガーソングライターの高田渡さんのコーヒーブルースを聴いて

歌詞に出てくる「イノダコーヒ」にいつか行ってみようと思ったようです。

それが、1971~2年の頃の話なので、その翌年、京都の大学に進学時、早速イノダに行く事になります。

そして、イノダで出会ったネルドリップの深入りでかつ独自の砂糖とミルク入りのコーヒーに合うイノダのプリンがモデルになっているのであります。

江戸時代から明治期にかけて日本に伝わったシンプルなカスタードプリンをイノダでは創業時から再現してだしているようです。

昔ながらのかたさもありつつなめらかなプリン。

僕ら兄弟は幼少時から毎年家族で京都に旅行に行っていたのですがイノダコーヒ本店は必ず寄っていたのでした。プリン=京都のかほりと当時の思い出。

(南禅寺近くのお宿で泊まって早起きしてイノダのモーニング、父についていったのが今も記憶に残ってます。そういうのが毎年あったなあ、よく連れて行ってくれたもんで今考えるとすごいな。)

そして、うちのお店でも「昔風プリン」という名でイノダのプリンの影響もろ受けなそっくりなものを出していたのでした。

しかしながら、保健所から「菓子製造」の許可なしにはプリンはだせませんとご指摘頂き、(当然ですよね)販売を中止した経緯があります。惣菜の延長というにはアウトゾーン…でも「甘い蒸したまご」という名前ならば当時の話だと惣菜としてもよかったみたいです(笑)

販売期間は5年前後で、その後、しばらく世に出る事はありませんでした。家ではたまに食べてましたが。

…動き出したのは、2019年に化世沢食堂がオープンしたこと。

レオさんの時やバーガー修吾(大橋君)の際に登場させてもらう機会を頂き、そのステップをふんでTOMOSU CAFEでも当店監修ということで、プリンをご用意する運びとなったわけでございます。

 

ルーツを辿っていくと、音楽との出会いやその精神性にきっかけを見出す事もできるのでした。

そういうわけで、美味しいプリンといえば世の中いっぱいありますが、僕個人はなにかと原点回帰のプリンであり、同時に京都に行きたくなるプリンであり、60年代から70年代前半の当時の音楽シーンをイメージするプリンでもあるのでした。

TOMOSUで出す、となった際、レシピはそのままでも使う素材をどうしようか、という所で何度も試行錯誤し、

一度に8種類のプリンを試食する、みたいなのを繰り返しました。同じ分量のレシピでも、使う素材や組み合わせ、カラメルの仕上げ具合で色んなパターンができて、そこから選ぶ作業が必要でした。

そのプロセスは割愛するとして、多くの人がこれだ!と意見の一致した「さっととけるてんさい含蜜糖」を使用した

今のスタイルに決まったのでした。ただ、決め手は船木夫妻&福島家共に全会一致したプリンだったこと。

まだTOMOSUができる前くらいまでは、よく船木家で夜な夜なお酒ものまずに午前様トークをしていたのですが、そういうのも思い出されます。

 

 

ここからはおまけの話ですが、

前述した、高田渡さんは実は船川でライブをしたことがあります。今考えるとめちゃくちゃすごい事です!!!

父が中学二年の時(1969年)、船川第一小学校(まだ現市役所に所在していたころ)の体育館で当時人気のあったフォークグループ「五つの赤い風船」と「岡林信康」さんが来るというライブが予定されていました。

が、丁度それが計画された少し後に、岡林さん失踪してしまい(有名な話ですw)代打で高田渡さんが来ることになったそうです。

ちなみに北島三郎さんのサブロウSHOWや五月みどりさんの演歌コンサート、メキシカンロックの橋幸夫ショウなんかも当時行われたくさんの人が船一に集まったようです。

高田渡さんの話に戻ると

僕は「生活の柄」という曲がすごく好きで

近年だとハンバートハンバートのお二人がカバーしています。https://www.youtube.com/watch?v=qHY1o2fGRWc

 

 


2023年2月の営業のお知らせ

2023-02-02 07:05:03 | 営業のお知らせ

こんにちは、グルメストアフクシマの福島智哉です。

とても寒くてとても静かですね。

次男が生後三か月となりました。長男は小学一年生になる準備あれこれを進めているところです。

未来に想いを馳せる、という事は力がわくものですね。

さて、2月の営業のお知らせです。

今月は平日も17時で閉店いたします。祝日は11日、23日、どちらも営業いたします。

20日の月曜日はお休みいたします。

▼カレンダーのPDFファイルです。印刷などご自由にご利用ください。