グルメストアフクシマのブログ

男鹿にある大正七年創業の
お肉とお惣菜のお店グルメストアフクシマ
(有)福島肉店スタッフのブログです。

TOMOSU CAFE 「昔の喫茶店風カレー」

2023-02-09 12:36:47 | tomosu cafe

こんにちは、グルメストアフクシマの福島智哉です。

本日はTOMOSUCAFEで昨年からメニューに加わった当店のカレーのお話です。

カフェオリジナルのカレーとは別で「昔の喫茶店風カレー」という名前でご用意しております。

▲自宅でパックをあたためてごはんにのっけただけの図。(トモスでの盛り付け図が手元になくてとりあえずの投稿ですみませぬ)

こちら、当店でも販売していて珈音さんでも出されていたカレーです。

色々と話すと長くなるルーツやエピソードがあるのですが、「伝える」ことを今年は意識していますのでまとめたいと思います。

このカレー、珈音さんで出されていた牛煮込みカレーであり当店の冷凍ケースにいつも入っているカレーの事なんですが、ルーツは昭和、京都にあった「ほんやら洞」という伝説の喫茶店と称されているお店にいきつきます。

そうです、前回読んでもらった方には、色々つながると思うのですが、父基秋が京都での学生時代、そこで出会った辛めなカレーと珈琲の組み合わせです。

2015年に火事で焼失閉業してしまっていますが、ここをルーツにしたほんやら洞のうち、東京の国分寺にシンガーソングライターの中山ラビさんが1977年から引き継いだお店があります。(彼女は一昨年亡くなっちゃいましたが)

基秋は、大学時代(1973年~1976)京都で過ごしたのですが、

当時よく通った喫茶店の一つがこの「ほんやら洞」です。

多くの詩人や美術家、音楽家、文化人たちによって利用され、文化の発信拠点となったところとして有名です。先日投稿したイノダさんもそういった文化人が集まった事で有名ですが、ほんやら洞は文化を意識した店づくりで、詩の朗読会(後に作詞家となり音楽になる作品も多数)なども行われる等文化活動スペースがありました。浅川マキさんのLIVEもここで行われていたそうで、それも伝説級ですが、すごかったそうです。

現代のブックカフェ、ギャラリーカフェなどに代表されるカフェ文化の先駆けとなるルーツともよく言われます。

ここに集った人らが当時は無名でも現在ではレジェンドといわれる人達ばかりで、多くの人に影響を与えた事からも伝説の喫茶店といわれるようになりました。

ほんやら洞の説明で長くなってしまいましたが、基秋が、ここに行こうと思ったきっかけは、当時聴いていた音楽による影響が大きいです。

フォーク、ロック、ジャズなどの音楽雑誌をみていた際に、

当時反戦活動や差別撤廃運動、平和運動などを行いながらそれを音楽で表現していた人達が、そういった文化や活動の拠点となる喫茶店をつくる、という記事をみたようです。

そして、ほんやら洞が完成した一年後に丁度京都の大学に進学する事に決まり、上京と同時に行ったそうです。

これもプリンの話と一部重複しますが、こういった音楽の精神性のお話をしますと

基秋が小四の頃(1965年)P.P&Mによるボブディランの「風に吹かれて」のカバーを聴いて衝撃をうけた、てところまでさかのぼります。

歌詞を見ながら、その音楽性と主張に驚き、原曲のボブディランとはどんな人なのか、

と音楽やその精神性を深堀するようなっていきました。

音楽はもちろんのこと、平和を願った表現やその思想に大きな影響を受けたわけですが、

戦争や差別、公害、不条理な国家間での条約が問題となって続いていた中で、それらに対して「活動をしていた人達」も日本で動き出していた時期です。

60年代後半からタイムリーなのはベトナム戦争に対する反戦運動など、いわゆるヒッピー文化が日本にも広がり、反体制機運が高まり、実際にデモや表現活動と形にうつす人らが増えました。その象徴的なものが全共闘の学生運動が挙げられます。

基秋は影響を受けた音楽の表現の変遷も社会情勢と関係性が強いという捉え方で当時の記憶と結びついていて、後に子ども達(僕ら兄弟)も地球環境や社会と自分達の小さな選択の結びつきをなんとなく考える機会があったのでした。当時日本では高度経済成長期における大気汚染や水質汚濁、自然破壊、新幹線などによる騒音・振動などの公害問題も日本各地で顕在化し、深刻度を増していた時期。公害やこれに対する活動の話にもなります。

 

ほんやら洞では、この時代に前述した「活動をしていた人達」が集まっていて、基秋は影響をどんどん受けます。

こういった事と音楽と自然環境や食がつながっている感覚は、この頃からのものです。

食に目を移すと、効率重視で大量生産が一気に盛んになっていった時代。

農業政策は化学肥料や化学合成農薬の使用を前提とした食糧増産の路線を進み、近代農業が既に主流となっている時代です。レイチェルカーソンが沈黙の春を発表し地球の環境や生態系、資源の限界において疑問を持った人は少なからず今から60年程前にも世界各国で活動しだしていました。

「地球の美しさに深く思いを巡らせる人は、生命の終わりの瞬間まで生き生きとした精神力を保ち続けることができるでしょう。」byレイチェル

日本でもこの経済合理主義や農業の近代化、都市工業化に対して疑問を持つ人がでてきてはいても、圧倒的に「まずは食べる事」「まずは生活する事」が重視され「国」を盛り立てる事に価値観がおかれた社会。

農村社会にあった助け合う仕組みや伝統やライフスタイルまでも破壊する近代化のスピードはすさまじく日本古来の思想そのものも段々失われていった時代だと思います。まともな大人は本当に少ない。そう考えると、今、自分も後世に胸をはれるまともな大人として生きているのか、一つ立ち返る点です。

話は戻り、人間社会や自然生態系の存続を危機に陥れかねないと大量生産効率化をはかった近代農業に対して疑問を持ちはじめた人達が、前述した文化人には多く、京都から発信された考え、主張が広まった後押しになったと考えられます。

と、ここまでが、カレーの話の前置きです。…え!えええ本題まだなんかい!!!(笑)とても長い前置きですね、すっません(笑)

ほんやら洞のカレーは、原材料などは不明ですが、牛煮込みのスパイスのきいたコクのあるもので、珈琲とセットというもの。

そして、やっぱりそういう文化的背景もセットなので、お話せずにはいられなかったのでございます。

基秋はほんやら洞の他、秋田では「びすけっと」という角館にある喫茶店で「有機無農薬珈琲」とカレーというセットをこのお店が創業当時から食していて、そのカレーがやはり深入り珈琲に合うほんやら洞のものとそっくりと感じ、今振り返ると昔の喫茶店が様々な文化背景の中独自に生んだカレーの内珈琲を重要視しているところの味なのだなーと振り返り「昔の喫茶店風カレー」という名称が浮かんだわけでございます。

びすけっとの店主は登山が好きで両親も登山が好きでそういったつながりもあります。そして、「自然」や「手作り」「手仕事」を大切にされている方で色んな道具やバッグなど天然素材で自分で作っちゃう方で、僕も小さな頃からお世話になっており今も交流のある尊敬するおじさんです。創業は1980年で現在も営業されております。

最近の一枚。(秋田ホリデーパスで息子と二人旅、内陸線の缶バッチを頂いたのでした♪)

基秋は実家のお店を継ぐ事になると(1977年くらい)
間もなくコロッケの素材は有機無農薬のものに変える判断をするなど、学生時代醸成された価値観を形にしていきます。

また自らカレーをつくる時は決まってほんやら洞のカレーに似たものとなり、それが福島家我が家のカレーでもありました。母のカレーはまた違ってそれもとても好き。

そして、総菜の販売(揚げ物以外に現在の品揃えをはじめたのは1984年頃)も安定してくるとカレーの販売(1990年代後半から)も始めます。僕は学生時代(2003年~)など仕送りで嬉しいアイテムの一つだったりその当時のカレーもよく覚えています。秋田に戻ってきた頃色んな新しい取り組みをはじめ、たくさんの方と交流する機会がありました。その中で、

2010年頃、某シェフよりいいかげんなカレーだと厳しいご指摘を頂きまして、一旦販売を中止し、あれこれ見直す事にしました。そのお言葉があって、カレーの素材・レシピ・分量や保存方法や販売方法を一から見直して、小麦粉や調味料、油、スパイス、をそれまでのものから地元の安全性の高いもの、とどんどん変えていきました。厳しく言って下さったシェフはじめ関係者の方に心から感謝です。

そして、また新たな形で出したいなーとなったきっかけが、珈音さんの「蛍カフェ」のお話でした。

2010年の6月に蛍鑑賞をご案内してもらった際に毅さんの蛍にかける想いをきき胸があつくなりました。ホタルが舞う光景を子ども達の子ども達にも残したい、そういった想いを伝える機会を蛍カフェとしてやってみたいとお伺いし、夜のフードで珈琲に合うカレーをセットでコラボしましょうととんとん進んだのでした。

珈音ブレンドと合せた試食を数度、微調整を繰り返し仕上げて今の形になりました。

▲陶房つるかまさん(地元若美の作家さん)の釉薬も地元の素材を織り込んでつくられた陶器の器に珈音とFUKUSHIMAの文字も!

なるべく顔の見える地元の農家さんや作り手さんのオーガニック素材、安全性の高い素材を選択したいと思うようになったのは、食べる人のからだの健康面や環境や社会におけるお金の巡り、人の行動も含む様々な循環が挙げられるのですが、深くは前述してきた事がベースになっており、そこをつきつめると「家族」「愛」になると思っています。

そう在りたいという事です。

珈音さんでの蛍カフェは2011年6月からのスタート、これを機にお店での販売も新しいカレーとして生まれ変わり再スタートしております。「フクシマの牛煮込みカレー」として、地元の牛という事で秋田錦牛(2010年末に切り替え…それまではりんごで育った信州牛)を使用しておりますが、

今までカレーにおいてルーツを深く追った事はなかったのでトモスでもメニューにしよう、となった時は

良い機会を頂いたなーと思い感謝しております。

この取り組みは何度か数社に取り上げてもらったのですが、男鹿を取材しようといらしてた通りすがりのチームがうちに寄って下さり、急遽このカレーから毅さんのホタルへの想いや取り組みを紹介するような企画も作って下さりました。荻野目洋子さんがナレーターの時は少しやりとりもさせてもらってラッキーでした♪(バブリーな再ブレイクはこの後色々重なって起こったのでした)

この時のリーダー的な存在の長谷川さんが大学の先輩だったり色んなつながりがありまして、

フランスの写真家シャルルフレジェ氏をアテンドしたきっかけにもなったのでした。

▼秋田県民なら誰もが目にした事があると思うこの一枚、このシャルルによるものです。芦沢地区のなまはげ(通称岡本太郎の面)

▲寒い中小雨が降ってたのと長時間の撮影で皆さまお疲れだったなーというのを思い出します。こんな静かななまはげ達をみたのは初めてでした(笑)

話は戻りまして、日本の黒毛和牛のルーツは神戸牛などで有名な但馬牛であり、関西圏が牛を食す文化が強く、それがカレーにも表れており、一般家庭で「カレー」といえば関西だと圧倒的に牛が多く、東日本や九州では豚か鶏、等のお肉というアンケート結果も数字に出ています。

このフクシマのカレー(昔の喫茶店風カレー)も牛の煮込みカレーで父が京の街で過ごしほんやら洞で受けた影響は大きいなと思います。

素材は、秋田錦牛・玉ねぎ・人参(基本的には松橋さん、安田さんはじめ大潟村で農薬化学肥料不使用で作っている方のもの)ホールトマト、レーズン、にんにく、しょうが、バター、米油、小麦粉、スパイス各種、醤油、ブイヨン、ローリエを使用しており、地元産の有機野菜がそろわない時は市場のお野菜を使用しています。

▲店内入られましたら右の冷凍ケース、真空パックでこちらにご用意しております。

前述したとおり、僕にとっては父の味で本当好きなカレーなので、この感じ共有してくださる方が増えたら本当嬉しいのでございます。

是非、機会ありましたら、トモスブレンドとこのカレーを合わせてお召し上がりください。
当店のレーチンケース(冷凍)やirutocoさんでもご購入頂けます(^^)ご家庭でも是非ご利用ください♪


トモスカフェのプリン (TOMOSU CAFE プリンのお話)

2023-02-07 19:59:16 | tomosu cafe

こんにちは グルメストアフクシマの福島智哉です。

今日はTOMOSUCAFEのプリンのお話です。

▲(一人さん撮影 たしか)

トモスのプリンのルーツを辿るときっかけは60年くらい前のお話になります。

プリン自体は京都にある「イノダコーヒ」さんの昔ながらのカスタードプリンを模しており、学生時代、現社長基秋が影響を受けた事に起因します。

ちなみに「イノダコーヒー」と「―」はつかず「コーヒ」です。今では全国のスーパーにもアイスコーヒーや珈琲豆まで販売されておりご存知の方も増えていると思いますが、イノダ本店でのむのがイノダの珈琲なのだ!と僕個人は思います。

▲最近行った時の写真▼

そんな話はまた後述するとしまして…

時は1973年 基秋、大学時代(1973年~1976)を京都で過ごしたのですが、

(左 基秋 料亭こあん さんでのアルバイト時 しょうけんこと萩原健一さん右から二人目と一番右が父の同期の友人、真ん中おかみさん)

(大関のCMで湯豆腐で有名だったこあんさんのところに来た時だったようで、探したらその時のCMもみつけましたhttps://youtu.be/oPCrN4gh2JM)  

当時よく通った喫茶店の一つがこのイノダさんでした。

創業からかわらず現在もネルドリップで本店の方はかつてのレトロな空間をそのまま残していて「ザ昔」を楽しめるお店です。ちなみに当時は、今ほど観光化されておらずまだ街のおっちゃんが通う「地元の喫茶店」だった印象とのことです。

ここに行きたいと思ったきっかけが、高田渡さんの珈琲不唱歌(コーヒーブルース)という曲です。この曲が世に出たのは、1971年5月20日でシングルレコードのB面。ちなみにA面は「自転車に乗って」…このコーヒーブルースの曲で「三条へいかなくちゃ 三条堺町のイノダっていうコーヒー屋へね」という歌詞があって、イノダの存在を知るのですが、三条には近距離に三条店と本店と二店舗あるのですが、「自転車に乗って」を考えると間違いなく本店なのですわい!

そういうわけで、当時聴いていた音楽の影響もろ受けなミーハー基秋でしたが、プリンの話に行く前に、さらに何故高田渡さんが好きだったかの話をすると…

基秋が小四の頃(1965年)P.P&Mによるボブディランの「風に吹かれて」のカバーを聴いて衝撃をうけた、てところまでさかのぼります。

もし音楽の影響がなければ、プリンも今のお店のスタイルも無かったんじゃないかなーと思うわけです。

話は戻りまして、この、「風に吹かれて」の歌詞を見ながら、その音楽性と主張に驚き、原曲のボブディランって何者なんだ!

と音楽やその精神性を深堀するような感じになっていったそうな。

音楽はもちろんのこと、平和を願った表現やその思想に大きな影響を受けたわけですが、

当時の世界情勢や日本の社会情勢をみるとそこには安保闘争やベトナム戦争に対する文化人や音楽シーンの動きが背景としてあります。

この流れで、反戦活動や平和活動をしている人とつながりの深いシンガーソングライターの高田渡さんのコーヒーブルースを聴いて

歌詞に出てくる「イノダコーヒ」にいつか行ってみようと思ったようです。

それが、1971~2年の頃の話なので、その翌年、京都の大学に進学時、早速イノダに行く事になります。

そして、イノダで出会ったネルドリップの深入りでかつ独自の砂糖とミルク入りのコーヒーに合うイノダのプリンがモデルになっているのであります。

江戸時代から明治期にかけて日本に伝わったシンプルなカスタードプリンをイノダでは創業時から再現してだしているようです。

昔ながらのかたさもありつつなめらかなプリン。

僕ら兄弟は幼少時から毎年家族で京都に旅行に行っていたのですがイノダコーヒ本店は必ず寄っていたのでした。プリン=京都のかほりと当時の思い出。

(南禅寺近くのお宿で泊まって早起きしてイノダのモーニング、父についていったのが今も記憶に残ってます。そういうのが毎年あったなあ、よく連れて行ってくれたもんで今考えるとすごいな。)

そして、うちのお店でも「昔風プリン」という名でイノダのプリンの影響もろ受けなそっくりなものを出していたのでした。

しかしながら、保健所から「菓子製造」の許可なしにはプリンはだせませんとご指摘頂き、(当然ですよね)販売を中止した経緯があります。惣菜の延長というにはアウトゾーン…でも「甘い蒸したまご」という名前ならば当時の話だと惣菜としてもよかったみたいです(笑)

販売期間は5年前後で、その後、しばらく世に出る事はありませんでした。家ではたまに食べてましたが。

…動き出したのは、2019年に化世沢食堂がオープンしたこと。

レオさんの時やバーガー修吾(大橋君)の際に登場させてもらう機会を頂き、そのステップをふんでTOMOSU CAFEでも当店監修ということで、プリンをご用意する運びとなったわけでございます。

 

ルーツを辿っていくと、音楽との出会いやその精神性にきっかけを見出す事もできるのでした。

そういうわけで、美味しいプリンといえば世の中いっぱいありますが、僕個人はなにかと原点回帰のプリンであり、同時に京都に行きたくなるプリンであり、60年代から70年代前半の当時の音楽シーンをイメージするプリンでもあるのでした。

TOMOSUで出す、となった際、レシピはそのままでも使う素材をどうしようか、という所で何度も試行錯誤し、

一度に8種類のプリンを試食する、みたいなのを繰り返しました。同じ分量のレシピでも、使う素材や組み合わせ、カラメルの仕上げ具合で色んなパターンができて、そこから選ぶ作業が必要でした。

そのプロセスは割愛するとして、多くの人がこれだ!と意見の一致した「さっととけるてんさい含蜜糖」を使用した

今のスタイルに決まったのでした。ただ、決め手は船木夫妻&福島家共に全会一致したプリンだったこと。

まだTOMOSUができる前くらいまでは、よく船木家で夜な夜なお酒ものまずに午前様トークをしていたのですが、そういうのも思い出されます。

 

 

ここからはおまけの話ですが、

前述した、高田渡さんは実は船川でライブをしたことがあります。今考えるとめちゃくちゃすごい事です!!!

父が中学二年の時(1969年)、船川第一小学校(まだ現市役所に所在していたころ)の体育館で当時人気のあったフォークグループ「五つの赤い風船」と「岡林信康」さんが来るというライブが予定されていました。

が、丁度それが計画された少し後に、岡林さん失踪してしまい(有名な話ですw)代打で高田渡さんが来ることになったそうです。

ちなみに北島三郎さんのサブロウSHOWや五月みどりさんの演歌コンサート、メキシカンロックの橋幸夫ショウなんかも当時行われたくさんの人が船一に集まったようです。

高田渡さんの話に戻ると

僕は「生活の柄」という曲がすごく好きで

近年だとハンバートハンバートのお二人がカバーしています。https://www.youtube.com/watch?v=qHY1o2fGRWc

 

 


TOMOSU CAFE (トモスカフェ)のソースカツ丼

2023-01-20 19:33:12 | tomosu cafe

こんにちは、グルメストアフクシマの福島智哉です。

トモスカフェがオープンし今年で3年経ち4年目に入ります。

(2020年5月~)コロナ渦でのスタートを既に懐かしく思うのですが、オープン前後の数年も当店や地域の仲間達、内外ともに激動の時期だったといえるなーと振り返っております。

▼オープン前数回にわたり珈音のたけしさんから珈琲の淹れ方やあれこれ学ぶ(同じ条件でも人によって異なる味わいに改めて底抜けな深さを感じいる)

オープン前は丼もののごはんスタンドの機能をイメージして進めていた丼メニュー。

ソースカツ丼は今では代表的な定番メニューとしてたくさんの方に親しまれているように思います。

ここで、改めて、なぜソースカツ丼なのか!そのルーツや素材の事などまとめたいと思います。

(今後、TOMOSUホームページでこういったコンテンツアップ予定ですが、こちらでは原文長文のまま載せます)

 

今から約60年前から30年前(1950年代後半~1980年代後半)

「たのし食堂」というソースカツ丼が美味しくて有名な食堂がありました。

▲左上にちょっとみえます。写真は以前地域おこし協力隊だった松野さんの企画「船川今むかし展」より、匿名の方の写真。(一杉堂さんの前からたのし食堂さんがみえる形での撮影にみえます)

たのし食堂初代の時代は、現在の佐藤鮮魚店さんのところにあったそうです。(祖母談)

2代目のオヤジさん時代は、移転して今のわたなべ整骨院さんところで営業されておりました。上の写真。

(40代なかばから上くらいの方々は食べた事もあり記憶されている方が多いようです)

うちの祖母によるとラーメンが美味しいお店だったけど、途中からソースカツ丼がメインになっていったそうです。

たまごとじのカツ丼もあったけどソースカツ丼の方が人気があったようです。

 

たのし食堂の初代のオヤジさんは東京出身だったそうで、福島家も同じ身の上。

福島二代目、僕から数えての祖父の基良と「たのし食堂」の初代&2代目は話が合ったそうで仲良くなったそうです。

戦時中は、うちの祖父がたのし初代の親父さんに車の運転を教わったそうで、男鹿市で車の運転免許をとった1号が初代「たのし」の親父さんで2号がうちの祖父という話を祖父が父に自慢気に若い頃話していたそうな笑 (余談エピソード)▼昭和37年 現社長基秋入学式のタイミング コニーと。

2代目のオヤジさんはザ江戸っ子で職人気質だった印象と多くの方からきいております。

2代目の時代は、ソースカツ丼に磨きがかかり船川でも特に人気で連日賑わっていたそうです。

忙しさのあまりイライラしてるのが伝わってくる場面もあったとか…相当人気があったのだと思います。

ソースカツ丼のカツは当店の豚ロースを仕入れていたそうで、「毎朝今日は〇〇キロ頼む」、と電話が来て現社長が若い頃配達していました。親父さんのソースカツ丼の作り方は

カツを揚げたら余熱を通した後にサクサク切って

独自のソースに一切れずつたっぷり浸し

ごはんにも、その漬けたソースが染み込む具合にのっけていき、

添えるのは玉ねぎをそのソースで炒めたもの。

たのし食堂のソースカツ丼と当店のソースカツ丼(トモス)とで異なるのは、

使用する細かい素材の話はさておき、基本的作り方はほぼ一緒で、玉ねぎの味付けのみです。

強火で炒め醤油と料理酒でさっと仕上げる形の方がいいな、となったのが現在の形で全く同じではありませんが、たのし食堂さんへのリスペクトを込め当時の味を再現しています。

現在使用している素材に関しては、当店もトモスカフェも一緒ですが、

できる限り地元のもので心ある関係性の作り手さんのもの、それでいて無添加・オーガニックを前提とした考えで選択しています。基本的な調味料さしすせそをはじめ、揚物でいえば国産米油(毎月放射能検査済)、無添加の生パン粉(素材指定の当店・トモスのみのオリジナル)を使用している点は、よりからだにも環境にもやさしいマイナーチェンジになっていると思います。

そしてトモスカフェででてくるお味噌汁の素晴らしいこと、本当にからだがよろこぶ美味しさなのです!

オガニック農業推進協議会を2018年に立ち上げベジリンクあきた男鹿の三浦さんに育ててもらった無農薬大豆、男鹿の塩、高桑さんのなまはげ米を麹にし石孫本店さんにお願いしてできた、男鹿産素材の無添加天然醸造のお味噌…

ひのめ市の取り組みもそもそも地元はじめ大きく言ったら世の中が色んな意味でオーガニックになったらいいな、と船木代表や仲間内で話していて生まれた活動

その根幹になるオガニック地域構想

 

話は戻り

二代目のオヤジさん50代半ばにして病に倒れお店も終わる事になったそうで。(1980年代半ば)

両親はお見舞いに行ったりしていたそうで、

父はまたオヤジさんのソースカツ丼を食べたい旨は伝えていたようです。

残念ながら間もなくオヤジさんお亡くなりになって、

しばらくして、ふとやはり食べたくなった時に

父はソース作りから試行錯誤してみたようです。

出汁に活用したのが大量の玉ねぎ。チャツネ状態まで炒め、お醤油とみりんで煮詰め、自然な甘味を出し、その当時はタカハシソースのとんかつソースをブレンドし

再度火にかけ、野菜をこしてから決めた量まで煮詰めて

仕上げというもの。

うちのお店では昔から社員さんのまかないとか祭りや繁忙期の休憩に食べるものだったようですが、

僕は小さい頃から食べたいものが何かあるか聞かれたら

ソースカツ丼はいつも3つのうちの1つに入っておりました!

お弁当をフリーで出していた時代(1996年くらい~2007年くらい)

も弁当としてのソースカツ丼は人気がありました。

たのし食堂を知っていた方からの反応もあって話題になっていたのでした。

 

お弁当を予約制にしてから(2007年くらい~)

お店に登場する機会は減りましたが、店内企画で時々登場しておりました。

その後2015年ひのめ市がひらかれるようになり、

一人さんには食べてもらう機会がありーの

2018年商店街プロジェクトが立ち上がり

(青木さんとの出会いとこの時のお話の衝撃と、この部屋のめちゃくちゃ暑くてむさ苦しかった事をとても覚えています)

(2018年金農の躍進で秋田が沸いたこの時代ですよー↑)

プロジェクトが進む中で、ごはんスタンドの話がでてくるようになり

丼をメインにしたスタイルってところまで話がきたところで

このソースカツ丼や、チャーシュー丼やRB丼を練習がてら縫人さんでみんなで食べるってのをやりーの、

その翌年2019年はひのめ商店の際などイベントで町の人とその構想を共有するような感じでまた丼や珈琲を仲間と囲む、という事をやってきました。

 

長くなりましたが、以上が

ソースカツ丼がトモスカフェで登場するまでの経緯です。

 

現在は、パン粉や小麦粉、卵、油、塩も胡椒も素材の質は考えた選択で、

豚肉の仕込みも特別手を加えたものに。

豚ロースではなく豚のもも肉のもっとも柔らかく希少価値の高い内ももを使用。

脂身無しの状態でカットして、さらに丁寧に筋切りをして、パン粉をつけた形です。

パン粉に関しては、原料が小麦や甜菜糖、バター、塩、酵母のみで

小麦と甜菜糖、バターが北海道産の素材で遺伝子組み換えやトランス脂肪酸のリスクはなく、香料や着色料、表示されないような調整剤や改良剤、保存料も完全無添加の生パン粉です。

一般的には、無添加のように見えるパン粉もだいたい改良剤や調整剤がはいっていて、完全な無添加とはいえないです。

無添加でもショートニングやマーガリンを使用したものがありますが、それがトランス脂肪酸たっぷり癌はじめ生活習慣病大国万歳な大きな要因なわけです。

 

またトランスFを考慮し最大限発生しにくくその酸化を防ぐ油が

現在のノンシリコーンのこめ油です。放射能検査も毎月行っており

関西のお米を100%使用しており毎月放射能検査を行っていて数字も公表されている築野食品さんのものです。