こんにちは、グルメストアフクシマの福島智哉です。下書きがたまっているので少しずつ。
本日は福島肉店の創業者
福島秋太郎のお話です。
以前Facebookにあげたものを短くまとめました。(…といってもやや長いのですが、記録として現在分かっている事を書きたいと思います)
創業者福島秋太郎は、父からすると祖父、祖父からすると父。
私にとっては曽祖父。私が生まれる前に亡くなっていますが、
どのような人だったのか、祖母はじめ父や叔母、身内やお客様にも聞いてみました。
曾祖父である創業者 福島秋太郎と曾祖母の結婚はどうやら恋愛によるものだったようです。
祖母から我が家のルーツを改めて聞いて色んな事が見えてきました。
きっかけは、「風立ちぬ」をみて、色々思うことがあり、結核や戦争、不況、その時みんな疑問を抱かなかったのか、どんな事を考えたのか、我が家のルーツと共に追っていきました。
江戸時代にさかのぼると福島家は墨田の某家老にいきつくのですが、長い事武家の血筋のようでした。本家は世田谷の等々力で「福嶋」だったのですが、福島肉店の創業者でもある私の曾祖父 福島秋太郎は「めんどくせー」とのことで「福島」で名乗る事になったそうな。でなければ今も福嶋だったのかもしれません。。
時は明治28年 (西暦1895年)、その福嶋家に秋太郎が生まれます。育ちは下町で江戸っ子気質、非常にやんちゃでいたずら好き、お地蔵さんに立ちションをして下半身が思いっきり腫れあがったという話が親戚の間では有名です。
秋太郎は、成城で調理講師をした後20代前半で肉の仲買人となり全国をまわったようです。
ちなみに少しコロッケの話に触れると、明治時代初期にはヨーロッパからクリームコロッケであるクロケットが伝わり、多くの洋食屋さんで登場しました。明治後期 からコロッケを作るための指南書が増え精肉店ではじゃがいもとお肉と玉ねぎのコロッケをつくるようになります。
当時の売価はコロッケ:25銭、ビフテキ:15銭、トンカツ13銭とコロッケの1人勝ち。昭和中期には身近な存在になりますが、この頃は高級料理でごちそうだったそうです。
さて、秋太郎は福島精肉店を大正七年(1919年)に創業、場所を武蔵小山に選んだのは、世田谷から近くという事もありますが、渋沢栄一の田園都市・開発の動きの読みもあったようです。結果大当たりでこの一帯はそれまで畑が広がる田舎でしたが数年後爆発的に人口が増えていきます。後述しますが、関東大震災での避難した方の影響も大きいです。
写真は、現在の武蔵小山商店街の一画に構えた創業時の福島精肉店 と近くに創業した「濱田屋」さん、や「日の出百貨店」さん、最初の市場、アーケードが完成した時の写真など。
当時は祝いのビラがぺらぺらはられていたのがわかります。現在も日の出さんは存在しており、数年前、小山周辺を探索した際見つけました、かなり感動しました。
ルーツのある土地を歩くのは不思議なものです。
さて、同じく明治30年前後、秋田県五城目町で私の曾祖母が生まれます。加賀谷ハナといいます。川反で芸妓もしていたそうで秋田美人として名は売れていたそうな。ほんとなんだがや、て感じですがま、写真のような感じです。
秋太郎が五城目に牛を買い付けに来た際、二人は出会います。秋太郎は秋田に数日滞在するとのことで取引する方にハナのいるお店に連れられたそうな。どんな感覚かわかりませんが、さぞやワクワクしただろうに。
秋太郎はハナの見た目よりも聡明な部分にひかれ夢中になったと祖母から聞きました。
本当はどうだったのかも生きていたら聞いてみたい。。
この秋田訪問時は秋太郎、一度東京に戻りますがその後何度か秋田を訪れます。…肉の買い付けよりもハナが目当てだったのだと想像しています。
関東大震災の時は 何度目かの訪問で秋太郎滑車で豚や牛と一緒に来ていたので震災は免れたようです。後日戻った際の上野や下町の様子がかなり大変だった事も色々きいています。世田谷の被害はほとんど無かったようです。
三軒茶屋にある小林写真館さん(現在も健在)の1925年前後の記録には二人の写真や生まれたての祖父と一緒に写っている写真が何枚かあります。数回秋田にも足を運びハナとの結婚も決まったようです。武蔵小山で市場の一画にお店をかまえ生活していましたがなぜ秋田に来たのかも色々聞きました。
なぜ今の男鹿市船川にしたのか。
それは①喉の病気 ②ハナとの出会い(本家が船川にあった) ③男鹿の環境
の三つの事が影響しているようです。
秋太郎は若くして甲状腺に病を患っていました。帝大(今の東大)で手術した後、完全には治らない事も通告され、豚の甲状腺を煎じて飲むと良い、と医者から聞いて畜産に携わる仕事として最初に仲買人になったようです。
▲喉のふくらみはその甲状腺の病
秋田でのハナとの出会いは非常に大きく病に負けず「生きよう」という意志が強くなったようです。そして秋田の空気の良さ、男鹿の景観に魅かれた事も後に語っています。
ハナは五城目生まれですが、加賀谷家の本家が男鹿市船川であった事、築港がはじまり盛り上がっていた事も男鹿に来た条件にあったようです。そうして昭和12年頃(1937年頃)祖父を連れ
東京から男鹿へ移転となりました。
…いやいや、悪いことしてやくざに追われてたんでねが、という親戚の話もあります。どちらかというとそっちの方が面白そう。。
だいたい田舎を出て皆中央(東京)に出る時代、逆に地方に来るんだから相当変人扱いされ苦労もしたのでは。。
祖母に聞くと、珍しがられたようだけど秋田ではまだ牛肉を食べる風習も無い時に港町に滑車で来て牛の扱いを始めたわけで店もたくさんの人で賑わっていた、と。
確かに今も60歳前後から70歳くらいの人達に、昔子供の頃、おじいさんに車にのっけてもらったよ、お世話になったよ、とよく言われます。90代のお客様もいらっしゃるのですが、
加賀谷家 は二代前から洋裁店で 現在栄通りの昔の「あたらしや」のななめ迎えにあって、ハナさんの弟と結婚したはなこさんの息子さんが現在60代で元気です。▼昭和18年頃(1943年頃)
▼現在の加賀谷さんの佇まい
自分の命を長らえるために始めた仕事でありハナとの出会いがあって秋田への移転が決まった、というこの中に少しでも条件がずれていたら私も存在していなかったのだろうか。。
ハナさんのことを秋太郎が「聡明だ」、と一言で表しているのは、内面あってこその本当の「秋田美人」だ、と取っても良いかなと思っています。
これまで何も考えずに過去の写真としてホームページ等に掲載していた一枚、一枚にストーリーが浮かび上がってきました。映画のように、この静止画から色が鮮やかになって動き出していくような妄想が今後も続きそうです。
◆結核に関して 身内の話
秋太郎の 姉は一人の娘以外の子供を結核で亡くし自身も結核で倒れます。
親も結核で亡くなりました。
風邪をひいた事をきっかけに簡単に結核になってしまった人が多かったようです。身内がほとんど結核で命を失った、と初めて知って映画風立ちぬともリンクしました。
◆たばこに関して
秋太郎 超ヘビースモーカー、甲状腺の病気も持っていて空気の良い所を選んで移転したわりにたばこはかなり吸っていたようです。肺癌で75歳で亡くなりました。(1969年)
これも当時の人達は当たり前のように吸う習慣があり、映画の描写がいかに地味な日常を自然に扱っているかがわかります。
◆加賀谷家の本家は現在の男鹿市役所のあるあたりにありました。明治後期(約100年前)の男鹿市船川の写真に想像できます。
ちなみに加賀谷家のルーツは加賀の国になりますね。北前船ですね~。
◆戦争に関して
私の祖父は船川の防空監視哨(現在の備蓄研修所のある丘の上)の副哨長でした。17歳の頃の話です。
終戦間際には、召集令状も来たようです。
お国のために命をささげる、戦死は名誉 な風潮の中
秋太郎は こんな戦争 はやくやめよ、アホくせー、と普段から言っていたらしく(当時は相当なクレイジーなオヤジ)祖父の召集令状に対しても兵事係吏員や警察 県の陸軍省の役員にも直談判に行きました。
21歳になったら息子を出してもいいが、まだ早い、と。
どんなつながりがあったのか知りませんが、出兵せずに終わりました。(この時船川から出た志願兵は戦死しているそうです。)
それにしても、この時代の空気の中、祖父の恥じらいに近いような情けない気持ちも想像できます。これはまわりからの話ですが、しばらく深く帽子をかぶり下向く事が多かった、とも聞いています。
心の中では疑問を持ったり赤紙がくれば、ベートーベンの「運命」がかかるような気持ちになったのは皆同じようで、ただ口に出すような事はこの辺でも無かったようです。そんな気持ちを押し殺すための方法はたくさん用意されていたようですが…。
戦後は相当仕事に打ち込んだようです、祭りや警察への協力も積極的で、60年代は民間の交通指導隊としてテレビでも紹介され鼻高々だったようです。
100年をきりとると、祖父母や曾祖父母、その上のご先祖様が頑張って乗り越えて今があるのだなーと思いますが、もっとずっと先も追っていくと切れ目なくつながっていて、生命が誕生するところまで連綿と続くものがあるのかなぁと妄想してみたり。。
10代前にさかのぼるだけで-2-4-8-16-32-64-128-256-512-1024・・・・と倍数数列で10世祖だけで1024人ですが、合計数は2046人となります。
10代の間の話だけでも、自分もその2046人のご先祖様のうち一人でも欠けていたら存在していないわけです。そうなると皆その辺の人とも よ兄弟といえるような感覚にもなるわけです。そして歴史も面白くなるわけです。
本日は福島肉店の創業者
福島秋太郎のお話です。
以前Facebookにあげたものを短くまとめました。(…といってもやや長いのですが、記録として現在分かっている事を書きたいと思います)
創業者福島秋太郎は、父からすると祖父、祖父からすると父。
私にとっては曽祖父。私が生まれる前に亡くなっていますが、
どのような人だったのか、祖母はじめ父や叔母、身内やお客様にも聞いてみました。
曾祖父である創業者 福島秋太郎と曾祖母の結婚はどうやら恋愛によるものだったようです。
祖母から我が家のルーツを改めて聞いて色んな事が見えてきました。
きっかけは、「風立ちぬ」をみて、色々思うことがあり、結核や戦争、不況、その時みんな疑問を抱かなかったのか、どんな事を考えたのか、我が家のルーツと共に追っていきました。
江戸時代にさかのぼると福島家は墨田の某家老にいきつくのですが、長い事武家の血筋のようでした。本家は世田谷の等々力で「福嶋」だったのですが、福島肉店の創業者でもある私の曾祖父 福島秋太郎は「めんどくせー」とのことで「福島」で名乗る事になったそうな。でなければ今も福嶋だったのかもしれません。。
時は明治28年 (西暦1895年)、その福嶋家に秋太郎が生まれます。育ちは下町で江戸っ子気質、非常にやんちゃでいたずら好き、お地蔵さんに立ちションをして下半身が思いっきり腫れあがったという話が親戚の間では有名です。
秋太郎は、成城で調理講師をした後20代前半で肉の仲買人となり全国をまわったようです。
ちなみに少しコロッケの話に触れると、明治時代初期にはヨーロッパからクリームコロッケであるクロケットが伝わり、多くの洋食屋さんで登場しました。明治後期 からコロッケを作るための指南書が増え精肉店ではじゃがいもとお肉と玉ねぎのコロッケをつくるようになります。
当時の売価はコロッケ:25銭、ビフテキ:15銭、トンカツ13銭とコロッケの1人勝ち。昭和中期には身近な存在になりますが、この頃は高級料理でごちそうだったそうです。
さて、秋太郎は福島精肉店を大正七年(1919年)に創業、場所を武蔵小山に選んだのは、世田谷から近くという事もありますが、渋沢栄一の田園都市・開発の動きの読みもあったようです。結果大当たりでこの一帯はそれまで畑が広がる田舎でしたが数年後爆発的に人口が増えていきます。後述しますが、関東大震災での避難した方の影響も大きいです。
写真は、現在の武蔵小山商店街の一画に構えた創業時の福島精肉店 と近くに創業した「濱田屋」さん、や「日の出百貨店」さん、最初の市場、アーケードが完成した時の写真など。
当時は祝いのビラがぺらぺらはられていたのがわかります。現在も日の出さんは存在しており、数年前、小山周辺を探索した際見つけました、かなり感動しました。
ルーツのある土地を歩くのは不思議なものです。
さて、同じく明治30年前後、秋田県五城目町で私の曾祖母が生まれます。加賀谷ハナといいます。川反で芸妓もしていたそうで秋田美人として名は売れていたそうな。ほんとなんだがや、て感じですがま、写真のような感じです。
秋太郎が五城目に牛を買い付けに来た際、二人は出会います。秋太郎は秋田に数日滞在するとのことで取引する方にハナのいるお店に連れられたそうな。どんな感覚かわかりませんが、さぞやワクワクしただろうに。
秋太郎はハナの見た目よりも聡明な部分にひかれ夢中になったと祖母から聞きました。
本当はどうだったのかも生きていたら聞いてみたい。。
この秋田訪問時は秋太郎、一度東京に戻りますがその後何度か秋田を訪れます。…肉の買い付けよりもハナが目当てだったのだと想像しています。
関東大震災の時は 何度目かの訪問で秋太郎滑車で豚や牛と一緒に来ていたので震災は免れたようです。後日戻った際の上野や下町の様子がかなり大変だった事も色々きいています。世田谷の被害はほとんど無かったようです。
三軒茶屋にある小林写真館さん(現在も健在)の1925年前後の記録には二人の写真や生まれたての祖父と一緒に写っている写真が何枚かあります。数回秋田にも足を運びハナとの結婚も決まったようです。武蔵小山で市場の一画にお店をかまえ生活していましたがなぜ秋田に来たのかも色々聞きました。
なぜ今の男鹿市船川にしたのか。
それは①喉の病気 ②ハナとの出会い(本家が船川にあった) ③男鹿の環境
の三つの事が影響しているようです。
秋太郎は若くして甲状腺に病を患っていました。帝大(今の東大)で手術した後、完全には治らない事も通告され、豚の甲状腺を煎じて飲むと良い、と医者から聞いて畜産に携わる仕事として最初に仲買人になったようです。
▲喉のふくらみはその甲状腺の病
秋田でのハナとの出会いは非常に大きく病に負けず「生きよう」という意志が強くなったようです。そして秋田の空気の良さ、男鹿の景観に魅かれた事も後に語っています。
ハナは五城目生まれですが、加賀谷家の本家が男鹿市船川であった事、築港がはじまり盛り上がっていた事も男鹿に来た条件にあったようです。そうして昭和12年頃(1937年頃)祖父を連れ
東京から男鹿へ移転となりました。
…いやいや、悪いことしてやくざに追われてたんでねが、という親戚の話もあります。どちらかというとそっちの方が面白そう。。
だいたい田舎を出て皆中央(東京)に出る時代、逆に地方に来るんだから相当変人扱いされ苦労もしたのでは。。
祖母に聞くと、珍しがられたようだけど秋田ではまだ牛肉を食べる風習も無い時に港町に滑車で来て牛の扱いを始めたわけで店もたくさんの人で賑わっていた、と。
確かに今も60歳前後から70歳くらいの人達に、昔子供の頃、おじいさんに車にのっけてもらったよ、お世話になったよ、とよく言われます。90代のお客様もいらっしゃるのですが、
加賀谷家 は二代前から洋裁店で 現在栄通りの昔の「あたらしや」のななめ迎えにあって、ハナさんの弟と結婚したはなこさんの息子さんが現在60代で元気です。▼昭和18年頃(1943年頃)
▼現在の加賀谷さんの佇まい
自分の命を長らえるために始めた仕事でありハナとの出会いがあって秋田への移転が決まった、というこの中に少しでも条件がずれていたら私も存在していなかったのだろうか。。
ハナさんのことを秋太郎が「聡明だ」、と一言で表しているのは、内面あってこその本当の「秋田美人」だ、と取っても良いかなと思っています。
これまで何も考えずに過去の写真としてホームページ等に掲載していた一枚、一枚にストーリーが浮かび上がってきました。映画のように、この静止画から色が鮮やかになって動き出していくような妄想が今後も続きそうです。
◆結核に関して 身内の話
秋太郎の 姉は一人の娘以外の子供を結核で亡くし自身も結核で倒れます。
親も結核で亡くなりました。
風邪をひいた事をきっかけに簡単に結核になってしまった人が多かったようです。身内がほとんど結核で命を失った、と初めて知って映画風立ちぬともリンクしました。
◆たばこに関して
秋太郎 超ヘビースモーカー、甲状腺の病気も持っていて空気の良い所を選んで移転したわりにたばこはかなり吸っていたようです。肺癌で75歳で亡くなりました。(1969年)
これも当時の人達は当たり前のように吸う習慣があり、映画の描写がいかに地味な日常を自然に扱っているかがわかります。
◆加賀谷家の本家は現在の男鹿市役所のあるあたりにありました。明治後期(約100年前)の男鹿市船川の写真に想像できます。
ちなみに加賀谷家のルーツは加賀の国になりますね。北前船ですね~。
◆戦争に関して
私の祖父は船川の防空監視哨(現在の備蓄研修所のある丘の上)の副哨長でした。17歳の頃の話です。
終戦間際には、召集令状も来たようです。
お国のために命をささげる、戦死は名誉 な風潮の中
秋太郎は こんな戦争 はやくやめよ、アホくせー、と普段から言っていたらしく(当時は相当なクレイジーなオヤジ)祖父の召集令状に対しても兵事係吏員や警察 県の陸軍省の役員にも直談判に行きました。
21歳になったら息子を出してもいいが、まだ早い、と。
どんなつながりがあったのか知りませんが、出兵せずに終わりました。(この時船川から出た志願兵は戦死しているそうです。)
それにしても、この時代の空気の中、祖父の恥じらいに近いような情けない気持ちも想像できます。これはまわりからの話ですが、しばらく深く帽子をかぶり下向く事が多かった、とも聞いています。
心の中では疑問を持ったり赤紙がくれば、ベートーベンの「運命」がかかるような気持ちになったのは皆同じようで、ただ口に出すような事はこの辺でも無かったようです。そんな気持ちを押し殺すための方法はたくさん用意されていたようですが…。
戦後は相当仕事に打ち込んだようです、祭りや警察への協力も積極的で、60年代は民間の交通指導隊としてテレビでも紹介され鼻高々だったようです。
100年をきりとると、祖父母や曾祖父母、その上のご先祖様が頑張って乗り越えて今があるのだなーと思いますが、もっとずっと先も追っていくと切れ目なくつながっていて、生命が誕生するところまで連綿と続くものがあるのかなぁと妄想してみたり。。
10代前にさかのぼるだけで-2-4-8-16-32-64-128-256-512-1024・・・・と倍数数列で10世祖だけで1024人ですが、合計数は2046人となります。
10代の間の話だけでも、自分もその2046人のご先祖様のうち一人でも欠けていたら存在していないわけです。そうなると皆その辺の人とも よ兄弟といえるような感覚にもなるわけです。そして歴史も面白くなるわけです。