【最近の学説】
ナポレオンはグルーシィにプロイセン軍の追撃を命じたうえで自身はネイと合流し、こんどはイギリス軍へ主力をさしむけた。 イギリス軍はブリュッセルから1日行程にあるモンサンジャンの丘陵地に陣をしいた。ウェリントンは「おそらくここでフランス軍をくいとめることはできないだろう(6月17日付、公爵夫人あての手紙による)」という見通しをした。
リニー=カトルブラ間での防衛に失敗し、モンサンジャン=ワーブル間でフランス軍をむかえうつイギリス・プロイセン連合軍に勝つ見込みはあるのだろうか。
ここで動いたのがプロイセン軍の参謀グナイゼナウだった。もともとプロイセン軍は「ナポレオンとは戦わない」というシャルンホルスト以来の方針(ライヘンバッハ・プラン)を徹底していたのだが、グナイゼナウはその方針に反しイギリス軍へ援軍を送るべきだ(ワーブルにクラウゼヴィッツをグルーシィへの抑えとしてのこして)とブリュッヒャーを説得したのである。
こうして運命の6月18日がはじまる。
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