1815年3月20日、ナポレオンがパリに入り、ルイ18世はブリュッセルへのがれた。
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(グルーシィがとんでもない方向へ…)
第7次対仏同盟が結成されると例によってナポレオンは先手をうち、6月15日、フランス=ベルギー国境をこえた。
【従来説】
ウェリントンによる援軍の約束を信じリニーに布陣したプロイセン軍は6月16日、ナポレオンひきいるフランス軍の攻撃をうけ敗退。しかしフランス軍はプロイセン軍に壊滅的なダメージをあたえることができなかった。ナポレオンは元帥に昇格したばかりのグルーシィにプロイセン軍の追撃を命じた。このときの3万人はその後戦場にあらわれることはなかった。
同日、カトルブラではウェリントンひきいるイギリス軍がネイひきいるフランス軍による猛攻をしりぞけた。しかしリニーにおけるプロイセン軍の敗退をしったウェリントンは6月17日、前線をワーテルローまでさげる決断をした。
「もしプロイセンの援軍が得られるならここで戦おう」というのである。プロイセン軍側では援軍をしぶる参謀グナイゼナウの反対(前日リニーではウェリントンが約束を守らなかったため)をブリュッヒャーが押しきった。
こうして運命の6月18日がはじまる。
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(グルーシィがとんでもない方向へ…)