「ワーテルロー、ワーテルロー、ワーテルロー、陰鬱なる平原よ(ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』第2部第1編より)」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/10/7d85c30e0a4b3c1f9d258923e1129f15.jpg?1615392121)
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雑談のつづき。われわれの知っているワーテルローの戦いは、その50年ぐらい後にユゴーが書いた小説によって形づくられたものであるらしい。フランスの文豪がドラマチックに書いたものと、プロイセンの軍人が見たままを書いたものとでは、時間も経過もまったくちがう。
そもそもグナイゼナウの報告書にはワーテルローという地名すら出てこない。
従来説によるとフランス軍が負けたのはすべてグルーシィのせいである。ナポレオンに合流を命じられたにもかかわらず、グルーシィは最初の命令(リニーでやぶれたプロイセン軍への追撃)にこだわって動こうとしなかった。グルーシィのせいで3万のフランス軍は「霧のかなたへ消えてしまった」のである。
しかしグナイゼナウによるとフランス軍は午後3時の時点で優勢であり、また、ナポレオンがグルーシィに合流を命じたというたしかな史料は存在しない。
最近の研究によるとナポレオンはプロイセン軍が接近しているのを知ってモンサンジャンへの攻撃を命じている。