乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

『人情噺小判一両』2006年 菊五郎 田之助 家橘 右之助 吉之丞 男寅 松也 権十郎 吉右衛門

2014-03-08 | TVで 歌舞伎・能楽
  (アブヤネ イラン)


   『人情噺小判一両』
    2006年 菊五郎 田之助 家橘 右之助 吉之丞 男寅 松也 権十郎 吉右衛門
 


今月テレビで二度目の『人情噺小判一両』を見たよ。
 筋書きも演出も役者さんたちも面白かったよ。

 はじめにちょこっと中村吉之丞さんが出てこられるんだ^^v
 しまります、何たって吉之丞さんですもの^^

 話の展開はわかりやすく、初めて歌舞伎を見る方も簡単にわかっちゃいます。
 吉之丞さんに聞き惚れ田の助さんの台詞に聞き惚れ、中村吉右衛門さんのお似合いになる上下姿に見入る。
 中村吉右衛門さんって本当にこういった役柄がお似合いなだといつも思い、家族がいる時にはいつも念をおすもので、最近家族が若干うんざりしているようなあきらめているような…
 あはは
 焼きもち、焼いているのかなと ノーテンキなことを思うわたしってあっぽ!

 尾上菊五郎さんってこういうあたらしい人情話がよく似合われる役者さんだな^^って、いつも感じる。
 
 それと河原崎権十郎さん、輝いていたよ。
 何しろ美男子だし舞台映えされるし…。

 新しい芝居で若干小芝居風な場面もあったけれど、こんな面白そうな芝居なら、関西で見たい^^


本編尺:54分
製作年:2006年
出演:尾上菊五郎 澤村田之助 市村家橘 市川右之助 中村吉之丞 市川男寅 尾上松也 河原崎権十郎 中村吉右衛門


昭和11年に初演された、宇野信夫作の新歌舞伎。人への情けが仇となってしまう世の中のむずかしさを、人情噺風に描いた名作。物語は今戸八幡の門前の茶屋から始まる。笊屋(ざるや)の安七は父親の残した小判一両をお守りにして商売に励んでいた。安七は通りかかった凧売りが、凧を盗んだ子供を撲るのを止め、大切な一両を子供に与える。それを見ていた浅尾という侍が安七の親切を褒めて盃を勧めるのだが、情けをめぐってふたりの意見が食い違う…。(2006年/平成18年2月・歌舞伎座)








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笊屋(ざるや)と籠           宇野信夫作『人情噺小判一両』を見て思う

2014-03-08 | 民俗考・伝承・講演
 (玉龍雪山 中国)


 


『人情噺小判一両』

 この芝居、笊屋(ざるや)という設定だね^^
 これって民俗学の本によく出てくるんだけれど、農業の閑散期などに、毎年決まった村に売って歩いたんだって。
 村にやってきて、ざるや籠を売り歩き、いつの間にか村からいなくなるんだって。
 でも、毎年毎年やってこられるらしい。
 民俗学の本では、どこからやってきて、一体どこに帰っていくのか、村人はみんな知らないって書いてあったよ。
 これって明治か大正時代までのお話らしいので、お芝居ではもっと昔ダネ。
 だから、ちょっと勝手が違うかな^^

 お芝居の中でも何度も何度も笊屋(ざるや)さんの立場に触れられ、結局それも含めて芝居は大きく転じ結末を迎えるんだね。
 基本的にはそういったこともふまえてこの話はつくられているのかしらん?

 安七「籠に紙を貼って頭に乗せると…」
こども「頭に籠を乗せると背が伸びないから嫌だよ。」

 確かに、「頭に籠を乗せると背が伸びない。」って聴いたことがありますね^^

 籠と言えば「籠目(かごめ)」に民俗学の研究者で触れられている方が多いよ。
 六角の籠目がいっぱいあって、魔除けになるらしく、屋根の上に乗せるところもあったんだって。
 魔除けが転じて厄になるのかな?

 そういえば籠の「籠目(かごめ)」
 こんな歌がございましたね

  かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 
  夜明けの晩に 鶴と亀が滑った
  後ろの正面だあれ?


  鶴と亀が滑った
 後ろの正面だあれ…
      …なんだか恐ろしげですね。

 魔除けが転じて厄になる
 このお芝居も突き詰めると、屋さんの情けが仇となり、侍は自害した…か…?。



 作者宇野信夫とは

 埼玉県本庄市生まれ、熊谷市育ち、その後浅草で暮らす。本名信男。埼玉県立熊谷中学校(現:埼玉県立熊谷高等学校)、慶應義塾大学文学部国語国文学科卒業。
 父は埼玉県熊谷市で紺屋・染物屋を営んでいて、浅草に東京出張所と貸家(蕎麦屋と道具屋)を持っていた。中学を出た後は、その出張所から大学に通い、卒業後もそこで劇作にいそしみ、1944年まで住み続けた。その時代に、まだ売れていなかった、のちの古今亭志ん生ら貧乏な落語家たちが出入りして、彼らと交際した。6代目三遊亭圓生とも交友が深かった。
 1933年、『ひと夜』でデビュー。1935年、6代目尾上菊五郎のために書いた『巷談宵宮雨』が大当たりし、歌舞伎作者としての地位を確立する。以後も菊五郎のために歌舞伎世話狂言を書き、戦後は、1953年、2代目中村鴈治郎、中村扇雀(現:4代目坂田藤十郎)のために、長らく再演されていなかった近松門左衛門の『曽根崎心中』を脚色・演出し、現在も宇野版が上演され続けている。1965年、個人雑誌『宇野信夫戯曲』を創刊、1977年まで続いた。
 1972年、日本芸術院会員。1985年、文化功労者。『宇野信夫戯曲選集』全4巻があるほか、ラジオドラマ、テレビドラマ、時代小説、随筆、落語、言葉に関する著作が多数ある。
 国立劇場理事を務め、歌舞伎の演出、補綴、監修を多く行い、「昭和の黙阿弥」と称された。








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