日常

2013年 振り返り

2013-12-30 10:31:20 | 時事
今年の振り返りをする。
色々あったなぁ、と改めて思う。

ここ数年は明らかに時代が変わってきているのを感じる。変化も早くなっている。
会うべき人には異常に速いスピードで会っている。

隠していたもの隠されていたものがどんどん露出して表に出てきている時代になっているような気がする。
ウソのメッキがはがれだしている気がする。
情報戦の混沌の中で、質の問題を量の問題にすり替えた。だから情報は質ではなく量が増えた。
嘘と本物は、その質の違いで明らかになってきた。
質の問題は隠せない。



2013年の振り返り。書き殴り。


1月。
本職の仕事が忙しい。学会発表を3つくらいこなす。
東京都写真美術館で、友人で画家兼歌い手の岩永君と写真家の田口和奈さんのトークショーを聴く。
色々とインスピレーションを受ける。
写真は見えるものを撮影しているが、視覚でとらえきれない場所をこそ撮影している(撮影したい)のだということ。だからこそ写真の存在意義がある。
視覚を再確認しているのではない。視覚を再創造している。
絵画も同じ。
僕らが共有している現実とは別に、それぞれの心の内部には知覚の元になるイメージの世界がある。その流動した一瞬を絵画でとらえようとしている。川全体を見ながらも、そこに流れる水分子の粒子を捉える。
そもそも色とは何か。色の根源とは何か。
そういうところに画家の意識は向かう。
そして僕らが共有している現実とは何か。
そもそも、現実(Reality)とは何だろうか。
個個がそれぞれの数だけ主観的な現実(Reality)を持っている。ある横切りの枠として共有するため、社会的な倫理的な法律的な道徳的な規範的な現実(Reality)がつくられた。それはあくまでも人工的なものだ。動物も虫も細菌も石も、自然物は人間のご都合に合わせてくれている。
時間と空間が変われば規範は相対的に変わる。
そもそも、人間はこの宇宙にとっての新参者(New Comer)でもある。
からだとこころと自然が一体化している動物や植物や鉱物は、あたま(脳)や理性を持たなかったゆえに、悩みそのものが存在しなかった。幸福であった。そこに葛藤はない。悩みはない。すべてが一致して調和して完璧に動いている。個として全体として調和している。

人間が脳や理性を持った。得られた光の影法師として、悩みや葛藤が生まれたはずだ。
それを超えようとする悟りや覚醒や自己超越というものは、そもそもにんげんの矛盾そのものへの挑戦だろう。
人間の脳が反自然として働いてしまうように、相矛盾する存在でありながらバランスをとり続けるのがにんげんの魅力であり性(サガ)なのかもしれない。
それは意識と無意識の相補性や、あたまとこころ(からだ=心身一如)(しぜん=身土不二)の相補性が表現している。
ShugoArtsで行われていたお二人の展覧会を見ても似たことを感じた。


こころやからだは自然や宇宙と直結しているスーパーコンピューター。
あたま(脳、理性)のような原始的な機械(おそらく数メガバイト)にはこころやからだや自然や宇宙の謎は解き明かせない。土台無理がある。
だからこそ、そのコンプレックス故にあたま(脳)はこころやからだを抑えつけ、否定し、その声を聞こうとしなくなる。心を幽閉する。自分のあたま(脳)が謙虚になれたとき、はじめてココロもカラダも自然も宇宙もひとつなぎにつながり、調和して和することができる。そうしないと、心はいづれ革命を起こす。

芸術とは、そんなことを密やかに着実に実践している実験場である。それは秘めやかな儀式のように日々祭壇で行われている。
芸術にはそういう潜在的な力や可能性がある。





月末には松山で発表。
道後温泉が素晴らしい。
温泉とお湯の違い。水の振動数の違いだと思う。
現代医学は、そういう波動や振動数のこと、エネルギーのことが全く手つかずでお手上げのようだ。見ないふりをすればないことになるのだから不思議なものだ。見ざる言わざる聞かざる。
物理学では粒子と波動の重ね合わせというテーゼが出たにも関わらず。見ざる言わざる聞かざる。
ホメオパシーもヒーリングも含め、代替医療はそんな事への異議申し立てをしている。

今後、医学は変わる。
人間に関してエネルギーや気や情報のことがもっとわかってくるからだ。
科学は客観世界の追及に明け暮れたが、今後は主観世界の見直しが始まる。
心理学もそうだが、人間の心の世界や魂の世界もすべてそうだ。主観というものの重要性。
客観と主観が対立の構図ではなく、矛盾が矛盾のまま同居できたとき、僕らの認識は一つ上の次元に上がることが出来る。やっと次の段階へと進める。
主観と客観は対立させて闘犬のように闘わせる対立物ではない。矛盾のまま同居する重要な構成要素だ。そのモーメントを俯瞰できないといけない。



2月。
田口ランディさんに紹介され、秋山眞人さんに会う。
色んな話を聞いて面白かった。超能力とか色んな裏の話。
裏と表はいづれ手をつなぎ、1枚の紙となったとき、やっと2枚目の紙を積み上げることができる。
今は表は裏を否定し、裏は表を否定している。そろそろ和する時期なのかもしれない。何かが結合し始めている。



和の花会でお花とお茶の稽古をする。
自分の身体感覚と対話する。そこで空間を感じる。外的な空間と内的な空間。
花という存在物。私という存在物。あなたという存在物。
それらがひとつの空間になり、場所となる。そうなると主客逆転が起きる。存在に触れる。


ランディさんと神戸に行く。ケアの色々な現場を見学する。横尾忠則さんの絵も拝見。



3月。
ブログうちこのヨガ日記のうちこさん講師で、初めてヨガをする。
クライミングでも使わない筋肉を使う。使わないともったいない。いじけていたかもしれない。

球技のように誰かと勝ち負けを競うスポーツよりも、ヨガや登山のように、そもそも闘う必要がないものが好きなようだ。
武士の時代に生まれていたら、おそらく限りなく剣の修業をし尽くした果てに、刀を捨てる道を選んでいたはずだと思う。そもそも、闘争とは内部闘争で十分なはずだ。心の中をのぞいてみた方がいい。



シータヒーリングを勉強してみた。面白かった。色々な指摘を受けた。



4月。
村上春樹さんの新作。色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年。
やっぱり面白かった。すごい。一つの希望だ。


美輪さんのお芝居。黒蜥蜴を見た。感動。真のエンターテイナー。芸術家。
最後の閉幕時に合掌していた姿は、菩薩に見えた。


5月。
有樹さんに手相を見てもらう。
手のデータを解読している感じ。年代まですべてあっていて驚く。
自分のデータは手にも刻々と表現されているらしい。
ぼくらは何も知らない。人体にはまだ解明していない謎が多いようだ。僕らは何も知らない。
自然や宇宙の叡智であるからだやこころのことから、学ぶことは多い。


漫画だるまんの陰陽五行シリーズを読み始める。面白すぎる。大量に購入して衝動的に配りまくる。




6月。
長岡式酵素玄米を食べる。食も奥深い。医と食は離せない。
食や農が異常に気になりだす。無農薬の木村さんが異常に気になりはじめた。


アーユルベーダの先生でもある友人の早紀さんが放つオーラには圧倒される。
荘子や老子が言う道(タオ)の状態にある人を久しぶりに見た。影響された。

6/9は、数秘術で6と9で反転の日だったらしい。
確かに何か世界が反転し始めている気はした。

ブレヒト「コーカサスの白墨の輪」の芝居に感動した。


華川さんにアロマセラピーを教わる。アロマは嗅いでいて気持ちいい。単純だ。理屈ではない。
快・不快のシグナルを感じることは、こころが脳から自由になるために重要な駆動力だ。
アロマがもっと医療現場で応用されていくことを願う。快と不快を自分で感じる事は大事だ。自分もコツコツ勉強する。


合間に本職の発表が2回ほど。
PowerPoint作ったり準備が大変。


奈良に行く。念願の美輪神社。色々なシンクロニシティ―が起きて驚く。



7月。
平河町ミュージックスという素敵なところで通崎さんのマリンバ演奏を聴く。
マリンバは波動。木琴は粒子の音のイメージ。
どちらか、ではなく。どちらも。


夏山に診療所に行き働く。
色んな汚れが落ちていく感じ。自然の中にいるだけで自然と共鳴する。
下山して「久しぶりに会ったらあまりに透明な存在感で驚いた」と言われた。透明だったらしい。自然の力はすごい。だから自然に定期的に入る。



8月。
再度山に登る。いい。テレビの取材を受ける。ニュースの中の15分番組で放映された。



9月。
ダイアログ研究会。福島県の川内村に行く。色々感じ、色々考える。
スイッチさんと仲良くなる。青森とも何かがつながる。

弘前に行く。レストラン山崎。味わう。美味しい。
色んな巨石を見る。磁場が違っていた。

代替医療のドン、帯津先生に会う。色々感じ、色々考えた。


熊本で本職の発表。何故か賞を受賞。くまもんと真珠コラボのバッジを商品でもらう。思いがけずうれしい。



10月。
本物の宝石を銀座で見て驚く。宝石への偏見があったらしい。自分はまだまだいろいろな偏見の垢があるようだ。灯台下暗し。自分のことは自分で気づきにくいが、自分の中で時期が来ると気づくようになっているようだ。自然の仕組みは面白い。
石の美しさは筆舌に尽くしがたい。見ているで何か治癒力が働く。癒される。


演劇で白痴(ドストエフスキー原作)を見て感動。芸術はすごい。こころや魂が共振しているのを感じた。

ゲリーボーネルさんと会う。感動。眼が優しかった。


11月。
学術論文を出す。疲れ果てた。泥のように寝る。


12月。
友人の家でイタリア料理風おせち料理を習う。
料理の行程の中の小さいひと手間ひと手間を学ぶ。プロの技も学ぶ。
こうした小さいひと手間が料理の質を上げるのだ。裏舞台を学んだ。
改めて食の重要性を自覚。


弘前に行き木村さんと会う。無農薬リンゴを頂く。
色んな話を教わる。
人から直接聞くと、またまるで印象が違う。

そして、木村さんと会った意味が自分の中で腑に落ちる。



小澤征爾さんがタクトを渡したとされる山田和樹さん指揮のモーツァルト、レクイエムを聴く。
山田さんのエレガントな存在感と、放たれる圧倒的なエネルギーとオーラに魅了される。聴く前に歩いている姿ですでに好きになった。



・・・・・・・・・・
という感じで。
色んな人に会った気がします。


にんげん、という存在は、存在しているだけでエネルギーやパワーを猛烈に放っています。
宮崎駿さんが人物の髪の毛は常に動いているというように、人間は見えないスピードで細やかに振動している。気付かなくなっているだけ。
人間は直立することはできない。かならず常に少し振動しながらバランスを取っている。それが生者と死者の違いだろう。


全ての存在物は肯定されている。行為がOKでないことはあっても、存在は誰にも否定されない。全ての存在はOKである。そこを誤解している人が多いと思う。


相手を非難する人は、相手の行為と存在の区別もつかずに否定する。行為を注意すればいいのに、存在を否定しているかのようだ。その細やかな差異に気付いていないが、それは重要なことだ。
非難された方も、自分の存在が否定されたと誤解する。それが自己否定を強化する。
自己否定を守るために、人は他者を否定する。そういうゲームに明け暮れて1日が終わる。


すべては、存在レベルで否定されることはない。全ての存在は肯定されている。
すべてを肯定し続ける存在であることが、道(タオ)ということだろう。相手を理論や理屈で言い負かして説得するものではない。存在の在り方で共鳴するものだ。



肯定の態度であり続ける。
ゲームに巻き込まれてはいけない。
相手の存在を否定することで自分を肯定してみたり、自分を否定することで相手を肯定してみたりするゲーム。
相手に必要とされることで自分の存在を確認したりするゲーム。それは果てしない。
自分が書いた脚本。用意された結末を迎えるようにものごとは進んでいく。自己否定か他者否定かを確認してゲームは終わる。同じゲームを別の環境や別の登場人物で繰り返す。ゲームは終わりだ。


存在はすべて肯定されている。生まれたということはそういうことだ。
野に咲く花がすべて肯定されるのと同じことだ。人間もすべて、同じ。



・・・・・・・

そんなことをつらつら考えながら2013年は終わろうとしています。

今年も有難うございました。
テイストが変わり続けるこのブログに遊びに来ていただき感謝しています。
自分の中で砂場のような場所です。
つくっては壊し、壊しては作る。そして時を忘れて遊ぶ。夢の中のように。


2014年もいい年にしましょう!
来年もよろしくお願いします!(^^

3 コメント

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存在そのもの (玉猫)
2013-12-30 20:18:23
人の行為が OK でないときは(多々)あるが、
存在は否定できない。
そう、<あなた>は<そこ>に<いるだけ>でいい。
私がこの事を直感したのは、45年前、20歳の
時でした。空から啓示のように<今、貴女は
すでにそこにいるじゃないか><それ以外何が
欲しいのか?>という声が、空から降ってきた。
または頭の中で、直接声が響いた、そんな感じ。
この世の誰一人として、<いなくてもいい人>
なんていないです。
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生きてるだけで面白くなるね。 (スイッチ)
2013-12-31 16:13:40
だんだん、生きてるだけで面白くなってきますね。
玉猫さんも すごい声をお聞きになったのですね。

20歳の時に……私ももっと早くその声を聞きたかったです。(笑) 
ようやく、30歳を過ぎて、そんな声が聞こえるようになってきました。

稲葉さんって見ていると、すごく安心感があると思う。
魂が落ち着いているなあって思います。

来年もまた良い一年でありますように☆
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生きてるだけで丸もうけ (いなば)
2014-01-02 09:12:24
>玉猫様
そうなんですよね。存在レベルと行為レベルが混同されているし混同している。
学校のいじめなどもその辺りが大きいと思います。どんなにいじめられても、行為に関してのことであって、存在に関しては誰も否定することはできない、ということを教師が確信をもって伝えるべきだと思います。職場でも、怒る人は存在レベルで否定しているようで・・・。

全ての存在物は肯定されている、という立場でこちら側にいると、相手もそれに同調して共鳴してくるものだと思いますね。

20歳の時に聞こえた声は重要な羅針盤になりますよね。自分も、自分の胸に手をあてて聞こえてくれる良心のような声を羅針盤にしています。


>スイッチさん
そうですね。生きてるだけですでに面白いですよね。
さんまさんが言っている<生きてるだけで丸もうけ>(そこからIMARUと命名)っていう感覚がしっくりきます。

2013年はスイッチさんとお会いできてよかったです。
すいっちさんにしていただくエジプト占いも、占いの内容もさることながら、やってもらうだけでヒーリング効果があるような感じで素晴らしいです。やはり、人間の力は偉大ですねー!
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