日常

遊ぶ

2015-10-31 07:01:23 | 考え
白川静先生の『文字逍遥』平凡社(1994/04)『回思九十年』平凡社(2011/3/15)をつまみ読みしている。



遊ぶっていうのは、神さまとも遊ぶってことらしい。
それは、絶対の自由と、ゆたかな創造の世界。
古代人は、こういう心性だったのだろう。
未来人も、そういう心性へと先祖返りしていくだろう。

そういう境地で日々を過ごして遊びも仕事もひとつになれば、こんなに愉快なことはない。
こどもからおとなにり、しばしそのことを忘れ、また思い出し、そして翁(おきな)になる。
こどもと翁は、あの世に近いからこそ、神に近い存在として敬っていた。そういう社会は豊かな社会だと思う。





参考
山本史也、白川静「神さまがくれた漢字たち」(2012-12-09)



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白川静『文字逍遥』
「遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。
遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。
それは神の世界に外ならない。
この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。
神とともにというよりも、神によりてというべきかもしれない。
祝祭においてのみ許される荘厳の虚偽と、秩序をこえた狂気とは、神に近づき、神とともにあることの証しであり、またその限られた場における祭祀者の特権である。」
「遊とは動くことである。常には動かざるものが動くときに、はじめて遊は意味的な行為となる。動かざるものは神である。
神隠るというように、神は常に隠れたるものである。」
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白川静『回思九十年』「古代人の心象風景 白川静/谷川健一/山中智恵子/水原紫苑」より
「(「遊」とは)人が旗を持って外に出歩くという形です。
その旗は氏族の印で、そこには氏族の神、霊が宿る。
自分が住んでいる本貫の地を離れる時は、異なった神々がいる世界に入っていきますから、自分の氏族の神の旗印を掲げて出て歩くのです。

神は本来、普遍的一般的に存在する以前に、氏族神であった。
氏族を守るための神としてあった。
氏族神が行動する時は、他の氏族神と出会うと言う事もありますから、必ず氏族の神を掲げて外へ出ていく。
遊というのは、自分が住んでいる場所から出行するという意味ですから、そういう時に旗を掲げて行くのです。

同時に氏族神である神も時々姿を現します。それは遊んでいるような姿で現れてきます。
例えば、川上から下りてくる、どこかの森から現れるとか。だから、それを迎えるお祭りをする。それがだんだん定例的になって、決まった日に神を迎えて祀る。それが祭りです。
神はそういうふうにして浮かれるようにして出てきます。

『詩経』の古い詩、「周南、漢広」に「漢に遊女有り 求むべからず」とあります。漢水に出て遊ぶ女があるというのです。従来の『詩経』の解釈では、遊女というのを浮かれ女(め)と解釈してしまっている。したがってその詩が神を迎えて祀る祭りの歌であるという解釈ができなくて、浮かれ女ながら、求めることができないという儒教的な解釈になってしまっている。

しかし遊という字の本来の意味は、遊行する神の姿をいうのです。神を迎えるのが祭りである。だから遊は人間が遊ぶのではなくて、神が遊ぶ。神は人間の愛情の対象として求めることはできない。また神を迎えて神と共に遊ぶのが遊の本来の姿です。」
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