仕事の後輩と話していて、なぜ山に登るのかと聞かれた。
自然は美しいし、色んな理由があるだろう。
ふと思うのは、一時的に自我を溶かす働きもあるんだと思う。
巨大な自然の中で、小さい自我は溶けてなくなる。
登山をしていると、あるときから無意識で山も岩も登ってる。
勝手に体が動く。
そのときの司令塔は、脳とか意識ではなくて、自分の体。
そのとき、きっと自我は溶けてなくなっている。
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(「株」(2010-09-14)と同じ人の話し。)
いつもたわいもない話をしている。
行くたびに、同じ話を何度も聞く。
戦争のときにマラリアにかかった話。
そして、それ以降心臓が悪くなったという話。(その話しと同時に、同居しているおばあちゃんが「あんたは心臓悪くないの!いつも同じところで間違った話ばっかりして!」と同じタイミングで突っ込む)
そういうメビウスの輪の話を延々としている。
すると . . . 本文を読む
「関係性」というものを考えている。
物事に関心を持つとき、「自分との関係性」がないと考えにくい。
関係性を失ったものを自分がいくら考えても、それは思弁的で空想的で形而上学的でフワフワした力のない空疎なものになる。
地面が無い空中に家を建てる感じ。空中建築。
だから、何かを考えるとき、自分との何かしらの関係性を結ぶことは大事だ。
『「ワタシ」を入れること』(2010-10-14)のときも、同じ . . . 本文を読む
神谷美恵子さんの「本、そして人」(みすず書房)。
本棚からなんとなく目に入って、読みだしたら止まらなくなって、読んだ。
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<本の説明より>
「私は失敗ばかりしてきたような気がするが、その苦悩のなかで、ほんの少しばかり自分の頭でものを考えることができるようになったような気がする。
それというのも、自分の頭でというよりは、多くの「精神的恩人」が心に残していっ . . . 本文を読む
イマヌエル・カント(1724-1804年)。
『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を書いた大哲学者といわれる。
理性の極限を追い求めて、とことんまで考えた人だから、その内容は当然難しい。
ただ、「理性の限界を、理性そのものが認識できるのか」っていう問いは、今の脳科学で言えば「脳は脳自体を理解できるのか」っていう問いと似てると思う。
古くて新しい問題だし、なんでも限界 . . . 本文を読む
ヨーロッパで生まれた自然科学。
自然科学は、「ワタシ」を学問の中に入れないことで発展した。
その究極の形は物理学だし、観測するワタシすらも除いていく。
自然科学は、「ワタシ」を消して、対象と分離していくことで、ものを客観的に冷静に見ることができた。
その流れの中で、科学も科学技術も生まれた。
科学技術で受けた恩恵は計り知れないけれど、巨大な光に影は長く延びる。
今後は、そんな . . . 本文を読む
■アンゲロプロス「霧の中の風景」
早稲田松竹でテオ・アンゲロプロス監督の<霧の中の風景>を見た。(1988年)
映画好きには有名な監督みたいだけど、それほど映画に詳しくない自分は、この監督の映画は初めて見た。
予備知識なく見たけど、かなり幻想的で美しい映画だった。
でも、同時にテーマは暗く重い気もした。
テーマが重いからこそ、幻想的な表現がちょうどいいのかもしれない。
いろんな衝撃的な場 . . . 本文を読む
友人との話の中で、手塚治虫「ばるぼら」が出てきた。
高校生の時読んで以来内容を忘れていたので、もう一度読んだ。
激しい衝撃を受けた。
手塚治虫の漫画は全部読んでいるけれど、奇妙なざらつきだけが残っている作品が多くある。
今ふと思い出すだけでも、「人間昆虫記」、「奇子」、「MW(ムウ)」、そして、この「ばるぼら」だった。
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(上)バルボラというフーテン娘に導 . . . 本文を読む