日常

「アルボムッレ・スマナサーラ法話集 逆境に立ち向かう」

2012-08-18 07:53:10 | 
「アルボムッレ・スマナサーラ法話集 逆境に立ち向かう―生きる勇気が湧く人生の「幸福論」」アルマット (2011/09)という本を読みました。


作者のアルボムッレ・スマナサーラ(Alubomulle Sumanasara)さんはテーラワーダ仏教(上座仏教)の長老。
1980年に国費留学生として来日されてから、現在は日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教伝道とヴィパッサナー冥想指導に従事している方です。
「怒らないこと」サンガ新書(2006/7/18) という本がベストセラーになり、この本はとてもいい本だったので、その後スマナサーラ長老の本は相当数読みました。

日本の仏教はインドから中国を介して変形されたうえで鎌倉仏教として発展していて、初期のブッダの教えとは違う独自の発展を遂げています。
スリランカのテーラワーダ仏教(上座仏教)はブッダの教えをそのまま実践している方々なので、仏教を学ぶ上でとても勉強になります。


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<内容(「BOOK」データベースより)>
「怒らないこと」などの著作で有名な、テーラワーダ仏教(上座仏教)長老が教えてくれる逆境を乗り越える幸福論。法話2編を収録。
“逆境が心を成長させます。「逆境」から「良い環境」を作る智恵が育ちます。それが楽しいのです。それが幸福なのです。“
“不幸な出来事があるのは当たり前のことで、それによって自分の智慧を発展させることができるのです。そこに幸せが成り立つのです。世間では不幸だらけだと見える人生が、幸せな人生になっていくのです。”

「人生に不満はつきもの」「人間だけが心を育てられる」
―逆境には、人を成長させる「学び」と「智恵」が潜んでいる。
目を伏せず、それを学び心を育てよう!成長した心だけが「幸せ」を感じ取れるのだから。――アルボムッレ・スマナサーラ
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<目次>
第1部 逆境をはね返すブッダの智恵
 第1章 最低生活さえ最高に生きられる
 第2章 言葉は花束か爆弾か
 第3章 幸せになる方法論

第2部 幸福に至るYESとNOの法則
 第1章 今日を生きるための善悪論 
 第2章 善悪は宇宙の法則です
 第3章 皆が幸せになれる方法―メリット論
 第4章 貪瞋痴(とんじんち)はなぜ悪いのですか
 第5章 『善因善果(ぜんいんぜんか)、悪因悪果(あくいんあっか)』は本当の話です
 第6章 善悪についてもっと知りたい
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文句を言ったから苦しくなるのではなく、その<文句が頭の中に浮かぶ性格>が人を苦しめるのです。
さらに悪いことに、文句が思い浮かぶ性格になってしまった人は、24時間ずーっと頭の中に文句がグチャグチャと鳴りつづけているのです。人生が苦しくなるのは当然です。
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<文句人生>の心の状態は、ひどい精神的な病気状態なのです。
周りから何をしても何を教えても、それによってまた文句が生まれ、自も他も苦しめるのであって、決して幸福になるということは成り立たないのです。
ですから、唯一の解決方法というのは、心の中にある漠然とした病気の状態を治すことなのです。
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智慧のある人は、周りの環境については、一言も文句を言ったり外の世界にあたったりはしません。
そんなことをして自分の楽しみを壊したりしないのです。
わたしたちが生きている環境が、全員にぴったりうまく合うというのはありえないのです。
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文句を言う人はいかにも賢そうに見える巧みな言葉でしゃべるので、全く自分の愚かさに気付かないのです。
「<文句を言う性格>が出ること自体が大バカ者の生き方だ」というのが、論理的な考え方です。
自分の中に文句を言いたがる気持ちがモヤモヤと出てきたら、「自分は大バカ者だ。これほどのバカ者は世の中にいないんだ、無知もいいところだ」と思った方がいいのです。
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<文句を言う性格>をやめることは理解能力がある人にとってはっても簡単なことなのです。
けれども、普通の人々には超えられない精神的ハンディがあって、なかなか幸福になれないのです。
そのハンディとは「自分が正しい」と強固に思っている事です。
「自分の考え方、自分の性格だけは絶対に捨てない」と、ものすごく強くしがみついていることなのです。
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<文句を言う>のは精神的な病気だ、というところから始まります。
なかなか痛烈ですが、よく読むとその通りだとも思います。(^^;

<文句を言う>ことで現実は何も変わりません。
むしろ、自分の内的世界を傷つけているような気がします。
あらためて<文句を言う>という現象を冷静に考えてみましたが、それは結局<その人を変えたい>ということにつながっているように思えてきました。
ただ、人のことは人のことです。自分は自分。ほかの人には他の人の人生があり、とやかく干渉するものではありません。
この与えられた環境の中で自分がベストを尽くすことこそ大事ですよね。自戒も込めて思いますね。

<文句を言う>ことも建設的な方向につながれればいいですが、破壊的な方向につながるのなら、それは単純に<破壊活動>をするための方便として誰かに文句を言っていたとしか思えなくなりますから。




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不幸も、根拠のない施行に基づいた生き方から生まれたものだと発見できるのです。
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「その思考によって自分と他人とが本当に幸福になるのどうか」ということを、知識人であるならば客観的に調べてみるのです。
そうすると、不幸の種になる根拠のない<自分の思考>から脱出できるのです。
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仏教でいつでも言う事は
「あなた方は生まれた状態のまま、人格と知恵に何の発展もなく死んではいけない。
どんどん人格を発展させて進歩させて、究極的なところまで成長して、死ぬまでに人格を完成させなさい」
ということです。
わたしたちはこの世に人間として生まれてきました。
そうであるならば、人間として成長しなくてはいけません。
昨日より今日はもっと立派な人にならないといけないのです。
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仏教の教説は哲学的なことが多いけれど、スマナサーラ長老を通して聞こえるブッダの教えはとても倫理的で道徳的で基本的なことばかり。
こういう当たり前なようで当たり前に実践できないことを改めて指摘してくれる存在はとても貴重だと思うし、自分も襟を正す気持ちになります。

<幸福><不幸>というのは自分の思考や行動から生まれる概念(コンセプト)である、ということでしょうか。
人間は、生きてるだけですでに<幸福>なのですが、根拠のない他人との比較から、<幸福>や<不幸>という概念を作り出してしまう。
その概念に振り回される人生よりも、与えられた自分の人生を全うすれば、それはすでに<幸福である>と言えるのかもしれません。




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「ダンマパダ 二五三」
『他人の過ちばかりを考え続け、常に文句を言いたい気持ちでいる。その人の心に汚れが繁殖する。清らかな境地からははなはだ遠い。』
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「もう少々あれば」という考え方は、<今>の楽しみ、<今>の幸福にケチをつけるのです。
仏教的な「もう少々」の概念は、人格完成のためであって、貪り・怒り・無知(貪・瞋・癡(とん・じん・ち))という3つの火に智慧の水を差す事です。
世俗的な「もう少々」を渇愛と言います。仏教的な「もう少々」は精進と言うのです。
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「ダンマパダ 二〇二」
『欲ほどの火がない、怒りほどの損がない。五蘊(心身)ほどの苦がない。平安(解脱)ほどの幸福がない。』
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人間関係は互いの思考パターンのぶつかり合いなのです。
ですから簡単な解決法は、自分の思考パターンを変える事なのです。

「私のことがバカに見えるあなたの考え方を治してください。私は変わりません。」
と言っても無理なのは当たり前です。

仏教の答えは「自分の考え方を直してみましょう。」ということなのです。それで問題は終わります。
相手が自分のどこにどう反応しているかを観察する。
そして自分がその現象を起こさないように注意すれば、問題は解決します。
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人は毎日成長しなければならないというのは、自分の思考パターンを良い方向に変えていくということなのです。
簡単なことですが、人間にはこれが大変に難しいのです。
なぜなら、考え方が歪んでいるので、自分を直すべきだと気付かないからです。
なぜ「他人が悪い」と思うのかと言うと、人のせいにすると自分の問題が隠せるからです。
「他人の過ちは見やすい」というのが、お釈迦様の言葉なのです。
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→たしかに人間関係の根本は価値観の衝突というのは多い気がします。
相手を変えるより自分が変わるほうが容易い。
相手を認めれないのなら、相手を認めることができるように自分が成長するほうが容易い。
ブッダの教えはシンプルです。


以前読んだ、里中満智子さんの「ブッダをめぐる人びと」(2011-10-25 )と言う本にも、
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巻末
菅沼晃さん(仏教学者)と里中満智子さんの対談より
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菅沼晃
『相手を救うのではない。どんな人との関わりにおいても、言葉を投げかけたりふれあうなどして、相手に気付かせる。
その結果、救われていく。これが「仏教は自覚の宗教」といわれる所以ですね。
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「この人は自ら気付くことのできる人だ」と信頼する姿勢は、相手を教授する立場にある人、たとえば親や教師には欠かせない姿勢だと思います。
また、何か問題を抱えて悩み苦しんでいる人と触れ合う際にもこの姿勢は大切ですね。
つい教えたくなったり、こちらの考えを押し付けたくなったりしてしまうものです。
でも、それは自覚につながらない。
ブッダは、相手が「なるほどそうか」と気付くヒントを与えているだけなのです。
あとは本人が自分から立ち直っていくわけですから。』

里中満智子
『ブッダの生き方はつまり「人はどこまで相手の思いになれるのか、やさしくなれるのか」の探求であったとも思います。』
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という記載があったのを思い出します。



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「ダンマパダ 五〇」
『他人の過ちやしたことしなかったことを見る必要はありません。
自分のことこそ観察すればいかがですか。何をしたのか、しなかったのかと。』
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我々は世の中で少ない稀なものを見て
「あれが私にもあれば幸せだ」と考えています。
その考え方自体が不幸なのです。
稀なもので幸せになろうとするのではなく、どこにでもあるもので幸せをつかまえればいいのです。
気に入らない状況をうまく使って、いい環境をつくっていくことこそが智慧なのです。それが楽しいのです。幸福なのです。
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生きる事は、全ての生命にとって<苦>なのです。
わざわざ他人の苦を自分の人生に導入する必要はありません。
ひとりひとりが各自の環境から生まれる問題にチャレンジすればいいのです。
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仏教では言葉を<真理を語る言葉>と<世間の言葉>の2種類に分けています。

<真理の言葉>は、人間の気持ち・見方(主観)とは何の関係もありません。「全ての現象は無常である」これは真理の言葉です。
一方、<世間の言葉>は時空関係や人の主観に左右されます。その語る人の主観や感情を発言しているだけです。

誰でも真剣にしゃべっているのではなく、無批判的に自分の一時的な感情、一時的な主観を表しているだけなのです。
厳密に言えば、人が他人に向かって発する言葉は、その話す人の問題であって、客観的な真理ではありません。
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→この<真理を語る言葉>と<世間の言葉>の2種類に分けるのはとてもいいと思った。
人の評価や噂話が気になる人は、それは単なる音の響きであって、<真理を語る言葉>ではないので気にする必要はない、と思えばいいわけですしね。
そういわれると、巷にあふれている言葉の中になんと<世間の言葉>だけで終わってしまうことが多いことか!
テレビを見ていても、<真理を語る言葉>は数少なく<世間の言葉>をなんとなく流している報道が多い気がします。



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「スッタニパータ 二六八」
『八つの浮き沈みに心が揺るがないこと、心が憂いなく、汚れなく、平安であること、それこそが最高の幸福であります。』
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だから「いわゆる世間話は言葉のからくりだけで、そこに真実はありません。」というブッダの教えを基準にしないといけないのです。
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心の豊かさというのは、ものに囚われないことです。それは、言葉に引っかからないことから生まれるのです。
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わたしたちは正しくない言葉を真に受けて、一生苦労しているのです。
言葉を分析してみると、世間の言葉は一時的にその場だけで言っていることであって、真実ではありません。
言葉というのは、ほとんどの場合は事実に基づいた重いものではなく、主観を表すだけの泡のような軽いものです。
人の言葉を真に受けるから、我々はあらゆるトラブルを起こすのです。言葉の問題を解決することは、万人に共通する、誰にでも実践できる道です。
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→この発言は深いなぁ、と思います。
色んな物事の表面に惑わされず、その深層にある真実や真理をこそ見つめなさい、ということでしょうか。
現代のネット世界も含め、今はあらゆる意味での表面的なうわべのものごとに左右されやすい時代になっている気がします。
それは人を自殺やイジメに追い込んでしまうほどの力を持つ。でも、そんな<世間の言葉>に右往左往するのではなく、<真理を語る言葉>を追求していけば、人生はきっと面白い。




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「ダンマパダ 二五八」
『たくさんしゃべるからといって智慧のある人だとは言えないのです。こころに平安あり、怒りと恐怖感がない人こそが賢者であります。』
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「幸福とは常に充実感を得られる生き方だ」と理解しておくと、万人が幸福になれると思います。
いかなる生命にも、完全に独立して我がままに奔放に生きていくことは決してできません。
私たちは自然の中で自然の法則に従って生きているのです。自然法則に逆らった時点で死んでしまいます。
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やみくもに幸福になろうと踏ん張るのではなく、すべての生命と調和を保つことに励むのです。
そうすると、幸福がひとりでに自分を包み込んでくれて、幸福とは外にあるも別なものではなく、自分と一体のものであることに気づくでしょう。
その生き方をお釈迦さまの言葉に言いかえれば、「生きとし生けるものが幸福でありますように」と我々の思考・言葉・行動を変える事なのです。
慈しみは皆に実践できる聖なる生き方です。
慈しみの生き方は、現代社会のあらゆる問題、あらゆる苦しみに終止符をうつ唯一の生き方です。
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人を、生命を、攻撃するのではなく、「みんな幸せであってほしい」と言う気持ちを育てること。
それで人とぶつかることも、何かに文句を言う事も、消えてしまいます。
慈しみ(怒りがないこと)によって怒りが消えます。
この真理は、生命が生きている限り変わらない普遍的な真理です。
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→このことは自分も肝に命じようと思った。ほんと、いいこと言うなぁと思います。


【すべての生命と調和を保つことに励むのです】というのは心がけたい。
自然の生態系は調和が基本だし、人体全体のメカニズムを考えても調和が基本です。
調和を肝に銘じて生活していると、その人そのものが道(タオ、Tao)の状態に近づくので、いろんないいことが起きるのだと思いますね。(『タオ』(2010-11-16)







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「ダンマパダ 五」
『怒りを怒りでおさめることは決してありません。慈しみで怒りが消えます。これが普遍的な真理です。』
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仏教の考え方は「自分は正しいことを守る」それだけです。
「相手の非も直してやろう」という傲慢な態度をとる事は控えるのです。
正義の味方になるのではなく、正義の人になるのです。
いわゆる「私は悪いことはしません」と自分を戒めるのみなのです。
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相手が憎いという思考で自己破滅の道を歩んでいるのです。
憎しみに対して憎しみで対応して自分も苦しむのではなく、相手を許して慈しみを育てて明るい心をつくることです。
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善が善であるなら、悪とは戦いません。
悪に戦いを挑む善は、善の皮をかぶった悪です。聖戦なんかは成り立たないのです。
世の中にあるのは悪と悪の戦いではないかと思います。
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幸福を望む人は<怒り><憎しみ><戦い>を完全にやめるのです。
悪い人を倒すのではなく、助けてあげる事によって万人の幸せが成り立つのだと気付いてほしいのです。
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→【正義の味方になるのではなく、正義の人になる】というのはいい言葉ですよね。
ブッダの道は、あくまでも自分で実践していく道なのだな、と思います。

【善が善であるなら、悪とは戦いません。】
闘いや争いや<文句を言う>という状態は、自分で自分の敵を無限増殖させているようなものですよね。




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「ダンマパダ 一〇一」
『勝った人は怒りを買う。負けた人は悔しく眠る。心穏やかな人は、勝敗を捨てて、楽に幸せになる。』
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<行為>というのはエネルギーを放つことです。
生命は善行為によってたいへん喜びを感じるのです。
「喜びを感じたい」「幸福になりたい」というのが、生命の基本的な願いなのです。
正しい善行為というのは、何かを捕まえようとする内向きの行為ではなく、自分の方から外へエネルギーを出す行動なのです。
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→王陽明の陽明学で言われるような「知行合一」というのは大事ですよね。知識と行動とが一致すること。
王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じと言い、実践重視の教えを説きました。
これは現代で言うプラグマティズム(pragmatism)(実用主義、道具主義、実際主義、行為主義とも訳されることがある)にも通じるものを感じます。

ブッダの教えは、空想や観念だけで何もしないことを嫌う考えですよね。
「いいと思ったらやったらどう?悪いと思ってるならやめたらどう?」という感じです。



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「ダンマパダ 一六三」
『自分の不幸になる悪いことはやりやすい。自分にとって幸福になる善い行為は最もやりにくい。』
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自分の主観で「善い事だ、悪い事だ」と決めない方がいいのです。
「善い」「悪い」というのは普遍的な法則であって、宇宙レベルの真理なのです。
善い事というのは、自分にもメリットがあって、相手にとってもメリットがあって、その行為自体を独立して考えても普遍的にメリットがある行為なのです。
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→確かに善悪を人間が下すのは簡単なことではありません。
時代や場所が変われば、善にもなり、悪にもなるものは多い。そこには人間の判断(固定観念も含む)が関与しているからなのでしょう。


自分も相手も、そして客観的に観察しても全員が嬉しく楽しくなるようなものは、確かに「善」なのだと思います。
狭い考えや固定観念(それが自我意識を作り出す要素でもある)に振り回されず、宇宙レベルの普遍的な真理と自分の考えや行いを照らし合わせながら、日々過ごしたいものです。


スマナサーラ長老の文章はどの本を読んでも、いつも学ぶことが多いです。
辛辣だけど常に本質をついています。非常に理知的で科学的で合理的で、眼から鱗が何枚も落ちます。
そして、その発言の根底には深い愛や慈しみがあるのを感じます。