
■
ジャンルにこだわらず、本を読むのはなんでも好きです。
その読書の中でも、生き様や死に様を学ぶ模範として、キリスト、ブッダ、ソクラテス(プラトン)の御三方は個人的に一生の研究(勉強)テーマにしようとおもっています。
それでブッダや仏教に関するものもちょこちょこ統一感なく読むようになりました。
■
里中満智子さんの「ブッダをめぐる人びと」佼成出版社 (2006/10)。
とてもいい本だった。
里中さんの漫画はすごく好きです。
難解な内容からエッセンスを抜き出す。
それを絵の力で分かりやすく表現する。その技術とセンスはほんとうにすごい。
この「ブッダをめぐる人びと」という本は、ブッダに出会って感化された人々の人生を描くことで、人間ブッダの人となりをリアルに描いていると思いました。
里中さんの優しいタッチゆえに、ブッダ自身の表情も神々しい。
ブッダに関しては手塚治虫先生の「ブッダ」もありますが、全12巻あるので読むにはそれなりに時間がかかります。

→2年以上前に感想を書いてました。「『ブッダ』手塚治虫」(2009-02-03)
この里中満智子さんの「ブッダをめぐる人びと」は、すぐ読めるにも関わらずブッダの深い精神性がスウッと伝わってきて、かなりの名著だと思いました。
何度も繰り返して読みたい本。隠れた名著です。
■
ブッダの言葉からは、「初心」に戻り素直にさせてくれる不思議な言葉の力を感じます。
→『ブッダの真理のことば、感興のことば』(2011-02-02)
「初心」と一言で言いますが、そこには無限に近い「初心」が含まれていると思います。
たとえば仕事をはじめた初心であったり、職業を選択した初心であったり、大学や学校に入学した初心であったり、習い事をはじめた初心であったり・・・・
自分が体験した経験には必ず「はじめての体験」の時があるはずで、誰にも最初の時があって、そのとき「こころ」は必ず何かを感じている。
自分の人生で初めての心の体験として「初心」が誰にもあります。
人間、誰もが通る初心は「赤ん坊」にまでさかのぼるかもしれません。
赤ん坊として生まれ生きていたときは、完全で純粋な存在だと思うのです。
善でも悪でもない存在。
「善い人」がいるわけでも「悪い人」がいるわけでもなく、善い行いをする「人間」がいて、悪い行いをする「人間」がいるだけ。
人間は元々悪も善もどちらも含んでいるニュートラルな存在だと思います。
だからそこでだれしもが人生の選択をしている。
善い行いをして生きていくか、悪い行いをして生きていくのか。
純粋無垢な存在として生まれ落ちてきても、この世界はとかくいろんな矛盾に満ちています。
その矛盾の葛藤の中で、バランスをとるように人間は成長していきます。
善い行いをする人もいれば、悪い行いをす人もいる。
真実を語る人をいれば、嘘を語る人もいる。
他者のことを思いやる利他的な人もいれば、自分のことしか考えない利己的な人もいる。・・・・・
そんな矛盾に満ちた相反する出来事に適応していく過程で、ひとりの人間が形作られていくわけです。
その無限のプロセスの中で「ああこんな人は嫌だ、こんな人間にはなりたくない」とか、「こんな経験は二度としたくない」など、いろんなことを感じながら適応して生きていきます。
そのとき感じた「はじめてのこころ」が誰にも必ずある。
思い出せなくても、記憶は必ず残っています。
その記憶は、自分の性格や人格がどのように形作られたかを考える上で、「自分」を知る上で極めて大事な倉庫だと思うのです。
ブッダの言葉は、そうしたいろんな「初心」を思い起こさせてくれます。
それはつねに力強く、そしてつねに優しく慈悲深く響く言葉です。
「仏教」と言うと宗教を意味して敬遠してしまいがちですが、宗教という体裁を取る前は、単にひとりのブッダという人間がいたにすぎません。
そのひとりの人間ブッダの生き様や言葉から、僕らは単純に素直に、直接学べることを学びとればいいと思うのです。
自分はそういうスタンスを保ちつつ、偉大な人の魂から学べる限り学び取りたいと考えています。
それは知識として蓄えて自己満足するものではなくて、行動や行為として現実に実践して育んでいく、先人が残した豊かな智慧なのだと思います。
----------------------------
●里中満智子「ブッダをめぐる人びと」より
----------------------------
≪幼くしてブッダの心を見た:ヴィサーカー≫
----------------------------
『あなたは、たまたま現世では大富豪です。
でも前世は?そして来世は?
すべての人にとって現世はいまこの瞬間のひとときです。
みな、大いなる力によって生かされているのです。
動物も植物も
大富豪でも貧しくても
健康でも病人でも
男でも女でも
人でも花でも
キツネでもゾウでも
皆、たまたまそう生まれて生かされているのです。
だれが偉いのでもなく誰が劣るのでもありません。
皆生きています。
他の生命-食べ物によって生かされています。
食べることはありがたいことです。
一粒の麦、ひとつまみの豆
皆大いなる生命の施しです。
自分が飢えていても、
何も考えず当たり前のように他の人に食べ物を渡して食べていただく。
感謝も見返りも求めず、ただ自然に与える。
それが真の功徳です。
何も持たない貧しい人でも、微笑みをひとに与えることができます。
それも功徳です。』
----------------------------
≪夫と子をなくして狂乱した:パターチャーラー≫
----------------------------
『そうだったのか。それはつらかっただろうね。
だが生きている者は必ず死ぬのだよ。
生命との別れの苦しみは生きている間中つきまとうのだ。
哀しいのはあなただけではない。
昔から今まで、子を失くした母が流した涙は海の水よりも多いのだよ。
だが水でさえ無常なのだ。
地面にしみ込めば水の流れはなくなる。
生命もそうだ。
すべての生命は地面に染み込んだ水のように消えてなくなる。
人間も動物も水も皆平等なのだ。無常なのだよ。
悲しんでばかりいると、亡くなった人は「自分のために悲しませている」と苦しむだろう。
自分のために悲しむのはやめて、魂のために祈ってあげなさい。』
----------------------------
≪アーナンダに恋した:プラクリティ≫
----------------------------
『そなたの言っていることはうわべだけではないか?
アーナンダのうわべがもしも消えたら、何が見えるかな?
骨、内臓、そして内臓につまった大小便でも見えるだろう。
それでも美しいと思えるかな?
だが、様々の汚いものも含めて「その人の存在」なのだよ。』
----------------------------
≪死んで欲望のむなしさを教えた:シリマー≫
----------------------------
『ブッダはいつもこうおっしゃっています。
「人は怒らないことによって怒りに打ちかつ」、と。
だからわたしは怒りません。
「善行によって悪に打ち勝ち、
布施をすることでものを惜しむ気持ちに打ち勝ち
真実の言葉を知ることで、偽りの言葉に打ち勝つ」、と。』
----------------------------
≪苦行に心を惑わされた:ソーナ・コーリヴィーサ≫
----------------------------
『ソーナよ、ここに琴がある。
力いっぱいぎりぎりまで弦を張ればどんな音が出る?』
「弦を張りすぎると固くてきつい音になります。」
『では弦をゆるくすると?』
「ゆるめすぎると気の抜けた音しかでません」
『ソーナよ、おまえはまるで
力いっぱい張りすぎた弦のようなものだ。
がむしゃらになりすぎて、無理をすることが目的になってしまっている.
体を痛める修行はあせりの心しか生まない。
ほどよい弦の張り具合がよい音を生むのだよ。』
----------------------------
≪二つの家の子として育った:バークラ≫
----------------------------
『修行を積んでもすべての欲から解き放たれるのは難しいものだ。
まったく無欲で生き抜くなんて無理ではないかと、ふと迷うときがあるものだ。
だがバークラは全身で「完全な無欲」を見せてくれている。
そこにいるだけで「無欲の清々しさ」を教えてくれる。
言葉で伝える説法とは別に、態度で示す説法もあるんだよ。』
----------------------------
≪殺されることも臆せず布教した:プンナ≫
----------------------------
『師ブッダはいつもこうおっしゃっています。
「いつどこでどのように死のうと、それが天のみこころなのだ。
人は宇宙の中で小さな存在にすぎない。
人も動物も植物もみな 大きな天の下で生かされているのだ。
だからどんな運命も感謝して受けれ入れる
それが人としてのあり方だ」と。』
生まれてきたことも死んでゆくことも生命のさだめです。
死は平等にだれにでも訪れます。
だれもが行く道ですから、こわがることはありません。
慣れないことだから少し臆病になっているだけです。
この世で正しく美しい行いをしていれば、天は見てくれています。
そして来世で幸せを与えてくださいます。
そう信じて生きてみてください。
すべての出来事がよい行いをするチャンスに思えてくるはずです。』
----------------------------
≪ブッダのやさしさにふれた火の行者:ウルヴェーラ・カッサパ≫
----------------------------
『あなたがわたしの弟子になるのは受け入れよう。
だがあなたの弟子にはそれぞれの意志がある。
あなたが命令して従わせるのはいかがなものか。
この世の生命は皆平等だ。
弟子も師も同じ生命だ。
王族も下層のひとびとも皆同じ一人の人間だ。
わたしの弟子になるのなら、一人一人の意志によってともに道を歩んでもらいたい。』
----------------------------
≪ブッダの死の悲しみにとらわれた:アーナンダ≫
----------------------------
『そのころもうわたしはこの世にいないが、真理を求める心を見つめれば道は見える。
自分自身を光として歩め。
わたしにすがってはならない。
わたしは特別な存在ではない。
神のようにあがめてはいけない。
わたしは生命あるひとりの人間にすぎない。
生命ある身だからこそ 生命の意味を考えたのだ。
死ぬ身だからこそ、死を受け入れる大切さを知ったのだ。
アーナンダよ、悲しんではいけない。その悲しみは執着だ。
大げさな葬儀は行うな。
そんなことより善行に励みなさい。』
----------------------------
≪父に殺されかけて暗い影をもった:アジャータサットゥ≫
----------------------------
『あなたが「見た、聞いた」と思い込んでいるものは
あなたが「そう見ようとしている、そう聞こうとしている」から、そのように見えたり聞こえたりするのです。
すべての欲から解き放たれたら真実の姿が見えます。
欲は人の目をくもらせ、人の心を迷わせます。
「こうであればいいのに」とか
「こうであるはずだ」という欲や思い込みを捨てて
自由な心を得なさい。』
==================
巻末
菅沼晃さん(仏教学者)と里中満智子さんの対談より
==================
菅沼晃
『相手を救うのではない。どんな人との関わりにおいても、言葉を投げかけたりふれあうなどして、相手に気付かせる。
その結果、救われていく。これが「仏教は自覚の宗教」といわれる所以ですね。
・・・・
「この人は自ら気付くことのできる人だ」と信頼する姿勢は、相手を教授する立場にある人、たとえば親や教師には欠かせない姿勢だと思います。
また、何か問題を抱えて悩み苦しんでいる人と触れ合う際にもこの姿勢は大切ですね。
つい教えたくなったり、こちらの考えを押し付けたくなったりしてしまうものです。
でも、それは自覚につながらない。
ブッダは、相手が「なるほどそうか」と気付くヒントを与えているだけなのです。
あとは本人が自分から立ち直っていくわけですから。』
里中満智子
『ブッダの生き方はつまり「人はどこまで相手の思いになれるのか、やさしくなれるのか」の探求であったとも思います。』
==================
ブッダの「この世の生命は皆平等だ」というメッセージは、当たり前のように響くかもしれませんが、カースト制度があるインドでは革命的で恐るべき主張だったと思います。
こうした当たり前のように響くコトバを、ほんとうの意味で実践することは難しいものです。
ただ、そういう「生命」や「いのち」に立ち返りながら物事を考えていくブッダの姿勢には、生命科学や医療をやっている自分としても「初心」に帰らせてくれて、学ぶべき点が多いと感じます。だからこそ、ブッダから学びたいな、と素直に思います。
ジャンルにこだわらず、本を読むのはなんでも好きです。
その読書の中でも、生き様や死に様を学ぶ模範として、キリスト、ブッダ、ソクラテス(プラトン)の御三方は個人的に一生の研究(勉強)テーマにしようとおもっています。
それでブッダや仏教に関するものもちょこちょこ統一感なく読むようになりました。
■
里中満智子さんの「ブッダをめぐる人びと」佼成出版社 (2006/10)。
とてもいい本だった。
里中さんの漫画はすごく好きです。
難解な内容からエッセンスを抜き出す。
それを絵の力で分かりやすく表現する。その技術とセンスはほんとうにすごい。
この「ブッダをめぐる人びと」という本は、ブッダに出会って感化された人々の人生を描くことで、人間ブッダの人となりをリアルに描いていると思いました。
里中さんの優しいタッチゆえに、ブッダ自身の表情も神々しい。
ブッダに関しては手塚治虫先生の「ブッダ」もありますが、全12巻あるので読むにはそれなりに時間がかかります。

→2年以上前に感想を書いてました。「『ブッダ』手塚治虫」(2009-02-03)
この里中満智子さんの「ブッダをめぐる人びと」は、すぐ読めるにも関わらずブッダの深い精神性がスウッと伝わってきて、かなりの名著だと思いました。
何度も繰り返して読みたい本。隠れた名著です。
■
ブッダの言葉からは、「初心」に戻り素直にさせてくれる不思議な言葉の力を感じます。
→『ブッダの真理のことば、感興のことば』(2011-02-02)
「初心」と一言で言いますが、そこには無限に近い「初心」が含まれていると思います。
たとえば仕事をはじめた初心であったり、職業を選択した初心であったり、大学や学校に入学した初心であったり、習い事をはじめた初心であったり・・・・
自分が体験した経験には必ず「はじめての体験」の時があるはずで、誰にも最初の時があって、そのとき「こころ」は必ず何かを感じている。
自分の人生で初めての心の体験として「初心」が誰にもあります。
人間、誰もが通る初心は「赤ん坊」にまでさかのぼるかもしれません。
赤ん坊として生まれ生きていたときは、完全で純粋な存在だと思うのです。
善でも悪でもない存在。
「善い人」がいるわけでも「悪い人」がいるわけでもなく、善い行いをする「人間」がいて、悪い行いをする「人間」がいるだけ。
人間は元々悪も善もどちらも含んでいるニュートラルな存在だと思います。
だからそこでだれしもが人生の選択をしている。
善い行いをして生きていくか、悪い行いをして生きていくのか。
純粋無垢な存在として生まれ落ちてきても、この世界はとかくいろんな矛盾に満ちています。
その矛盾の葛藤の中で、バランスをとるように人間は成長していきます。
善い行いをする人もいれば、悪い行いをす人もいる。
真実を語る人をいれば、嘘を語る人もいる。
他者のことを思いやる利他的な人もいれば、自分のことしか考えない利己的な人もいる。・・・・・
そんな矛盾に満ちた相反する出来事に適応していく過程で、ひとりの人間が形作られていくわけです。
その無限のプロセスの中で「ああこんな人は嫌だ、こんな人間にはなりたくない」とか、「こんな経験は二度としたくない」など、いろんなことを感じながら適応して生きていきます。
そのとき感じた「はじめてのこころ」が誰にも必ずある。
思い出せなくても、記憶は必ず残っています。
その記憶は、自分の性格や人格がどのように形作られたかを考える上で、「自分」を知る上で極めて大事な倉庫だと思うのです。
ブッダの言葉は、そうしたいろんな「初心」を思い起こさせてくれます。
それはつねに力強く、そしてつねに優しく慈悲深く響く言葉です。
「仏教」と言うと宗教を意味して敬遠してしまいがちですが、宗教という体裁を取る前は、単にひとりのブッダという人間がいたにすぎません。
そのひとりの人間ブッダの生き様や言葉から、僕らは単純に素直に、直接学べることを学びとればいいと思うのです。
自分はそういうスタンスを保ちつつ、偉大な人の魂から学べる限り学び取りたいと考えています。
それは知識として蓄えて自己満足するものではなくて、行動や行為として現実に実践して育んでいく、先人が残した豊かな智慧なのだと思います。
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●里中満智子「ブッダをめぐる人びと」より
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≪幼くしてブッダの心を見た:ヴィサーカー≫
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『あなたは、たまたま現世では大富豪です。
でも前世は?そして来世は?
すべての人にとって現世はいまこの瞬間のひとときです。
みな、大いなる力によって生かされているのです。
動物も植物も
大富豪でも貧しくても
健康でも病人でも
男でも女でも
人でも花でも
キツネでもゾウでも
皆、たまたまそう生まれて生かされているのです。
だれが偉いのでもなく誰が劣るのでもありません。
皆生きています。
他の生命-食べ物によって生かされています。
食べることはありがたいことです。
一粒の麦、ひとつまみの豆
皆大いなる生命の施しです。
自分が飢えていても、
何も考えず当たり前のように他の人に食べ物を渡して食べていただく。
感謝も見返りも求めず、ただ自然に与える。
それが真の功徳です。
何も持たない貧しい人でも、微笑みをひとに与えることができます。
それも功徳です。』
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≪夫と子をなくして狂乱した:パターチャーラー≫
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『そうだったのか。それはつらかっただろうね。
だが生きている者は必ず死ぬのだよ。
生命との別れの苦しみは生きている間中つきまとうのだ。
哀しいのはあなただけではない。
昔から今まで、子を失くした母が流した涙は海の水よりも多いのだよ。
だが水でさえ無常なのだ。
地面にしみ込めば水の流れはなくなる。
生命もそうだ。
すべての生命は地面に染み込んだ水のように消えてなくなる。
人間も動物も水も皆平等なのだ。無常なのだよ。
悲しんでばかりいると、亡くなった人は「自分のために悲しませている」と苦しむだろう。
自分のために悲しむのはやめて、魂のために祈ってあげなさい。』
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≪アーナンダに恋した:プラクリティ≫
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『そなたの言っていることはうわべだけではないか?
アーナンダのうわべがもしも消えたら、何が見えるかな?
骨、内臓、そして内臓につまった大小便でも見えるだろう。
それでも美しいと思えるかな?
だが、様々の汚いものも含めて「その人の存在」なのだよ。』
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≪死んで欲望のむなしさを教えた:シリマー≫
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『ブッダはいつもこうおっしゃっています。
「人は怒らないことによって怒りに打ちかつ」、と。
だからわたしは怒りません。
「善行によって悪に打ち勝ち、
布施をすることでものを惜しむ気持ちに打ち勝ち
真実の言葉を知ることで、偽りの言葉に打ち勝つ」、と。』
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≪苦行に心を惑わされた:ソーナ・コーリヴィーサ≫
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『ソーナよ、ここに琴がある。
力いっぱいぎりぎりまで弦を張ればどんな音が出る?』
「弦を張りすぎると固くてきつい音になります。」
『では弦をゆるくすると?』
「ゆるめすぎると気の抜けた音しかでません」
『ソーナよ、おまえはまるで
力いっぱい張りすぎた弦のようなものだ。
がむしゃらになりすぎて、無理をすることが目的になってしまっている.
体を痛める修行はあせりの心しか生まない。
ほどよい弦の張り具合がよい音を生むのだよ。』
----------------------------
≪二つの家の子として育った:バークラ≫
----------------------------
『修行を積んでもすべての欲から解き放たれるのは難しいものだ。
まったく無欲で生き抜くなんて無理ではないかと、ふと迷うときがあるものだ。
だがバークラは全身で「完全な無欲」を見せてくれている。
そこにいるだけで「無欲の清々しさ」を教えてくれる。
言葉で伝える説法とは別に、態度で示す説法もあるんだよ。』
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≪殺されることも臆せず布教した:プンナ≫
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『師ブッダはいつもこうおっしゃっています。
「いつどこでどのように死のうと、それが天のみこころなのだ。
人は宇宙の中で小さな存在にすぎない。
人も動物も植物もみな 大きな天の下で生かされているのだ。
だからどんな運命も感謝して受けれ入れる
それが人としてのあり方だ」と。』
生まれてきたことも死んでゆくことも生命のさだめです。
死は平等にだれにでも訪れます。
だれもが行く道ですから、こわがることはありません。
慣れないことだから少し臆病になっているだけです。
この世で正しく美しい行いをしていれば、天は見てくれています。
そして来世で幸せを与えてくださいます。
そう信じて生きてみてください。
すべての出来事がよい行いをするチャンスに思えてくるはずです。』
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≪ブッダのやさしさにふれた火の行者:ウルヴェーラ・カッサパ≫
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『あなたがわたしの弟子になるのは受け入れよう。
だがあなたの弟子にはそれぞれの意志がある。
あなたが命令して従わせるのはいかがなものか。
この世の生命は皆平等だ。
弟子も師も同じ生命だ。
王族も下層のひとびとも皆同じ一人の人間だ。
わたしの弟子になるのなら、一人一人の意志によってともに道を歩んでもらいたい。』
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≪ブッダの死の悲しみにとらわれた:アーナンダ≫
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『そのころもうわたしはこの世にいないが、真理を求める心を見つめれば道は見える。
自分自身を光として歩め。
わたしにすがってはならない。
わたしは特別な存在ではない。
神のようにあがめてはいけない。
わたしは生命あるひとりの人間にすぎない。
生命ある身だからこそ 生命の意味を考えたのだ。
死ぬ身だからこそ、死を受け入れる大切さを知ったのだ。
アーナンダよ、悲しんではいけない。その悲しみは執着だ。
大げさな葬儀は行うな。
そんなことより善行に励みなさい。』
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≪父に殺されかけて暗い影をもった:アジャータサットゥ≫
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『あなたが「見た、聞いた」と思い込んでいるものは
あなたが「そう見ようとしている、そう聞こうとしている」から、そのように見えたり聞こえたりするのです。
すべての欲から解き放たれたら真実の姿が見えます。
欲は人の目をくもらせ、人の心を迷わせます。
「こうであればいいのに」とか
「こうであるはずだ」という欲や思い込みを捨てて
自由な心を得なさい。』
==================
巻末
菅沼晃さん(仏教学者)と里中満智子さんの対談より
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菅沼晃
『相手を救うのではない。どんな人との関わりにおいても、言葉を投げかけたりふれあうなどして、相手に気付かせる。
その結果、救われていく。これが「仏教は自覚の宗教」といわれる所以ですね。
・・・・
「この人は自ら気付くことのできる人だ」と信頼する姿勢は、相手を教授する立場にある人、たとえば親や教師には欠かせない姿勢だと思います。
また、何か問題を抱えて悩み苦しんでいる人と触れ合う際にもこの姿勢は大切ですね。
つい教えたくなったり、こちらの考えを押し付けたくなったりしてしまうものです。
でも、それは自覚につながらない。
ブッダは、相手が「なるほどそうか」と気付くヒントを与えているだけなのです。
あとは本人が自分から立ち直っていくわけですから。』
里中満智子
『ブッダの生き方はつまり「人はどこまで相手の思いになれるのか、やさしくなれるのか」の探求であったとも思います。』
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ブッダの「この世の生命は皆平等だ」というメッセージは、当たり前のように響くかもしれませんが、カースト制度があるインドでは革命的で恐るべき主張だったと思います。
こうした当たり前のように響くコトバを、ほんとうの意味で実践することは難しいものです。
ただ、そういう「生命」や「いのち」に立ち返りながら物事を考えていくブッダの姿勢には、生命科学や医療をやっている自分としても「初心」に帰らせてくれて、学ぶべき点が多いと感じます。だからこそ、ブッダから学びたいな、と素直に思います。
迷い込み、
読ませて頂きました。
なんだか心地よいリズムで、
気持ちが明るくなりました。
触れて、
想って、
止まってみたりもして、
また遊んで…。
今日もよい一日だといいですね~。
はじめまして。
日本語の中には仏教用語がたくさんありますし。普段から勉強しないといけないなぁとはよく思います。
ダメになるのを<お釈迦になる>とか、死亡すると善人でも悪人でも<ホトケサマ>と呼ぶとか。生から死をまたぐと、一気にホトケになってしまう。そんな日本の考え方が好きです。
自分もあまり仏教に詳しいわけではないので、少しずつ勉強しているところです。よろしくお願いします。
個人的には、仏教とか宗派とか、そういう大きいくくりよりも、ブッダとか、龍樹とか、空海とか、道元とか、親鸞とか、・・ひとりの人間に、個人に興味があります。そういう勉強の仕方をしています。突き詰めると、やはりその人自身がどう考えていたかということを知りたくなる性分です。
>今日もよい一日だといいですね~。
ほんとうにそうですね。自分もよく思います。
これは、禅語の「日々是好日(にちにちこれこうじつ)」のことですよね。
晴れの日も雨の日も嵐の日もあるけれど、晴れの日は晴れを楽しみ、雨の日は雨を楽しみ、嵐の日は嵐を楽しむ。
楽しむべきものを楽しみ、楽しみ無ければ、その楽しみ無きことを楽しむ。
どんな逆境でも辛い状況であっても、「日々是好日(にちにちこれこうじつ)」という呪文さえ唱えれば、どんな些細な中からも楽しさを見い出して生きていける気がします。
アンネの日記を読んだときもそういう思いがしました。
Life is beatifulという映画もそうです。
統一性のないブログではありますが、今後ともよろしくお願いします。
私も詳しくはないですが、
老子が好きで、
想うことあれば開いてみたりしています。
ゆったり、
豊かに、
にこやかに、
生きていきたいですね。
「Life is beautiful」
久々に見てみようと思います。
老子、いいですよね。
老子も好きですし。荘子も好きです。
2日前、ぶらりとよった古本屋にて、
100円で森三樹三郎(訳)の「荘子 内篇」中公文庫(1974/3)
を買ってしまいました。
100円で缶コーヒーを買うくらいなら、
それを我慢して公園で水でも飲んで、
そのういたお金で荘子を買うことを選んでしまいます。
お金の使い方は、その人の人生の優先順位を表しているような気がしてなりません。
映画の「Life is beautiful」、すごくいいですよね。
自分も久々見て感動して、ブログに書いてたりします。
2010-04-11なのでもう1年半前です.
すごくいい映画です。お薦めです!
映画「Life is beautiful」
2010-04-11
http://blog.goo.ne.jp/usmle1789/e/8456a9602c4705111ad280d3ce2f4819
読んでいましたが
里中満智子のこの本を読んでいませんでした。
すぐに読んでみますね。
ありがとうございました。
私も
いなさんと同様、キリストやブッダに関するものに
興味があります。
今は仏僧の仏教講座や、
瞑想トレーニングなどの学びもしています。
情報があふれるこの世界にいると
精神世界、内面に触れるときが心安らぎます。