日常

創造の本質

2016-11-06 08:59:42 | 考え
友人主催の場で、「Creativeの本質とは何か」というお題をいただき、話す場を与えていただきました。
実際にCreationを仕事とされている方はたくさんおられますが、そういう方々の心に届くように。
でも、それでいて、どんな人の中にも創造者、芸術者としての種はあるはずだと思うので、どんな人の心にも届くように・・・。

ここ数ヶ月は、自分の中にある深い場所を観察していました。
仕事が多忙だったので、意識が外向きになる傾向にありました。外と内のバランスをとる意味でもちょうどいい時間だったのです。
<何かが生まれる>という時に、自分の中で何が起きているのか、その全体像を味わっていたのです。

人前で話す時も、録音機械のように同じ話をしたくありません。
なぜなら、そこには自分自身の成長がないからです。
日々、未知なる自分と出会いながら1日1日を噛み締めて生きていきたいと切実に思い続けています。自分が話す場も、そうしたプロセスの一環として位置づけています。
だからこそ、そういう未知なる自分と出会う場であれば、忙しい合間をやりくりして、人前に出ていくようにしています。



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人は、寝て起きて、、、の繰り返しをしながら一生を生きていかないといけない存在です。
それは、<眠り>により全体性を回復しながら生きていかないと、いのち全体性の調和が損なわれてしまうからだと思います。
静寂・静けさ・静止・沈黙・止まる・休む、、、というのは全体性を成立させる重要なピースなのです。


芸術は、そうした全体性を取り戻すプロセスとしていのちの深い要請から生まれてきたものだと思います。
赤ん坊や子供という全体性であったり、いのちやからだやこころという全体性を取り戻すプロセスとして。


生きている中で矛盾や葛藤を日々経験しますが、それも、実は大きな視点から見ると全体性の一部として顕在化しています。
自然界や体や心には、そうした<部分と全体>のテーマが常に入れ子状に潜んでいます。

だからこそ、相対立する矛盾や葛藤(表面的に見える場合と、奥深すぎて見えにくい場合があります)を安易に解決した気にならず、矛盾や葛藤を抱きかかえながら生きていくことこそが、矛盾を「自分」という全体性の器の中に位置づけていくために大事なことだと思います。それは、一見すると苦労を伴い、心的エネルギーを大量に使う大変なプロセスでもあります。

ただ、それがCreation(創造)として花開きながら解決していく時、自分の全体性は回復され、自分を癒す力すら生まれてきます。
課題の大きさに従って、他者を癒やすものであったり、時代を癒やすものであったりもするのだと思いま
す。

創造のプロセスすべてが、「質」として顕在化します。
その意味で、芸術と医療というものが自分の中でつながっています。
そのことも、二つの異なる世界が矛盾なく同居する創造の一環とも言えるでしょう。


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村上春樹
「ぼく個人のことをいいますと、ぼくという人間は、自分ではある程度病んでいると思う。
病んでいるというよりは、むしろ欠落部分を抱えていると思います・・・
ぼくの場合は、三十を過ぎてものを書きはじめて、それがその欠落を埋めるためにひとつの仕事になっていると思うのです」
『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』
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ヴィクトル・シクロフスキー(1893-1984:ソ連の言語学者、作家)
「生活の感覚を取り戻し、ものを感じるために、石を石らしくするために、芸術と呼ばれるものが存在しているのである。芸術の目的は認知すなわち、それと認め知ることとしてではなく、明視することとしてものを感じさせることである。
また、芸術の手法は、ものを自動化の状態から引き戻す異化の手法であり、知覚をむずかしくし、長引かせる難渋な形式の手法である。」
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大江健三郎
「異化を行うためには、自分自身の精神と情動(ほとんど肉体の、といっていいほどの情動)の深い経験をすることが必要である。」
「人間的な諸要素を可能なかぎり全体化することを志向しつつ活性化していく」
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シクロフスキー
「芸術は、ものが作られる過程を体験する方法である。」
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自分は「民藝」という精神のムーブメントに深く共感しています。
それは、日常の暮らしの中に美を見出して生きていくこと。

民藝が伝えていることは、人はだれでも美の生産者である。ということです。

美や芸術を消費して生きるのではなく、それぞれが美の生産者として生きていくこと。
暮らしの中に美を見出して、日常に美を取り入れていく生き方としての民藝のSpiritに、自分は共感しています。
資本主義の欠点は、すべてを消費していき、人を消費者だけの存在にしていき、生産者への敬意を失ったことに由来するでしょう。だからこそ、人類全体が乗り越えていくべき課題は大きいのです。解決の鍵も、芸術の中に隠れていると思います。



京都の旅 河井寬次郎記念館(2016-10-05)
民藝運動 河井寬次郎さん(2016-10-10)


Creation(創造)は、全体性を回復するプロセスですから、自分のいいところ悪いところも、人間性全体・人格全体を含めた表現です。
光だけでも闇だけでも不十分です。
その両方を含みながら全体性の中に体現されているのが必要なのだと思います。

シェークスピアの「きれいはきたない、きたないはきれい」『マクベス』という台詞は、矛盾を大切に抱えながら生きていくことを忘れないために生まれてきた言葉でしょう。

芸術においてまず大事なことは自分自身の全体性を取り戻すものであるということ。
それは人類70兆の人がいて、多くの人に不要なものであっても、その人自身にとって大切であれば、それでいいのです。自分自身の全体性が大前提としてあり、その上で、課題が広く深ければ、他者や時代をも癒やす力になるのでしょう。個を深めれば、普遍にも通じていくのです。


生きる人生そのものが「わたし」の統合化、全体性のプロセスです。そこには生も死も光も闇もすべてが包含されています。
気づこうとも気づくまいとも、「ひとりの人間」という小宇宙の人格の中で、全体として物理的に存在して生きているのです。


このブログの中で紹介している様々な人たちも、病も生も死もすべてを包含させて芸術のような創造物として人生を必死で切実に生きている人たちで、そうした深い思いと生き様にこそ自分は共有しているのだ、ということにも気づきました。


「アール・ブリュット・ジャポネ展」(2011-04-24)
川崎市岡本太郎美術館「岡本太郎とアール・ブリュット-生の芸術の地平へ」(2014-07-19)
荒井裕樹「生きていく絵 -アートが人を〈癒す〉とき」(2013-11-12)

坂口恭平くん(2016-10-16)
「坂口恭平 躁鬱日記」(2013-12-13)

「闇の考古学 画家エドガー・エンデを語る」(2012-11-21)

岩崎航さん(2016-04-26)
齋藤陽道展「なにものか」(2015-11-10)
岩崎航(著),齋藤陽道(写真)「点滴ポール 生き抜くという旗印」(2014-03-02)

東田直樹さん(2016-04-15)
東田直樹『ありがとうは僕の耳にこだまする』(2016-05-15)

金澤翔子 書画展(2015-12-21)

居川晶子さん御家族(2015-11-03)
いかわあきこ 個展 東京(2016-08-21)
八ヶ岳 藝遊(2016-07-08)


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自分は芸術と医療のプロセスを、<創造(Creation)>という言葉をKeyとして同じ地平で捉えているようだ、ということに資料を作りながら気づきました。

生きることは、日々自分を創造して生きていくことだからです。

素晴らしい発表の機会を与えてくださった橘さんに感謝。
シアターグリーンの管理人であり、お寺のご住職でもある僧侶の朝比奈文遂さんにも素晴らしい場を与えて頂いた、感謝です。お寺と芸術とが統合されているって、まさに未来の医療ですね。