日常

荒井裕樹「生きていく絵 -アートが人を〈癒す〉とき」

2013-11-12 19:12:42 | 
学位論文を無事に提出。11.11.が締切だった。力を出し切った。
倒れるように泥のように寝た。ふと起きた。そして本を読んだ。



荒井裕樹さんの「生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき」を読みました。
いい本でした。1980年生まれの新鋭!

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<内容紹介>
堀江敏幸氏(作家)
「人が人として〈生〉を実践していくうえで必要なことがらを示唆する存在の痛点。そこに触れる勇気が、紹介された人々と共有されているからこそ、全篇に、よい意味でのためらいをともなった明るさの兆しが見えるのではないだろうか」

柴田元幸氏(アメリカ文学者)
「痛み、苦しみを前にしてアートに何ができるか。この問いを粘りづよく考える上 で、芸術の力を過信せず、過度に期待もせず、けれど絶望もせず、シニカルにも ならず、ためらいがちの楽天を失わない、「期待」ではなく「希待」の姿勢に貫 かれた本」


絵を描くことで生きのびる。
描かれた絵に生かされている。
東京・八王子市の丘に立つ精神科病院、平川病院にひらかれた〈造形教室〉。
ここでは心の病を抱えた人たちがアートを通じた自己表現によって、自らを癒やし、自らを支えるという活動をしています。

とはいえ、これは「芸術療法」や「アートセラピー」のように、表現された絵を医療的に解釈したり、診断に活用するといった活動ではありません。
つまり、「治す」ことは目的ではないのです。

本書では〈造形教室〉の取り組みと、4人の作家の作品と人生から、表現と人間の関係について考えます。
また、いわゆる「アウトサイダー・アート」や「エイブル・アート」の文脈での作品評価は、この本では行っていません。

「一人の人間が、病みつかれた心を一枚の紙のうえに描くことに、果たしてどのような意味や可能性があるのか」を探り、きちんとした言葉で説明すること。著者・荒井裕樹さんが目指したのは、もっとシンプルでもっと根源的なことでした。


作品そのものと、作者の人生にひたすら向き合うことで見えてくる〈生〉のありかた。それは、おそらく誰にとっても無縁ではない〈生きにくさ〉を照らしだし、そのなかでの〈癒し〉の可能性を示すものになっているはずです。
代表的な8作品をカラーで紹介。

<著者略歴>
荒井裕樹
1980年、東京都生まれ。
2009年、東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。
日本学術振興会特別研究員、明治学院大学社会学部付属研究所研究員を経て、東京大学大学院人文社会系研究科付属次世代人文学開発センター特任研究員。
専門は障害者文化論・日本近現代文学。
障害を持つ人たちの文学活動や社会運動の研究、および医療施設における自己表現活動の支援に取り組んでいる。

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自分も、<芸術>と<人間(もしくは心、もしくは魂)>との関係性に興味がある。


なぜ人が芸術を必要とするのか、必要としない人がいるのか、なぜ生まれたのか、という問いは、人間の心の深層や現実(Reality)をどう捉えるか、という問題と深くかかわっていると思う。



この本で紹介されるような「芸術療法」や「アートセラピー」のように、「治す」ことが目的ではない。
そもそも、「治す」「治る」という現象自体が非常にあいまいな概念でもある。
それは、「正常」や「異常」、「健康」や「病」というのも非常に曖昧で際どい関係性にあるのと似ている。
人、状況、関係性、時代、主観・・・・の中で、その辺りの概念はクルクルと回転するものだ。



ただ、ある種の絶望やある種の苦しみを通過した人だけになされる芸術の一つのフォルムがある。
そのフォルムが、否応なしに心や魂に衝撃波のように突き刺さってくることもある。
自分が美をつかむというより、美にじぶんがつかまれるというような類のもの。


アール・ブリュットや、アウトサイダーアートと言われるのもその一つだろう。

→●アール・ブリュット(2008-06-06)
→●「アール・ブリュット・ジャポネ展」(2011-04-24)


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「アール・ブリュット・ジャポネ展」の図録より

『アール・ブリュット、それは「生(き)の芸術」と訳される。
世紀の芸術教育を受けず、発表や評価を望まない、純粋な表現。しかし、純粋であれば十分なのではない。

私や、あなた、そして誰かの感性に強く深く突き刺さる作品だけがこう呼ばれる。
私はここで芸術を語らない。あなたが見てくだされば分かることだから。』
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<アール・ブリュット・アウトサイダーアート関連>

子供の曼荼羅?? 魅惑的すぎるアウトサイダーアート
過剰な想像力が生み出す「生の芸術」アウトサイダー・アートの作家まとめ
心霊に導かれた元炭鉱夫画家 - オーギュスタン・ルサージュ

<動画>
Souzou - Outsider Art From Japan
アウトサイダーアートの世界 ハンディに秘めたパワー
アウトサイダーアート「路線バスを描く」
ヘンリー・ダーガー
The Outsider Art Fair 2012
The Outsider Art Fair 2013






浦河べてるの家のソーシャルワーカーである向谷地生良さんの本に「安心して絶望できる人生」(生活人新書)(2006/11)と言う本がある。
この本のタイトルのように、「絶望」や「病」とレッテルを張られようとも、そのまま受け止めて受け入れてくれる社会システムや人々がいれば、それでいいのではないかと思う。
人間が概念や言語を発明したのであり、概念や言語が人間を創造したわけではない。



精神の病を発症した人々は、ある種の安全装置が起動したのだと思う。
社会全体が病んでくる時、そういう感受性が高い人たちが「精神の病」として発症して、何か社会に歪みがあるのを教えてくれているのだとも思える。
病んだ人も病まなかった人も、何に反応して起こった現象なのかを冷静に考えてみると学びがある。



例えば、「認知症」という病気。記憶障害が主な症状だが、それはこの世であまりにも記憶したくないことも記憶すべきとされる量も絶望するくらい多すぎる。ということも示唆している。
「記憶」できないほどの情報量がこんなに溢れた時代は、人類にとってはじめての経験だろう。
正常にしている人の方がよっぽど病んでいる、という逆説すらも成立する。

昔は、自然の移り変わりにさえ自分の身体を調和させていけばよかったし、今のように物や情報量は多くない。
それは、お年寄りの人々と話していると思う。
電化製品にあふれていると、何をどう扱うのか、情報量があまりに多すぎて混乱するだろう。


学生の時にバングラディッシュに行った。
そこで知り合った現地の人の家に招待されたが、家は土を掘りぬいたところに茅葺屋根をかけていて、家の中には鍋、かまど、食器棚と食器数個、洋服数個だけがあり、その8畳くらいのスペースに10人家族で住んでいた。モノが増えて現象が複雑化すると、情報量は飛躍的に増える。



しかも、「認知症」を周りが病気だと言えば病気になるし、「物忘れあるよね」で終われば、それはそれで終わりなのだ。
本人がどうあるか、ということも大事かもしれないが、まわりがどう思いどう捉えるか、という問題でもあるのだ。


そして、人間は「症状」を通して、何かを「表現」していると思う。生きることそのものが「表現」だ。
そのシンボリックな暗号を読み解くのは、表現者そのものでもあるし、受け手や周りすべてでもあるのだ、と思う。そうして社会は作られる。


だからこそ、「芸術」や「アート」という表現スタイルと、人間との関係に注目したい。


人間は、自分の中にモヤモヤしたものがあると気持ち悪い。不定形なものには形を与えたいという本能があるらしい。
形を与えるために、「不安」という概念と結びつきやすいものだ。本当は「不安」そのものにも実態はない。


誰かからの「いい」や「悪い」とかの判断(ジャッジ)を気にせず、たとえ技術的に下手であろうとも、何かを表現すること。
形を与えて現象化させることが大事なのだと思う。そうすれば中のものが外に出てかなり楽になる。外は宇宙の果てまでつながっているし、あとは大自然がなんとかしてくれる。


時に、人によっては喜怒哀楽の感情として表現する人もいるだろう。泣いたり叫んだりする人もいるかもしれない。
そういう原始的な反応を、別の回路を通すことで別の表現へと変換していく。それは芸術のプロセスなのだと思う。

だから、とにかくなんでもいいのだ。大事なのは自分に正直であリ続けることだ。自分に素直になること。そこにこそ自分が信頼すべき頼みの綱となる。



自分に素直に正直にあり続ける。そこで感じる違和感やどうしようもない感覚をアートとして変換させて行けばいい。
そうすると、非常に個人的な体験は、魔法のように普遍化されるコトバとなりうる。
自分を救うばかりか人をも救うことさえもあり得る。
そういう白魔術のような要素が、芸術にはある。
もっといろんな分野の間において、連結剤、接着剤のようなものとして模索され追及されていいと思う。




この本で紹介されていた映画:「破片のきらめき」というものも、なんとか見たい。


映画:「破片のきらめき」のHP
Youtube動画 予告編



(本文から気に入った部分を)
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・「治す」ことが目的ではない。
・「治す」と「癒す」の違い。
・心の病を「治す」というと、自分の存在の根幹に取り去るべき「悪い部分」があるというイメージ。自己否定。
・人間関係自体の病みや歪み、境遇や環境を治すことはできない。
・「癒す」は、つらい状況でも生きてきたことを肯定的に受け止めようと言う「自己肯定」から始まる。
・制度としての医療と、出来事としての「癒し」


・「絵」が「人」を描き変えていく。
・苦しみは簡単には描けない。
・丘の上病院の延島先生:心と身体と社会性の三次元に渡る同時並行的な治療。このような治療法を多次元療法(multidimensional therapy)と言う。



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強迫性障害の元木さんの詩。
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或る決意 重大な


或る日 心を病んでいるといわれる僕は
本当の自分に向き合っているか疑った

僕は何者なんだ? キャンパスに傷を描け!
そういう自分が頭をもたげた

海の上に浮かぶ貝殻に 斜めに傷を入れた
何故か ほっとした


僕は思う 病んでいるといわれているうちに
描くのは
実は千載一遇のチャンスなのだ
芸術とは治ってはいけない病気なのだ
そう・・・自分で自分を解放してやるのだ


どこまでも、際限なく・・・何処までも・・・これからも開拓していくのだ
何故僕は生まれてきた?なぜ僕は生きる?
僕は何者? 僕は何処へいく?・・・・ さあ?・・・・



命の契り 証として 作品と共に在る
かけがえのないもの
これからも欠かしてはいけないもの 僕と共にここに存在してくれるか?

病んでいるといわれるうちに
命の禊 命の礎として・・・作品は共に在る

かけがえのないもの これからも欠かしてはいけないもの
僕と共にここに存在してくれているか?
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・「生きる」は言外に肯定的で上昇的な意味合いを含んでいる
・「在る」「存在する」は、正にも負にも揺れ動く「症状」に葛藤し、その痛みを耐え忍びながら生存し続けていく。


・「表現することは許されること」
・「許される」とは、心の底に深い闇を否定したり批判したりするのではなく、事実そのものを受け止めて認めてもらう事。


・人が体験した情動を感情という形で細分化して意味づけていくためには、その情動体験を受け止め、寄り添ってくれる他者との関係性がなくてはならない。(鏡としての他者)


・解釈よりも共感を。
・狂気の恐ろしい点は、狂気自体にあるのではなく、それへの共感や理解と言ったものまで狂気とされてしまうところにある。
・松井冬子さんの絵。「痛み」という感覚を、個別性から普遍性へ。


・記憶が痛む
・熊谷晋一郎先生 痛みの当事者研究
・リストカットは<知覚の痛み>で<記憶の痛み>を解除しようとしている。表面的な痛みではなく、心の深いところで感じる疼きのようなもの。
・記憶の堆積の中に生き埋めされている。


・アルコール、薬物依存
・身体が痛いという次元を超えて、私の存在自体が痛い
・記憶が痛いが飽和状態になると、存在が痛む。




上岡陽江さん:
自分が依存症になった経緯
「とにかく頭がグルグルしてどうにもならない。
世界が信じられない、気を抜くと心がバラバラになってしまいそうだった、こんな自分は一人だけだと思っていた。
不思議だけれど、自分をまとめておくにはお酒を飲むか、鎮痛剤や安定剤の乱用しかなかったから、依存症になった。」


・トラウマ:存在自体が痛みだす 地層自体が壊れる


・「表現」が「表現者」を超えていく


・ハンセン病の患者さん
「昔の患者はある意味ではみんな詩人だったんじゃないかな。
自分じゃ気がつかないだけで。
挫けそうな心を励まし、仲間をいたわる言葉をもっていたからね。」


・想像力と感受性を社会資源に

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感受性が高い人、共感能力が高い人ほど、この世界では病みやすい。

だから、そういう感受性を、人類の一部が持つ貴重な能力や才能と考えることが普通になれば、この世は誰もが生きやすくなると思う。
そのためには、人間の多面的な立体感覚を手触りで感じることから始まると思うし、芸術にはそれだけの可能性を秘めているとも思う。


改めてそんなことを考えさせてくれる本でした。

3 コメント

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論文完成おめでとう! (スイッチ)
2013-11-14 12:51:56
白魔術のような、の言葉が美しいですね。

最近、どうにかしようとしないことに
興味があり、
どうにかしようとしなくても、起こることは起きて、やらなきゃいけないことはその使命を覚えた人たちにかならずやられる運命にあるような気がしています。

アール・ブリュットの作家さんでは、電車の正面顔ばかり描く人の絵が好きです。(^-^)p 彼の絵を見ていると、子どもが3歳くらいの時に「ゴンゴー! ゴンゴー!」と言って全身で電車の走る姿を受け止めていたのを思い出すから。あの頃、彼にとって電車は巨大な走る神様だったのだと思います。
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お疲れ様でした(^-^)! (まーこ)
2013-11-14 13:19:20
論文ゴール、おめでとうございます!
サウナから出たような爽快感でしょうか?

>感受性が高い人、共感能力が高い人ほど、この世界では病みやすい。

>だから、そういう感受性を、人類の一部が持つ貴重な能力や才能と考えることが普通になれば、この世は誰もが生きやすくなると思う。


稲葉さんのような感覚を持つ方が、日本の医療のど真ん中に存在することに、大きな希望を感じます。感謝!

共感能力の高い人達は、実務能力が低い場合も多いので、現在の日本の経済社会の中での彼らの身の振り方について、いつも考えてしまう。
ヒンズー教徒ならサドゥという手もあるんだけどね~!と先日息子に話したら、彼が「将来行きたい国」は速攻ネパールになりました(笑)。

「破片のきらめき」観たいです。
アール・ブリュット、本当に素晴らしいですよね。特に私はゾンネンシュターンにぞっこん!

“もうすこし言葉少なに、もうすこし呼吸を多く、そうすれば人生半分方楽になる。“(ゾンネンシュターン)

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こころとからだ(心身一如)の声は大自然の声と同じ。 (いなば)
2013-11-16 08:46:43
>>スイッチさん
<どうにかしようとしないこと>。ほんとそうですね。
僕らは頭で心や体を制御しようとしがちで、たいていの後天的な病はそういうところから生まれてくるように思いますね。

<なんとかしよう>とか、管理・支配・制御・計算・予測・・・・しようとするのは頭の働きですが、そこから一度抜け出て自由になると、頭とのいい付き合い方ができるようになる気がしますね。
今回、自分も論文作成にあたり、強烈に頭の管理力を強めて、心や体の声(眠いとか、疲れたとか・・・)を抑えつけていたので、今は心や体の声に素直に従いつつ熟眠しております。寝たい時に数分でも寝て、自分の欲求に素直に応じるように。頭側からの償いのようなものですね。(^^;


やはり、使命とか運命っていうのも、頭はひとつの受信装置(アンテナ、チューニング)にしかすぎなくて、基本的には心で受け取るもののような気がしていますね。

おそらく、心の情報処理は頭よりけた違いにすごいので、頭はまったく心の世界を理解できず、だからこそ、その後ろめたさから、頭は心を下に見ているんだと思います。その辺も、頭が謙虚にならないといけない一つの理由ですね。



アール・ブリュットの作家さん、電車の正面顔ばかり描く人の絵。覚えてます。キチキチにぎゅうぎゅうに整列している絵ですよねー。
誰もがあったああいう全身全霊で素直な時期や心というのを、思いださせてくれますよね~。



>>>まーこさん
論文が同時期に重なった同士として、お互いお疲れ様ですー。まーこさんも英語化する作業あるでしょうし、自分も英語化して国際誌に応募する作業がまだまだ残っているのですが、とりあえずひと山超えた、って感じです。
心や体をそうとう抑圧した1ヶ月間だったので、今は自然の中に行ったりして、心や体(心身一如)と頭とのチューニングをやっています。


そうなんですよね。
共感能力の高い人達は、人間が人工的に生み出した実務的な仕事よりも、この大自然とか虫とかその他のあらゆる生物とも共感し共鳴しているので、実務的な仕事はできないですよね。あまりに人工的な人為的な仕事が溢れてるっていうことでもあると思います。

そもそも、「時間」という概念自体が極めて人工的で、ここ数百年の人工産物ですよね。
もともとは春夏秋冬くらいの大区分と、1日の中での朝、昼、夕方、夜くらいの小区分に分かれていたくらいで、今のように9時出社とか、そういう自然と分離した時間区分はなかったわけで。
自然との共感能力が強い人は、そういう風に人工的な時間を守る事は難しくても、きっと別の時間が流れている。そういうことを尊重しながら、互いが自分に正直に生きれるような社会を構築するのが大事ですよね。



自分も、大学生時代にインドに行った時、<サドゥ>の存在に衝撃を受けました。。。当時もえらい仲良くなったので、自分もサドゥとして遊行してうた前世があるのかな、と思ったほどですが。笑


ゾンネンシュターン、画像検索すると素晴らしいですねー。この世がいかに多様性に満ちているかを感じます。

グローバリズムという一元化の世界からは、日本をガラパゴス化と揶揄しますが、多様性を重視する自分としては、ガラパゴス化は褒め言葉だと思ってました。笑
だって、ガラパゴス諸島素晴らしいじゃないですか!!(^^
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