日常

「闇の考古学 画家エドガー・エンデを語る」

2012-11-21 01:05:10 | 
「闇の考古学 画家エドガー・エンデを語る」岩波書店 (1988/9/14) を読みました。

「モモ」を読んで大感動した勢いで(エンデ「モモ」(2012-11-18))、この本も続けて読了。


この本は、「モモ」を描いたミヒャエル・エンデが、父親である画家エドガー・エンデの神話的な絵画世界を語りながら、芸術や物語を深く語っている本です。
表紙はものものしいですが、とてもとても素晴らしい本でした。

Michael and Edgar Ende


ちなみに、エトガー・エンデの神秘的で神話的な絵画世界は
ここで見れます。
Edgar Ende


あの世に持って行かれそうな世界ですが、吸い寄せられる不思議な吸引力があります。
そして、自分はこういう絵画が一番好きなのです。

*上記サイトより気になったものを。



































「夢に出てきそう」という表現がありますが、まさしく「夢に出ている」イメージなのかと思います。
僕らが理性で物事を把握する習慣がついているために、目覚めたらこういうイメージを把握することができず、忘れてしまうだけなのかもしれませんね。
僕らは、「夢」と称してこういう異世界や異次元に毎日訪問していて、肉体が死んだ後に驚かないように少しずつ練習しているのかもしれません・・・。



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この「闇の考古学 画家エドガー・エンデを語る」岩波書店 (1988/9/14) から、気になった部分を紹介。
自分が考える芸術や美のイメージとまったく同じで、すごく感動。
だからあんなにモモに深く没入してしまったのか、と今更ながら思います。



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「死の島」などを描いたベックリンの孤独は気分的な孤独です。いわば、つかまえることのできる孤独です。
父の場合は、宇宙的な、したがって神話的な孤独になっています。
無限のからっぽの空間、そのこどこかでなにかが行われ、なにかが起きる。まったく別の孤独なのです。
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→エドガー・エンデの絵画世界は、非人間的で宇宙的なんですよね。
そこで出てくる人間は、「ヒト」という記号のようなもので。

「ヒト」の感情とか情念とかドロドロしたものよりも(それは一見興味を惹かれやすいのですが)、宇宙の無限の関連付けの中でヒトという存在がどういう位置づけにあるのか、という風に見える絵を描く。そして、自分もそういうことにとても興味がある。知性を持って生まれたヒトという存在の位置づけのようなもの。それは芸術ではないとなかなか表現でき得ない世界。

エドガー・エンデの絵からは、そういう無時間的な遥か過去の神話的な時代を予感させる不思議さがある。それは、理性での解釈を常に拒み続けています。



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父の頭に浮かんだもの、それは事象であり、絵(イメージ)だったわけですが、父はそれを自分で解釈しないように苦労していました。
いつも気にかかっていたこと、それはゲハイムニス(秘密・神秘・不可思議)ということでした。
不条理というのは神秘的ではない、と父は言っていました。
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わからないということには2種類あり、違うものなのです。不条理は知性のレベルでは理解できません。パラドックスです。
父の考えていたのは、むしろ神話的なもの、形而上学的なもので、それが理解できないのは神話的であり続けているからなのです。考えの前に来るからだ、と父は言っていました。それはどんな考えよりも根源的なのです。
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→人間の知性が解釈しようとする一歩前の場所。
知性や理性が合理的に解釈しようとするのを常によけるような世界。そこで知性や理性の喪失を僕らは疑似体験し、赤ん坊のような原始感覚に戻ることができるのでしょう。




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父が人間を描くとき、どちらかと言えば人間のしるしとして配置されているのです。
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父は何日もベッドに横になって壁の方を向いて、なにもしようとしないことがありました。自分を意識的に排除していたのです。
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重要だったのは呈示されている個々のものと言うよりは、事物の間にはしる緊張のほうなのです。
それは世界を透視させて、別の側へ通じるようなものです。
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→自分を意識的に排除する、という作業が面白いですね。瞑想であり三昧ですね。
宇宙意識とダイレクトにつながるような感覚なのでしょう。
横尾忠則さんの絵もそういう世界。




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父の意見では、芸術が感覚的な手段によって霊的世界を表現することは馬鹿げたことであり不可能であるという考えでした。
感覚的な知覚の世界がひとつの世界だとすれば、その背後にある霊的リアリティーはまったく別の世界なわけですから。
そして、もしも私がそれを感覚的に知覚可能なものに翻訳しようとすれば、完全に別なものをつくるしかありません。


そのとき、知覚可能なものは、知覚可能な外的世界ともはや無関係のものとして造型されなくてはならない。
そうしてはじめて、本当の意味で自立したものができあがるのです。
ほんとうに芸術が、この世にもあの世にも手本のない自立した創造物であること。
それが父にとってきわめて重要だったのです。
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→<自立した創造物>というのは深いですね。それは一種の生命体のようなものですね。




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トランス状態になって意識がなくなったとき、選択能力が消えた人間のことを霊媒と呼ぶのでしたら、父は違います。
オカルト的な意味での霊媒とは、意識の回路を切ることができて、他者がその口を借りて話す人間であると理解されます。そのとき、その人間は他者に引き渡されているわけです。

ところが、父は意識が「からっぽ」なのに覚めたままなので、通過するイメージを眺めては選択する事ができたのです。
そのとき、つかまえる必要のない無意味なイメージもたくさん通り過ぎました。
けれども、そういう中に「何か言ってるぞ」、「これは重要だ」と感じられるイメージがあったとき、父はスケッチをしたのです。
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父にとって「意識」は、概念による思考をシャットアウトした結果であったわけです。
それは意識の緊張をずいぶん要求するものです。ひとりでに生じたりはしない。
父はからっぽの状況をわざわざ意識して作り出したのです。
それは遠くの事物に近付くための、内的な態度、意志の緊張なのです。
父はそのプロセスの間、概念によらないそういう「意識」を保持していこうとしたわけです。
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→起きながら見る「夢」ですね。
まさしく村上春樹さんのインタビュー集を思い出します。
「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」文藝春秋 (2010/9/29)


狂気や虚無の世界に落とされないために、強靭な精神力と強靭な肉体力が要求される世界です。中途半端な人が中途半端なやり方で近付くと、大けがするような創作の根源にある隠された場所です。
モモでの時計の花のような場所。そこでは自他も時間も空間も宇宙も素粒子も、すべてが混然一体となった世界なのでしょう。




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ですから、父によって概念とは殺されたイメージだったわけです。
イメージというものは以前から存在しており、生きており、多義的なわけですが、まずそうイメージが死のプロセスの中に入り込み、最後に息の根を止められたときに、はじめて私たちは概念にたどりついたのです。
重要なのは、そういうプロセス全体の向こうに戻って、イデーがまだ生きている場所、イデーの生まれ故郷、まさにそういうところに帰ることだったわけです。
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すべてはシンボルである。この世のすべては。
「移ろいゆくものはすべて比喩に過ぎない」。
私たちは周りの世界を知覚しているわけですが、その世界を正しく読むなら、私たちが知覚するすべては、そもそもその背後にある霊的リアリティーの表現なわけです。
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村上春樹さんの「海辺のカフカ」でも、大島さんが言うセリフがありますよね。
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大島さん
「世界はメタファーだ、田村カフカくん」
「でもね、僕にとっても君にとっても、この図書館だけはなんのメタファーでもない。
この図書館はどこまで行っても --この図書館だ。
僕と君のあいだで、それだけははっきりしておきたい」
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目に見えないだけで、すべての背後には根源的なイデー世界が隠されていて、そこの生命がこの世に受胎すると、そのイデーの命が失われる交換条件として、僕らは生体の「イメージ」を「概念」という死体を通して認識する事ができる。

「イメージ」は動いていて、「概念」は止まっている。
動いたものを動いたままとらえ、動いたままキャンパスに描き付ける。イメージはキャンパスの中でもまだ動いている。動いているものを「概念」として理性でとらえてしまうと、それは切り取ったもので、関係性が切断され、動きは止まる。



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絵は見る人の中で、物語は読む人の中ではじめて完成する。
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読者は、その本を通って自分の一部を運んでくることができるはずです。
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父の絵を見る人が絵の中に入り込むには、父が準備した小さな障害物を克服しなくてはなりません。
ところが、障害を克服すると、絵の中に本当に入り込んで体験する力が生まれてくるのです。
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メールヘンをほんとうに追体験するなら、そのとき自分の中でなにかが動きだすのに気がつくでしょう。
ある特定のプロセスが動き始めたのです。イメージのプロセス。個人的なものをすべて遥かに超えたプロセスなのです。
そこでは語り手と読み手の経験が、個人の経験よりはずっと本質的で重要な「共同」によって、いわば追い越されるわけです。
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→読み手は受け手のままでは作品世界のままにいつまでも入ることは出来ない。永久に消費し続けるお客さんでしかない。
エドガー・エンデの絵画世界も、ミヒャエル・エンデの物語世界も、常にドアは開かれていて、僕らがそのドアを開けて舞台の出演者として参加してくるのを待っているのでしょう。
そこで、はじめて物語や世界は完成へ向かうし、その人の人生に組みこまれ巻き込まれていくことを求めているのでしょう。そこで、書き手と読み手の間で何かが交換されるのです。





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「神秘的」と「不条理」とは同じ意味ではありません。
私たちの中にある予感に刺激をあたえ、生命をあたえるもの、それが神秘的なのです。
そういう予感の能力から、突然創造的なプロセスがはたらきはじめるのです。
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(西洋文化や工業社会が進むと)人間の孤独がますます深まり、自殺率も恐ろしく高くなることでしょう。
これは社会的な問題です。たんに外的な組織形態というよりは、むしろ他者に対する内的な態度の問題なのです。

あらゆることが緊迫し、破局のふちに立たされた人間は、自分を変える以外に手が亡くなるでしょう。
私たちはマテリアリズム(物質主義)という難問に巧妙にからみとられているわけですが、それをともかく解決せざるを得ない。勇気を出して問題に本当に近付いていくしかないわけです。そのとき、芸術家たちも、決定的な大役を果たさなくてはならないでしょう。
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シェイクスピアの戯曲にはメッセージは存在しません。人生の断片が示される。おい茂るジャングルのように。そしてそれが美しいのです。
意図のない時、つまり最も高い意図、いいかえれば自由に遊ぶという意図と結ぶ付いている時にだけ、完全になるのです。
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→エドガー・エンデは、執拗に僕らの意識や理性を疑い続けます。
それはシェイクスピアも同じなのでしょう。

僕らの意識や理性は正解を導くこともありますが、大きな間違いをしでかしてしまうこともあり、その後者の方にあえて警鐘を鳴らしているのでしょう。
自分たちの理性がほんとうに正しい方向に向いているのか再確認するために、僕らは意図を忘れて絵画の中で遊ぶことを求められているようです。





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父の絵の中で期待として潜んでいるものは、外的な期待や外的な世界救済の期待という意味などではなくて、新しい意識を期待する事なのです。意識の突破が期待されているのです。
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意識の跳躍によって、ほんとうにふたたび未来の人間は、実在していると考えられる霊的世界とまったく直接に対話するようになるわけです。たとえば天使やデーモンは、メタファーとしてではなく、山や木の存在とまったく同じ意味において存在しているのです。
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帰還とは昔の意識に戻ることではありません。新しい意識によって、自然や世界や人間の運命の中にまったく別のつながりを再発見する事なのです。それは、霊的で心的な世界とのつながりのことです。
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→僕らは単に受け身の消費者として終わるのではなく、その芸術(アート)を共に創造する仲間として、僕らの意識が広がり、変わることを求めているのです。
僕らは、そうして新しく獲得した意識を携えて、この世界の困難や障害を乗り越えながら勇気を持って生きていかないといけません。



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もともと超感覚的な領域に属するものを表現しようとするとき、それをフィジカルに感覚的に表現しようとすれば、パラドックスとして表現するしかないことが実によくあります。
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芸術とは彼岸にもなければ此岸にもない。その中間にあるのです。それは人間が創造するものであり、人間が創造する世界なのです。まったく新しいものを表現して、現在の被造物の仲間になるのです。
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分離する事(Sondern)は罪(Sunde)なのです。
それは単に自分自身を切り離すだけではなく、ものごとを分離して考えること、全体の代わりにいつもディテールを見ることなのです。細かく分解されていくディテールの世界では生きていけないと私たちは感じています。
要するに生の価値が生じない。意味が生じないのです。
人間は意味と言うものを思い描かずには生きられないのではないでしょうか。
意味を思い描き、生の意味を発見できるのは全体を求める場合だけです。「ひとつであること」を求める場合だけなのです。
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芸術の体験はすべて。「証明など必要がなく、直接にわかること」、つまりエヴィデンツの体験なのです。それは世界のどんな哲学者にも説明できないものなのです。それ以上何かに還元する事はできません。
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→自分も、分離は悪、統合は善だと思いながら、世界の動向を見ています。
今の時代はなんでもかんでも分離して分けることに基礎をおいていて、それは科学でも全く同様なのですが、分離意識は僕らの意識も無限小に分割されていくだけなのではないかと思うことがあります。




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ヘルダーリンの詩で彼が望んでいたものは、多義性であり、夢見られた言語であり、予感しかできないものであり、秘密であったのでしょう。それに手を触れてはなりません。
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芸術とはまさに、私が知覚するものである。
感覚の直接的な知覚を通じて私に‐霊的・精神的な意味において‐語りかけるのである。芸術の通路は、まさに純粋な知性ではなく、感覚的な知覚なのです。
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「感覚(Sinne)」を通じて語りかけてくる「意味(Sinn)」、それが芸術なのです。それは認識とは反対の所作なのです。
エロス的原理は認識の原理ではない。受肉と現実化の原理なのです。肉体化するものなのです。
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→個人的な分離された意識で勝手に判断しないこと。
理性を介在させずに、この生々流転する自然をダイレクトに感じ続けること。





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必要なのは何かを呈示する事です。像や絵は何も説明すべきではなく、何かであるべきなのです。
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いいカメラというのは、眼と同じように、その存在を忘れさせるカメラのことです。
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父にとってイデーを細かく現実化することなどどうでもよく、イデーが存在し、イデーが姿を見せ始めた瞬間、もう父は満足して、仕事の本質的な部分は終わっていたのです。
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守護霊が物質のなかに入り込んで死ぬというのは、私には創造行為そのものを意味します。
物質世界の創造というものは、いわば守護霊たちが中に入り込んで死に、その死によってそもそもはじめて物質が生まれる、と言うことに他なりません。
お望みならこう言ってもいいでしょう。芸術の実現プロセス、現実化の行為は、そもそもすべてイデーが物質形態の中に入り込んで死ぬことなのだ、と。
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すごくいい本でした。思わず読み返しました。(でも、神保町の古本屋で300円で購入(!))

とても感化されました。
文学や芸術も、こうした視点で見直してみると、そこに隠された自分だけの秘密の宝物が色々見つかるのかもしれません。

だからこそ、自分は絵画や物語を愛する者のひとりです。

11 コメント

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はじめまして (shi)
2012-11-21 23:12:52
ブログいつも興味深く読ませて頂いてます
とても面白そうな本ですね
わたしも村上春樹やエンデの本が好きなので
読んでみたいなと想いました^^
返信する
コメント有難うございます (いなば)
2012-11-23 01:13:02
>>shi様
はじめまして。
こんなブログをお読みいただき本当にありがとうございます。
ある程度の表現の丁寧さを求めると、無駄に情報量が増え続け、読み手の方々のドライアイを誘発するのではないか、と常々心配していますので(全文読んでいる人は少ないかもしれませんが・・)、お読みいただいてる声をきかせてもらえると、とてもうれしく思います。

この本は、とてもいい本ですよ。
時々、まるで村上春樹さんの語り口のように聞こえるときがありました。
おそらく、物語の創作の深さというところでは、お二人は井戸の底でつながっているのだと思いました。

「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011」
「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」
が、数少ない村上春樹さんの文学論というか、物語論が語られていると思いますが、この本で受けた感動とかなり近い感動を受けました。

春樹さんとエンデでの大きな違いは、春樹さんは音楽を、エンデは絵画をイメージ言語やメタファー言語の源泉としているところでしょうか。

耳と目、という感じの違いですが、究極的には同じ領域を描いていると思いました。

そういえば、村上 春樹「若い読者のための短編小説案内」(文春文庫)という本もいたく感動した覚えがあります。(第三の新人と呼ばれた、吉行淳之介、小島信夫、安岡章太郎、庄野潤三、丸谷才一、長谷川四郎・・・の文学を語っています。世界最高の文学講義だと感じました)



村上春樹さんの本がお好きでしたら、間違いなく楽しめると思います。
本の中に随所に入り込んでくる父親エドガーエンデの絵も、見ているとクラクラしてきて素晴らしいです。


ブログには書きませんでしたが、「モモ」に出てくる亀カシオペイア。
闇の考古学の最後の辺りで、エンデが「カメ」はどういうイメージか語るとところがあり、すごく面白いです。是非ご一読してお楽しみください。


今後とも、このブログに遊びにお越しください。
コメント有難うございました!
返信する
こんばんは (shi)
2012-11-26 23:35:57
お返事ありがとうございます
いつも全文読ませて頂いてますよ^^

>>お二人は井戸の底でつながっている

この感覚、すごくわかります。

「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」は私も持ってます。ときどき読み返したくなる本です。

>>春樹さんとエンデでの大きな違いは、春樹さんは音楽を、エンデは絵画をイメージ言語やメタファー言語の源泉としているところでしょうか。

これすごく面白い見方ですね!^^確かにそんな気がします。

返信する
絵(眼)+音(耳) (いなば)
2012-11-27 01:37:15
>>shi様
こちらこそお返事ありがとうございます。
全文読んで頂いてるとは恐縮です。。。
松尾芭蕉のような天才だと、自分が言いたいことは5.7.5の17文字だけで表現できるのでしょうが、自分はいつも長くなります。。。

「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」、素晴らしい本ですよね。
村上春樹作品の入り口として、よく薦めます。
同時に河合隼雄先生の世界まで引き込むことができるわけですから。(^^


音楽は耳、絵画は眼。
立花隆さんが、読書に大事なのは、音楽的な読書と絵画的な読書と言っています。
音楽的な読書は、部分から全体をつむぐような読み方。
絵画的な読書は、絵の全体像をとらえ、その全体像の中で部分が、どういう関係性を持つかを把握するような読書。
これは結構面白い、と思っていて、後輩に指導する時によくこの喩え(絵(眼)+音(耳))を使います。
返信する
突然失礼致します。 (sayaka shiga)
2014-05-11 10:31:26
昨夜MOMOを再読し、色々余韻を楽しんでいた中でこちらのページにお邪魔出来ました。
エンデ親子には自分が絵描きである事もあり、感覚、思考etc 学ぶ事が多く、興味深い内容をとても丁寧に纏めて下さっていて感謝です。

もしよろしければ自身のBlog(http://blog.livedoor.jp/sayan27/)にこちらのページ
「闇の考古学 画家エドガー・エンデを語る」http://blog.goo.ne.jp/usmle1789/e/afd6e7c8234618314395e8dc88f4ed69
のURLをリンクさせて頂いてもよろしいでしょうか、

お返事頂けたら幸いです。

しがさやか
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有難うございます (いなば)
2014-05-12 14:50:00
>sayaka shiga様
コメント有難うございます。
素敵なブログですね。拝見しました。
この「闇の考古学 画家エドガー・エンデを語る」は、ミヒャエルエンデの深い芸術哲学が語られる素晴らしい本だと思います。村上春樹さんの文学への語り口にすごく似てるな、と勝手に思いました。

リンクはもちろん構いませんよ。(^^
よろしくお願いします。


『「モモ」を読む シュタイナーの世界観を地下水として』(2012-11-26)
http://blog.goo.ne.jp/usmle1789/e/c3b2e510a5673f9f596e756a77d01715

この本も、神保町で100円で購入しましたがすごく面白かったです。
いまワタリウム美術館でやっている「ルドルフ・シュタイナー展 天使の国」にも、エンデの名前が挙げられていました。
返信する
ありがとうございます! (sayaka shiga)
2014-05-15 08:55:37
いなば様
ありがとうございます∞

ワタリウム美術館の「ルドルフ・シュタイナー展 天使の国」
行こうと思っているところでした!!
『「モモ」を読む シュタイナーの世界観を地下水として』
一緒に読もうと思います。
ありがとうございます★

やっぱり神保町はすごい所ですね!
久しぶりにお散歩に行こうかな。

『「モモ」を読む シュタイナーの世界観を地下水として』(2012-11-26)
http://blog.goo.ne.jp/usmle1789/e/c3b2e510a5673f9f596e756a77d01715
こちらも興味深い内容でした。ありがとうございます。
一緒にリンクさせて下さい。

今日は満月ですね、
素敵な1日をお過ごし下さい。

しがさやか
返信する
Unknown (いなば)
2014-05-16 07:40:39
ぜひシュタイナー展も行ってみてください~!
シュタイナーも、エンデが言うような

『父の頭に浮かんだもの、それは事象であり、絵(イメージ)だったわけですが、父はそれを自分で解釈しないように苦労していました。
いつも気にかかっていたこと、それはゲハイムニス(秘密・神秘・不可思議)ということでした。』
『わからないということには2種類あり、違うものなのです。不条理は知性のレベルでは理解できません。パラドックスです。
父の考えていたのは、むしろ神話的なもの、形而上学的なもので、それが理解できないのは神話的であり続けているからなのです。考えの前に来るからだ、と父は言っていました。それはどんな考えよりも根源的なのです。』
という部分の意味がよくわかる気がしますー。シュタイナー自身が『ゲハイムニス(秘密・神秘・不可思議)』な人間ですしねぇ。

神保町はほんとすごいとこです。
自分の広大な書庫と思って、いつも庭のようにプラプラしてます。(^^

ブログも遊びに行かせてください。有難うございました。
返信する
重松宗育『モモも禅を語る (こころの本)』 (いなば)
2014-05-16 07:47:08
そういえば、臨済宗のお坊さんである重松宗育さんが書かれた「星の王子さま、禅を語る」ちくま文庫(2013/1/9)という本があり、この本の感想は以前書いたのですが、
http://blog.goo.ne.jp/usmle1789/e/47d85336f65ac736a2f0b93f39b0cdac

同じ著者で、
重松宗育『モモも禅を語る (こころの本)』
http://goo.gl/4mRFKl
というのもありますよ。こちらもちくま文庫とかで再版されないかなぁ。本質的なことになると、すべて同じ真理に到達するんですよねぇ。
返信する
ありがとうございます! (shigasayaka)
2014-06-07 12:05:16
シュタイナー展、行って来ました!
本を読んでいる様な時間でした◎
黒板の絵もそうですが、基本的に可愛さ・子供心に素直に生きた方だったのかなと。行く前の神秘的で冷静なイメージが柔らかくなり良かったです。
黒板の絵の画集を買って来たので、これから読もうと思っています。

+
お陰で「星の王子さま」読み直しました。
後書きを読んでいて思い浮かぶ先輩が居るのでプレゼント出来たらと思い立ち、もう一冊これから買いに行こうかと。♪

「星の王子さま、禅を語る」 アリスもあるんですねー◎
重松宗育さん、興味深いです。
ページも拝見しました。素敵でした。ありがとうございます。
今年の初めから「世界の矛盾、受け入れる愛」を軸に学び始めているので心に響きました。そして、ユーモア、大切ですよね!
今、読みたい本が渋滞中wなので、良い流れに乗って読めたらいいなと思います!
色々なメディアの学びがありますが、本との時間はゆっくりした特別な感じがしています。

そうですね、
先日目にしたムーミンのミーやスナフキンの台詞でも思いました。同じ真理に辿り着くんですね。
知れば知る程豊かになって行く道だと信じて
引き続き、出会って行ければと思っています。

感謝∞
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