
◆田口ランディ「パピヨン」(角川学芸出版)
発売翌日にはAmazon様が運んでくれたおかげで読んでいた。感動して感想を書こうと思ったのだけど、少し時間を経て自分の中で濾過作業を行ってから書こうと思って、時が来るのをなんとなく待ってた。
そして、よしもとばななさんの新作「彼女について」を読んで、猛烈に感じ入り、感動した。
この二つの作品は、2008年の11-12月と偶然同時期に出た。書いてることや方向性も全然違うけど、伝えようとしていることや読み手に託された課題は、表裏一体でほとんど同じなんじゃないかとも思った。
単に自分が同時期に読んだから?否、そうぢゃないと思う。
お二人の感受性や、それを言語に変換する技がトップクラスだからこそ、今の時代を覆う空気感や、失われつつあるが僕らの心に引っ掛かっているものを、すごい感度で感じ取り、偶然同時期に言語の形でこの世界に生み出したんだと思う。それが、同時代に生きているってことだと思う。
よしもとばななさんと田口ランディも、そして読み手のわしも、そしてこのブログを読んでいるアナタも、みんなが同じ時間を共有しているのは間違いないから。
◆よしもとばなな「彼女について」(文藝春秋)

この本の粗筋は作品の本質そのものだから書いちゃいかんと思うので、なかなか書くのが難しい(→読んでしまった人と口頭で語り合いたい!)。
読んだ後に表と裏表紙の絵を見ると、内容が簡潔に表現されているのが改めて気づく。一枚の絵に凝縮してる合田ノブヨさんは、かなりすごいと思う。
よしもとばななさんの作品には常に生と死がついてくる。そこが自分がとても惹かれる点だとも思う。若い女性に広く読まれているのが不思議なほど、書かれている内容を俯瞰して見直すと、かなりギリギリの世界観が描かれていると思う。
ネタばれしないようにうまく書くならば、テーマは『死んだ後の世界』『死者の魂の救済』『魂のようなものの存在』とでも言うべきか。それは、たったこの今も、現実世界で絶望の中に生きているかもしれない誰かへの救いにも見える。
肉体とか精神とかでは説明できないレベルの、深い深い意味での救い?
・・・・・・・・・・・・・・・・・
平安時代末期から鎌倉時代初期に法然という坊さんがいた。浄土宗の開祖。法然は絶望で乱世きわまる時代に彗星のように現れた。年貢を搾取され、飢饉が続き、生まれても悲惨な思いをして、まるで虫けらのように死んで行くしかない絶望の時代があったのだろう。なんで生まれてきたんだろうと、多くの人間が思ってしまう絶望の時代が、過去に日本も存在したのだろう。
そこで法然という坊さんは言った「南無阿弥陀仏とただ唱えなさい。それだけであなたは救われる」と。
その絶望的な悲惨な現実の時代に、彼の哲学や思想は「生きながら救われる」ための、ギリギリの天才的な発想の転換だったのだと思う。
このあたりは、『田口ランディ「聖なる母と透明な僕」』(2009-01-04)の中の『阿弥陀グッドジョブ』という文章にも書かれているし、風の旅人33号『刻と哀』でも読めるのでその文章を参照。
◆ジョージ秋山「アシュラ」(幻冬舎)

絶望の時代とは凄まじいものだろう。これを漫画表現のギリギリで表現しているのが、ジョージ秋山の「アシュラ」(幻冬舎)という漫画。この漫画も凄まじい。
1970年に週刊少年マガジンで連載してたのが信じられないが、極限の飢餓状態で人肉を食べ、そして我が子までをも食べようとした母親から生み出された子供アシュラの話。
この漫画は猛毒が盛ってあるので、あまり気軽にお薦めしないけれど、この漫画でもそういう絶望を生きる人間にとっての生や死が描かれている。法然を示唆する坊さんが要所要所に出てきて、人肉を食べ、人を殺しまくりながら生き抜こうとする主人公アシュラの心の奥底と対話していく。
この猛毒の漫画は、『生きながら救われること』を描いている名作だとも思う。ただ、1970年の漫画なので(当時の同時代性を受けているからか)、田口ランディやよしもとばななと違って、作品自体にあまり救いは描かれない。僕らに試されているような漫画でもある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
◆死を思う
脱線したけど、よしもとばなな「彼女について」は、死んだ人々の魂を救済しようとしている。そして、死者を思い、死者を弔うために、いろんな別の層を持った世界を描き出している。
人はそういうものをオカルトと呼び、非科学的だというだろう。
確かに、オカルトという領域に追いやられてきた概念はたくさんある。それは過去に呪術であったり、霊媒師であったり、シャーマンであったり、魔術師であったり、夢であったりしたんだと思う。そして、時にその概念は悪用されてきた負の歴史もあるし、怪しいものとして蓋をされてもいる。
『見ざる、言わざる、聞かざる!』
ただ、その本質にある全てを否定して全てを遠ざけることで、大切なものも一緒に見えなくなる。
それは、死んだら人はどうなるのかとか、何故人を殺してはいけないのかとか、何故自殺してはいけないのかとか・・・現代に常に持ち越される課題。
今までは道徳やモラルや法の強制力(悪には極刑や罰を与える)で封じられてきた領域であるとも思うんだけど、きっとそういう暴力的で強引な理解では、もう限界に来ているのかもしれない。
それは、宗教戦争で人殺しをやったり、戦争では殺人が正当化されたり、死刑という制度があったり・・・個人レベルの生死と、国家・集団レベルの生死があまりに連続していない、そういう色んな矛盾の歪みの象徴なんだろう。
死んだ後の世界や死者を、全く何もない無になると考えてもいい、輪廻転生と考えてもいい、地獄や極楽があると考えてもいい、別の意識状態に移行すると考えてもいい。その死生観は個人の自由。
法然は平安時代末期から鎌倉時代初期に生きたが、2009年という現在に生きている人間にとっての、今に最もフィットする死生観というものが存在すると思うし、現代の色んなものごとと呼応しながら、この世に産み落とされる死生観があると思う。
よしもとばななや田口ランディは、暴力的ではなく、情緒的ではなく、もっと緩やかな形で表現しようとしていて、その思いを感じ取った。それは、死後にどういうものを想定するかで、この世のあり方や生死のとらえ方が変わるということにもなるだろう。発想の転換のようなもの。
◆田口ランディ「パピヨン」(角川学芸出版)
長い長い前置きを経て、やっと田口ランディの「パピヨン」に触れることにする。
この本は、エリザベス・キューブラー・ロスという人の生涯を追いながら話が展開していく。
エリザベス・キューブラー・ロスは1926年生まれの精神科医(2004年に78歳で死去)。ロスは医療の現場での死に行く人々への対応のお瑣末さに愕然とする。取りつかれたようにターミナルケア(死を待つ人たちへの看護)の現場に向かうようになる。当時はターミナルケアは宗教者がやっていて、医者はだれも見向きもしなかったのだが、ロスは医学生・神学生と共に「死とその過程セミナー」という場を立ち上げる。その活動が、1969年の43歳で出版された『On Death & Dying:死ぬ瞬間』へとつながる。

やがて、ロスは死への過程だけではなく、その先の死後の世界に関心を向けるようになり、「幽体離脱を体験した」と言い、霊媒師との積極的な交流に傾倒していき、科学や医学界からはつまはじきものとなってしまう。周りの親しい人にとっては、日常言語が通じない別の世界に行っちゃったようなもので、浮世離れして理解不能だったと思う。
若い時は複数の大学から20の名誉博士号を授与されていたが、晩年は忘れられたような存在となり、1995年の69歳でに脳梗塞から左半身麻痺となり、2004年の78歳で寂しく死んでいった。
彼女は色んな著作を残している。彼女はかなり誤解され、表層のみだけ取りざたされて、分かりやすいとこだけが引用されている。自分も、有名な「死の受容プロセス5段階:否認→怒り→取引→抑うつ→受容」くらいの表層の知識しか知らなかった。
ロスが医学界や世間から疎んじられてでも、伝えようとしたことは何か。
その謎を解こうとするプロセスが、「パピヨン」の全体像である。
◆死に行く人に学ぶ
ロスは死に行く人に学ぶことを繰り返し説いている。
「死に行く人の声を聞きなさい」「死に行く人は何を伝えようとしているか感じなさい」「死に行くとはどういう状態なのか感じなさい」・・・と。
ロスの著作でもこう書く
================================
『死にゆく人は自分が失うものとその価値を知っている。みずからを欺いているのは生きている人の方なのだ。』
================================
(キューブラー・ロス「ライフレッスン」角川文庫)
ロスの人生の謎を解くプロセスの中で、田口ランディの父親の死が偶然に同期する。アルコール中毒で暴力的で自分勝手で、許し受け入れることができなかった自分の父親が、死に行く人となり死のプロセスに否応なしに巻き込まれる。離れようとしては磁場のようにに引き寄せられ近づく。父親の死のプロセスは、作者を軸として進んでいく。
父親が死に行く状態のとき、現実と夢の境界のような状態にいる。死と生の境界を行ったり来たりしている。その父親の状態を見て、彼女は感じる。
================================
P193
『人間の意識状態は一つではない。日常的に生きていてもぼんやりしてしまうときがある。空想にふけってしまう時がある。そういう時の意識状態は少しゆるいのだ。死ぬ間際に、人間の意識状態はゆっくりグラデーションを描きながら変化している。だんだんと夢の世界に近くなっていく。』
P214
『死に逝く人の夢の中に入ると、私たちが正しいと思っていることのほうがもしかしたら夢なのかもしれない、そう思えてくる。同じ夢の世界に入れば、彼らの言語がわかる。それこそが、学びなのだ。』
================================
そして、ロスも著作で繰り返し言う、
『死に行く人は多様な意識レベルの中にいる。そこで聞くものや見えるものは無意味な幻覚や妄想ではない。そこに死や生の真実が隠されている。患者はシンボリックな言葉を使って真実を語る。それに耳を傾けてほしい。』
「パピヨン」という本は、ロスを学ぶ過程で自分の父親が死に行く人となり、死に行く父親の声に真剣に耳を傾け続けた田口ランディ。この偶然のプロセスから、非現実的なオカルトには決してならないように注意しながら、極めて科学的な方法(実際起きている現象を客観的に観測者として見る)を意識して、できるだけ客観的に、ギリギリのラインで、死や死の瞬間を言語で着地させた力作だと感じたのです。
◆自意識
現実の自分は自意識過剰で周りの目を気にしながら、自分を一番かわいいと思いながら、自分を溺愛しながら生きていることがある。そうなると、どんどん他者や世界と自分は分断されていく。
そうして、本質的な「わたし」からどんどん離れていっている違和感を感じつつも、生きやすくするために蓋をして、蓋をしたことすらすっかり忘れて生きていく。
ただ、その発想では死んだ人は自分と関係ないから死者を悼むことはできない。
死んだ後なんて何も分からないし、自意識まみれの自分にとってはどうでもいいってことになる。
だけど、そこで色んな違和感やズレや歪みが出てくることがある。死者を軽んじることや、他者を軽んじ自意識過剰になることで、本質的な「わたし」からどんどん離れていくので、丁寧に自分と対話して本当の本当の自分の声を聞き続けると、何かが違うと感じている自分がいるのに気づく。それは、自分が自分ではないという状態。
その矛盾に本質的に気付かせてくれるのが『死に行く人』なのではないかと思う。
人間は、生きたままで自意識を超えることは難しい。「わたしはわたしである」という自意識を生きながらに超えるっていうのは、荒唐無稽でいかにも怪しい宗教の宣伝文句のように思える。
ただ、死に行く人は自意識から否応なく離れていこうとしているのではないか。生きながら自意識を超える、数少ない状態の一つなのではないか。
赤ん坊は徐徐に自意識という境界線を創る、死に行く人と逆の状態だとも思う。
生まれてきた人と死にゆく人、その間に現在の自分は立っている。自意識にまみれながら。
◆死生観
死んだ後の状態を、「死後の世界」「魂」「彼岸」・・色んな表現がなされてきた。生きながら認知できないものだから、オカルト的に怪しく扱われて、『見ざる、言わざる、聞かざる!』になっていた。悪用もされた。
でも、この作品は、自分の実父が死んでいくプロセスを感じて、現実から飛躍しないよう注意しながら、怪しいオカルトにならないように注意を払っている。自意識を超えた世界、死後の世界など、恐ろしく表現が困難なギリギリの世界を、皆に伝わる言葉で表現しようとしている。
こういう地道な活動の延長に、死に行く人を、生から死へと送るという行為があるのだろう。そして、その死生観は時代が求めているのかもしれない。
さそうあきらの「おくりびと」が映画化され人気を博しているのと同様に(原作の漫画は読んだけど、映画はまだみとらん)、今の時代が、今に最もフィットした哲学や死生観を求めているんだと思う。
ただ、それはまだ言語化されていないし共有されていない。謎として今に残された。
でも、ロスやロスが看取った死んでいった人々は、何かを残している。ロスは自分の人生をかけて、地位や名誉や自分の生活もかなぐり捨てて追求したのだから、きっと僕らが受け取れていないメッセージがあるのだとも思える。
その世界を言語化しようとした「パピヨン」というのは挑戦的で意欲的な作品だし、その姿勢自体がとても素晴らしい。切実で誠実で熱い思いを感じる。
その営みも、まだプロセスに過ぎないんだと思う。
医療現場にいる自分は、それを引き継いで、下に伝えていかないといけないとも感じた。サイエンスに携わっているからこそ、サイエンスの言葉に翻訳していかないとも思った。
「死者に敬意を持ちなさい」「死者を思いなさい」「死者を偲びなさい」「死者を大切にしなさい」・・・なんとなく分かる。死者を粗末にすると罰があたるんじゃないかと、宗教を信じてなくてもオカルトを信じてなくてもなんとなく分かる。
そして、自意識と別の状態があるなんて言うと、すごく怪しく聞こえる。意味不明なオカルト世界に見える。表現者も、変な色がつかないように敬遠する領域でもある。完全に向こうの世界に行っちゃった浮世離れした人の言葉は、確かに自分には全然伝わらない。ウソくさいなーって思うことがよくあるのも確か。
でも、このパピヨンは、その領域を、死に行く人の状態を重ねながらわかりやすく表現していてイメージできる。それは素晴らしいと思えたのです。
著作を読んでもらう方が早い。読書体験によってこの感覚は分かるし、この感覚を他と対話し呼応していくことで自分の中で完成いくかもしれない。
田口ランディもよしもとばななも、この現存の世界を全てありのまま受け入れている。否定せずにありのまま肯定している。
その上で、今見過ごされているものや見落とされているもの、そういうものを丁寧に救いあげて、この世界を壊すことなく肯定して、生や死をとらえていこうとしている。
この世界を破壊せずそのままで、僕らの眼差しを狭い自意識から一歩引かせることで、この世界や死や生を、自意識過剰にならないようにゼロから見つめ直そうとしている。
自分も同時代に生きているものとして、医療に携わるものとして、その営みには参加したいと思う。そんなことを思わせる作品でした。
発売翌日にはAmazon様が運んでくれたおかげで読んでいた。感動して感想を書こうと思ったのだけど、少し時間を経て自分の中で濾過作業を行ってから書こうと思って、時が来るのをなんとなく待ってた。
そして、よしもとばななさんの新作「彼女について」を読んで、猛烈に感じ入り、感動した。
この二つの作品は、2008年の11-12月と偶然同時期に出た。書いてることや方向性も全然違うけど、伝えようとしていることや読み手に託された課題は、表裏一体でほとんど同じなんじゃないかとも思った。
単に自分が同時期に読んだから?否、そうぢゃないと思う。
お二人の感受性や、それを言語に変換する技がトップクラスだからこそ、今の時代を覆う空気感や、失われつつあるが僕らの心に引っ掛かっているものを、すごい感度で感じ取り、偶然同時期に言語の形でこの世界に生み出したんだと思う。それが、同時代に生きているってことだと思う。
よしもとばななさんと田口ランディも、そして読み手のわしも、そしてこのブログを読んでいるアナタも、みんなが同じ時間を共有しているのは間違いないから。
◆よしもとばなな「彼女について」(文藝春秋)

この本の粗筋は作品の本質そのものだから書いちゃいかんと思うので、なかなか書くのが難しい(→読んでしまった人と口頭で語り合いたい!)。
読んだ後に表と裏表紙の絵を見ると、内容が簡潔に表現されているのが改めて気づく。一枚の絵に凝縮してる合田ノブヨさんは、かなりすごいと思う。
よしもとばななさんの作品には常に生と死がついてくる。そこが自分がとても惹かれる点だとも思う。若い女性に広く読まれているのが不思議なほど、書かれている内容を俯瞰して見直すと、かなりギリギリの世界観が描かれていると思う。
ネタばれしないようにうまく書くならば、テーマは『死んだ後の世界』『死者の魂の救済』『魂のようなものの存在』とでも言うべきか。それは、たったこの今も、現実世界で絶望の中に生きているかもしれない誰かへの救いにも見える。
肉体とか精神とかでは説明できないレベルの、深い深い意味での救い?
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平安時代末期から鎌倉時代初期に法然という坊さんがいた。浄土宗の開祖。法然は絶望で乱世きわまる時代に彗星のように現れた。年貢を搾取され、飢饉が続き、生まれても悲惨な思いをして、まるで虫けらのように死んで行くしかない絶望の時代があったのだろう。なんで生まれてきたんだろうと、多くの人間が思ってしまう絶望の時代が、過去に日本も存在したのだろう。
そこで法然という坊さんは言った「南無阿弥陀仏とただ唱えなさい。それだけであなたは救われる」と。
その絶望的な悲惨な現実の時代に、彼の哲学や思想は「生きながら救われる」ための、ギリギリの天才的な発想の転換だったのだと思う。
このあたりは、『田口ランディ「聖なる母と透明な僕」』(2009-01-04)の中の『阿弥陀グッドジョブ』という文章にも書かれているし、風の旅人33号『刻と哀』でも読めるのでその文章を参照。
◆ジョージ秋山「アシュラ」(幻冬舎)

絶望の時代とは凄まじいものだろう。これを漫画表現のギリギリで表現しているのが、ジョージ秋山の「アシュラ」(幻冬舎)という漫画。この漫画も凄まじい。
1970年に週刊少年マガジンで連載してたのが信じられないが、極限の飢餓状態で人肉を食べ、そして我が子までをも食べようとした母親から生み出された子供アシュラの話。
この漫画は猛毒が盛ってあるので、あまり気軽にお薦めしないけれど、この漫画でもそういう絶望を生きる人間にとっての生や死が描かれている。法然を示唆する坊さんが要所要所に出てきて、人肉を食べ、人を殺しまくりながら生き抜こうとする主人公アシュラの心の奥底と対話していく。
この猛毒の漫画は、『生きながら救われること』を描いている名作だとも思う。ただ、1970年の漫画なので(当時の同時代性を受けているからか)、田口ランディやよしもとばななと違って、作品自体にあまり救いは描かれない。僕らに試されているような漫画でもある。
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◆死を思う
脱線したけど、よしもとばなな「彼女について」は、死んだ人々の魂を救済しようとしている。そして、死者を思い、死者を弔うために、いろんな別の層を持った世界を描き出している。
人はそういうものをオカルトと呼び、非科学的だというだろう。
確かに、オカルトという領域に追いやられてきた概念はたくさんある。それは過去に呪術であったり、霊媒師であったり、シャーマンであったり、魔術師であったり、夢であったりしたんだと思う。そして、時にその概念は悪用されてきた負の歴史もあるし、怪しいものとして蓋をされてもいる。
『見ざる、言わざる、聞かざる!』
ただ、その本質にある全てを否定して全てを遠ざけることで、大切なものも一緒に見えなくなる。
それは、死んだら人はどうなるのかとか、何故人を殺してはいけないのかとか、何故自殺してはいけないのかとか・・・現代に常に持ち越される課題。
今までは道徳やモラルや法の強制力(悪には極刑や罰を与える)で封じられてきた領域であるとも思うんだけど、きっとそういう暴力的で強引な理解では、もう限界に来ているのかもしれない。
それは、宗教戦争で人殺しをやったり、戦争では殺人が正当化されたり、死刑という制度があったり・・・個人レベルの生死と、国家・集団レベルの生死があまりに連続していない、そういう色んな矛盾の歪みの象徴なんだろう。
死んだ後の世界や死者を、全く何もない無になると考えてもいい、輪廻転生と考えてもいい、地獄や極楽があると考えてもいい、別の意識状態に移行すると考えてもいい。その死生観は個人の自由。
法然は平安時代末期から鎌倉時代初期に生きたが、2009年という現在に生きている人間にとっての、今に最もフィットする死生観というものが存在すると思うし、現代の色んなものごとと呼応しながら、この世に産み落とされる死生観があると思う。
よしもとばななや田口ランディは、暴力的ではなく、情緒的ではなく、もっと緩やかな形で表現しようとしていて、その思いを感じ取った。それは、死後にどういうものを想定するかで、この世のあり方や生死のとらえ方が変わるということにもなるだろう。発想の転換のようなもの。
◆田口ランディ「パピヨン」(角川学芸出版)
長い長い前置きを経て、やっと田口ランディの「パピヨン」に触れることにする。
この本は、エリザベス・キューブラー・ロスという人の生涯を追いながら話が展開していく。
エリザベス・キューブラー・ロスは1926年生まれの精神科医(2004年に78歳で死去)。ロスは医療の現場での死に行く人々への対応のお瑣末さに愕然とする。取りつかれたようにターミナルケア(死を待つ人たちへの看護)の現場に向かうようになる。当時はターミナルケアは宗教者がやっていて、医者はだれも見向きもしなかったのだが、ロスは医学生・神学生と共に「死とその過程セミナー」という場を立ち上げる。その活動が、1969年の43歳で出版された『On Death & Dying:死ぬ瞬間』へとつながる。

やがて、ロスは死への過程だけではなく、その先の死後の世界に関心を向けるようになり、「幽体離脱を体験した」と言い、霊媒師との積極的な交流に傾倒していき、科学や医学界からはつまはじきものとなってしまう。周りの親しい人にとっては、日常言語が通じない別の世界に行っちゃったようなもので、浮世離れして理解不能だったと思う。
若い時は複数の大学から20の名誉博士号を授与されていたが、晩年は忘れられたような存在となり、1995年の69歳でに脳梗塞から左半身麻痺となり、2004年の78歳で寂しく死んでいった。
彼女は色んな著作を残している。彼女はかなり誤解され、表層のみだけ取りざたされて、分かりやすいとこだけが引用されている。自分も、有名な「死の受容プロセス5段階:否認→怒り→取引→抑うつ→受容」くらいの表層の知識しか知らなかった。
ロスが医学界や世間から疎んじられてでも、伝えようとしたことは何か。
その謎を解こうとするプロセスが、「パピヨン」の全体像である。
◆死に行く人に学ぶ
ロスは死に行く人に学ぶことを繰り返し説いている。
「死に行く人の声を聞きなさい」「死に行く人は何を伝えようとしているか感じなさい」「死に行くとはどういう状態なのか感じなさい」・・・と。
ロスの著作でもこう書く
================================
『死にゆく人は自分が失うものとその価値を知っている。みずからを欺いているのは生きている人の方なのだ。』
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(キューブラー・ロス「ライフレッスン」角川文庫)
ロスの人生の謎を解くプロセスの中で、田口ランディの父親の死が偶然に同期する。アルコール中毒で暴力的で自分勝手で、許し受け入れることができなかった自分の父親が、死に行く人となり死のプロセスに否応なしに巻き込まれる。離れようとしては磁場のようにに引き寄せられ近づく。父親の死のプロセスは、作者を軸として進んでいく。
父親が死に行く状態のとき、現実と夢の境界のような状態にいる。死と生の境界を行ったり来たりしている。その父親の状態を見て、彼女は感じる。
================================
P193
『人間の意識状態は一つではない。日常的に生きていてもぼんやりしてしまうときがある。空想にふけってしまう時がある。そういう時の意識状態は少しゆるいのだ。死ぬ間際に、人間の意識状態はゆっくりグラデーションを描きながら変化している。だんだんと夢の世界に近くなっていく。』
P214
『死に逝く人の夢の中に入ると、私たちが正しいと思っていることのほうがもしかしたら夢なのかもしれない、そう思えてくる。同じ夢の世界に入れば、彼らの言語がわかる。それこそが、学びなのだ。』
================================
そして、ロスも著作で繰り返し言う、
『死に行く人は多様な意識レベルの中にいる。そこで聞くものや見えるものは無意味な幻覚や妄想ではない。そこに死や生の真実が隠されている。患者はシンボリックな言葉を使って真実を語る。それに耳を傾けてほしい。』
「パピヨン」という本は、ロスを学ぶ過程で自分の父親が死に行く人となり、死に行く父親の声に真剣に耳を傾け続けた田口ランディ。この偶然のプロセスから、非現実的なオカルトには決してならないように注意しながら、極めて科学的な方法(実際起きている現象を客観的に観測者として見る)を意識して、できるだけ客観的に、ギリギリのラインで、死や死の瞬間を言語で着地させた力作だと感じたのです。
◆自意識
現実の自分は自意識過剰で周りの目を気にしながら、自分を一番かわいいと思いながら、自分を溺愛しながら生きていることがある。そうなると、どんどん他者や世界と自分は分断されていく。
そうして、本質的な「わたし」からどんどん離れていっている違和感を感じつつも、生きやすくするために蓋をして、蓋をしたことすらすっかり忘れて生きていく。
ただ、その発想では死んだ人は自分と関係ないから死者を悼むことはできない。
死んだ後なんて何も分からないし、自意識まみれの自分にとってはどうでもいいってことになる。
だけど、そこで色んな違和感やズレや歪みが出てくることがある。死者を軽んじることや、他者を軽んじ自意識過剰になることで、本質的な「わたし」からどんどん離れていくので、丁寧に自分と対話して本当の本当の自分の声を聞き続けると、何かが違うと感じている自分がいるのに気づく。それは、自分が自分ではないという状態。
その矛盾に本質的に気付かせてくれるのが『死に行く人』なのではないかと思う。
人間は、生きたままで自意識を超えることは難しい。「わたしはわたしである」という自意識を生きながらに超えるっていうのは、荒唐無稽でいかにも怪しい宗教の宣伝文句のように思える。
ただ、死に行く人は自意識から否応なく離れていこうとしているのではないか。生きながら自意識を超える、数少ない状態の一つなのではないか。
赤ん坊は徐徐に自意識という境界線を創る、死に行く人と逆の状態だとも思う。
生まれてきた人と死にゆく人、その間に現在の自分は立っている。自意識にまみれながら。
◆死生観
死んだ後の状態を、「死後の世界」「魂」「彼岸」・・色んな表現がなされてきた。生きながら認知できないものだから、オカルト的に怪しく扱われて、『見ざる、言わざる、聞かざる!』になっていた。悪用もされた。
でも、この作品は、自分の実父が死んでいくプロセスを感じて、現実から飛躍しないよう注意しながら、怪しいオカルトにならないように注意を払っている。自意識を超えた世界、死後の世界など、恐ろしく表現が困難なギリギリの世界を、皆に伝わる言葉で表現しようとしている。
こういう地道な活動の延長に、死に行く人を、生から死へと送るという行為があるのだろう。そして、その死生観は時代が求めているのかもしれない。
さそうあきらの「おくりびと」が映画化され人気を博しているのと同様に(原作の漫画は読んだけど、映画はまだみとらん)、今の時代が、今に最もフィットした哲学や死生観を求めているんだと思う。
ただ、それはまだ言語化されていないし共有されていない。謎として今に残された。
でも、ロスやロスが看取った死んでいった人々は、何かを残している。ロスは自分の人生をかけて、地位や名誉や自分の生活もかなぐり捨てて追求したのだから、きっと僕らが受け取れていないメッセージがあるのだとも思える。
その世界を言語化しようとした「パピヨン」というのは挑戦的で意欲的な作品だし、その姿勢自体がとても素晴らしい。切実で誠実で熱い思いを感じる。
その営みも、まだプロセスに過ぎないんだと思う。
医療現場にいる自分は、それを引き継いで、下に伝えていかないといけないとも感じた。サイエンスに携わっているからこそ、サイエンスの言葉に翻訳していかないとも思った。
「死者に敬意を持ちなさい」「死者を思いなさい」「死者を偲びなさい」「死者を大切にしなさい」・・・なんとなく分かる。死者を粗末にすると罰があたるんじゃないかと、宗教を信じてなくてもオカルトを信じてなくてもなんとなく分かる。
そして、自意識と別の状態があるなんて言うと、すごく怪しく聞こえる。意味不明なオカルト世界に見える。表現者も、変な色がつかないように敬遠する領域でもある。完全に向こうの世界に行っちゃった浮世離れした人の言葉は、確かに自分には全然伝わらない。ウソくさいなーって思うことがよくあるのも確か。
でも、このパピヨンは、その領域を、死に行く人の状態を重ねながらわかりやすく表現していてイメージできる。それは素晴らしいと思えたのです。
著作を読んでもらう方が早い。読書体験によってこの感覚は分かるし、この感覚を他と対話し呼応していくことで自分の中で完成いくかもしれない。
田口ランディもよしもとばななも、この現存の世界を全てありのまま受け入れている。否定せずにありのまま肯定している。
その上で、今見過ごされているものや見落とされているもの、そういうものを丁寧に救いあげて、この世界を壊すことなく肯定して、生や死をとらえていこうとしている。
この世界を破壊せずそのままで、僕らの眼差しを狭い自意識から一歩引かせることで、この世界や死や生を、自意識過剰にならないようにゼロから見つめ直そうとしている。
自分も同時代に生きているものとして、医療に携わるものとして、その営みには参加したいと思う。そんなことを思わせる作品でした。
これから読みます!また読んだら、パピオンも含めて感想を。
今回の田口ランディ「パピヨン」、よしもとばなな「彼女について」。この二つからは相当色んなもの感じたから、記事数が1万文字超えちゃって、このGooブログって1万文字しか一回で書けないみたいで、色々スリム化させたんですよー。
1万文字って言ったら、400字詰め原稿用紙だと25枚かー。よく書いたもんだ笑
パピヨン単独でも、彼女について単独でも、両方の合わせ技でも、感想教えてー。共有したいなー。
週末には受け取って、読みます。うずうず。
我がブログのコメント欄は遊び場として位置づけているので、日が暮れて疲れるまで遊んで帰っていってください!
『パピヨン』は、父親の死に寄り添い、観察して、そのときに感じたことを記述する。いわゆるエッセイということになるんだろうけど、極力、自意識にとらわれないで記述するよう努力している。そして、「死に行く人」や「死」や「自意識」を書いている。
『彼女について』は、小説の形態をとりながら(ストーリー展開がすごいんだなーこれが)、「たましいの救い」を書く。
二つは全然違うんだけど、合わせて読むと、呼応しながら、補完しあいながら存在しているって気がしました。(勝手なこじつけぢゃないと思うんですよー)
どちらも、きっと高校生くらいで読んだら全然感想違うんだろうなーとも思います。
きっと、10代の子が読んでも、何かしら価値観や見方を変えてくれるのは間違いない。そして、そういう10代の人も、30歳とか大人になってから再度この作品を読みなおすと、わしが感じたようなことを再度この本から別の深いものを見出すんじゃなかろうか。
そういう意味で、イイ本ってのは、きっと奥の深さが何層にも多層構造になってて、何年後かに読んでも再度新しい発見があるものなんだと思いますね。 手塚治虫『火の鳥』なんて、何度読んでも発見あるし。何度読みなおしたかわかりません。
『パピヨン』『彼女について』は、2000年代初期の死生観を考えると、未来になってターニングポイントになって何度も読み継がれていく本になるんじゃなかろうか。
少なくとも、医療関係者が何度も読んで欲しい本です。示唆に富んでいると思います。
早くともこさんの感想聞きたい!
『彼女について』を読んで、詳細な感想はここに書かないようにしますが、とにかくこの本の存在を抱きしめたくなりました(とりあえず物理的には抱きしめました)。温かいよ、自分に救いをくれる。よしもとばななは!
生と死、静と動、抽象と具体、醜と美、相反する2つのものが、時に交ざりあって、時にはっきりととその違いを映し出しあって・・・
まだ自分の中でメッセージや受信したことを消化消化消化・・・、そして自己と向き合いすぎている自分を現実にもどすという段階ですが、いなばさんの、この日のブログに来ることで、そのプロセスをスタートさせています。
後、風の旅人を紹介してくださり+いなばさん記事も送ってくださり、ありがとうございました!いなばさんの想いが伝わってきますね。風の旅人、アマゾンで中身を見て、これは・・・と思い買いましたよ!
というか、読んですぐもう一回読み始めています。
背筋が、ぞぞっと来ました。
そして、読んだ後に自分の意識とは一体何者なのかという思いに行き着きました。
確かに、これは今までになかったばななさんの新境地かもしれない。
多分、今夜眠りに就く時も思うはず。覚醒と睡眠、生と死、意識を意識すること。また世界観が一つ増えるんじゃないかって気がしてます。読後にどんどん醸造していきます。
不思議だね。最近、生や死に触れて考えることが多いです。そして、これから異国へ行く前に、いろいろ研修を受けていて日本以外の国が以下に、この国より死が身近であるかを意識しています。
うーん、会って話したいと言っていたいなば君の一言が思い出されます。ほんとにその通りでした。
次ぎ合うときに語ろう!
そうなんですよね。読後、自分がどういう層にいるのかよくわからなくなるというか、現実なのか夢なのか死んでいるのか生きているのか、また全然別の層なのか・・。自意識とか意識とか、その辺を根底的に考えさせられてしまうすごい世界観だったと思います。
『ココロも、頭も別々の温かさと苦しさに包まれて、自己と内向きに向かい合っているのに、外が存在している感じでした。』
っていうのはいい表現ですネ!なんか内側とか外側とか、死とか生とか、薄皮一枚でペロリと裏返ってしまいそうな感覚ですよね。そうなると、今が内側なんだか外側なんだかよくわからないし、内側でもあるし外側でもある・・みたいな、言語的には矛盾した状態のような気もしてくる。
そんな混乱や混沌に自分を誘ってくれる素晴らしい作品なんだと思います。
田口ランディ「パピヨン」、よしもとばなな「彼女について」二つ読んでもらえれば、ふたつは全然違うことを書いているんだけど、ほとんど同じことを書いているって僕がブログで書いた真意も分かってくれると思うんですよね。「パピヨン」は自分の父の死を中心に書くノンフィクション?のようなスタイルで、よしもとばなな「彼女について」はフィクションである小説のスタイルで。
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風の旅人、周りの人にどんどん宣伝して、みなさん感じ入ってくれて嬉しいです。今までの雑誌って、読んだ後捨てるのが前提になっている雑誌が多かったけど、あれは保存して何度も読み返す雑誌なんですよね。学校のテキストにも使えそうな雑誌なんです。
文章も素晴らしいし写真も素晴らしい。文章も、自分がいっぱいいっぱいのときは読む気が起きないんだけど、あの雑誌は自分が読もうという層に入ってくるのを待ってくれるので、時間がたって読みたくなる時に読めばいいんですよねー。何度読んでも奥深い文章や写真多し。
是非また感想聞かせて下さい!
>>>>>>>>>>>>>ShinK
『読んですぐもう一回読み始めています。』っていうのがすごくよくわかる。俺も3回読んだし。
鳥肌立つよね。あの意識の変化!
意識ってなんなんだろうか?そこから出る自意識って何?私って何?
こういう哲学的問いに突入させる力が、あの文学にはあります。
若い人に受けている作家だから、逆に言えば僕ら世代に託された問いでもあるんでしょうね。同じ問題意識を共有しながら、共鳴し呼応し合いながら模索していく問いなのでしょう。
でも、こういう文学をきっかけとして必然的に続く哲学的な問いは、今まで【道徳】の固い蓋を閉ざして議論されることがなかった、真の意味での【生命論】のような話ができるのかもしれん。
何故ヒトを殺してはいけないのか、何故暴力はいけないのか・・・色んな犯罪者が社会に投げかけた痛烈なメッセージに対して、何の答えも出せない現状があって、死者の思いを鎮魂できていない現在の状況があって、そういう生命の奥底にある問いに何かの反応ができない限り、医療倫理も解決できない問題が多いんですよね。
脳死移植、クローン技術、代理出産、再生医療、安楽死・尊厳死、がん告知、末期医療・・・・
なかなか本の粗筋とか要点をブログに書いちゃうと、まだ読んでない人の衝撃が小さくなるんで、いつも書きたいこと書けなくてウズウズしてるのよね笑
だから、読んだ人と直接会って、色々話したいって常々思っとります!
田口ランディ「パピヨン」、よしもとばなな「彼女について」から喚起されることは本当に多い。この思いを繋げていきたいですな。
後に、ばななさんのブログで「この本の裏テーマとして秋田の児童連続殺害事件がある」というのを知って、私は別の意味で大きく心揺さぶられました。こういうことで救われる魂はあるのかもしれないと思いました。
同じことを、映画の『私は貝になりたい』で強く感じて、作品の出来不出来はよくわからないけど、その無念の思いを凝視して、多大な労力を要して作品にして、またそれを見た人がその無念さに心をよせるというその作業が、まさに鎮魂だと思ったのです。
だって、彼らになったと想像して、当時誰にも知られず理不尽に殺されたとしても、後の表現者がこんなにもその理不尽さ、いや事実だけでもいい、そこに注目してくれたのなら、それだけで大きな心の救いにはなると思うのです。
そんなことを思っていたから、その裏テーマの話を聞いて、なんだか泣きたくなりました。
ばななさんが描いていたように、あなたは決して不幸なだけではなかったと。確かに誰かに(母親も含まれる)愛されたし、そこにいるだけでみんなを幸せにできるかわいい存在だったと、思います。
その全体をあんなふうに物語として書き上げてしまうのは、すごい。
なんだかもしかしたらこれから読む人にとっては迷惑なコメントかもしれませんが、この本に関する私の率直な感想です。
こうやってみなさんが重層的に感想書いてくれるのは嬉しい!ありがとう!
わしもそれだけ示唆に富む2冊だったと思っております。
同時代に生きているって、書き手や表現者の根底に流れるテーマを共有できる特権があると思う。ドストエフスキー大先生も(わしは積読して読んでないのだけど)、当時のニュースや社会問題を下敷きに全ての文学を書いているみたいだし、そこも含めて味わえるのは同時代に生きて、同時代に読んだ人の特権なんだと思う。僕らは少し遅れた世代としてしか読めないから。
逆に言えば、僕らは同時代を生きる素晴らしい作家の作品を読む大きな特権を持っているとも言える。100年後に生まれてくる人たちも、きっと田口ランディやよしもとばななの作品を読むんだと思うけど、僕らは同時代に生きているものとして読める大きな特権がある。
僕らは、同時代の悲劇的な事件やニュースを聞いて、何かを感じる。それはやるせなさであったり悲しさであったり切なさであったり無力感や無念さであったりする。実際、何かをできるわけではないから、タダ、感ジル。
そういう風に、何か感じただけで、既に救いなのではないかと思うようになってきた。年をとるにつれて、日々の忙しさにかまけて感じることから逃げてしまって、感じる自分を無視するようになってしまったように反省している。時間や利便を追求しだすと、そういう悪いサイクルに入りがちになる。
何かを感じること、そしてそのことを意識すること、それは既に救いなのかもしれない。鎮魂なのかもしれない。
れいこさんが、『私は貝になりたい』で同じことを感じたって書いてたけど、本当に同感です。これは愛想で相槌をうっているわけではなく、本当に心の底から同感。全く同じことをわしも感じた。
2008-12-05のブログで、『私は貝になりたい』を見終わった後に即興で書いたんだけど
あの映画から感じたのは色んな人の無念な思い。その無念さを自分は受け取った。感じた。
これは既に彼らの鎮魂なのではないかと、感じながら思った。
時間を超え、空間を超え、戦争当時に無念で死んでいった人たちに対し、わたしが無念さを感じている。思っている。そんなこと、当時の人は夢にも思わなかったと思うんだけど、その時点で、彼らの死は無駄死にではなくて、すでに今の世代に受け継がれている。田口ランディ「パピヨン」や、よしもとばなな「彼女について」で描かれたような世界観において、魂は救われたような気さえするのですね。
現代医療って、肉体を物理的に救うこと、そして精神を救うこと、ここでイッパイイッパイになっているのです。自分も当事者だからよく分かる。でも、救いってそんな表面的なものではない。人間を『精神と肉体』だけに簡単に二分割できるものではない。
絶望の中にも希望はあって、希望の中に救いがある。死の悲しみの中にも救いはあって、その救いは現在の生へとつながっているからこそ感じる。
わしも、れいこさんが『ばななさんのブログで「この本の裏テーマとして秋田の児童連続殺害事件がある」』と言ってたのを聞いて、その瞬間に自分の魂にジーンと響くものがあった。確かにそうかもしれない。確かに、あの小説で、亡くなった彼女は鎮魂され、魂は救われた。と感じたのです。
田口ランディ「パピヨン」、よしもとばなな「彼女について」を読んで、いろんなものを感じた人、コメント欄に書きこんでくれた方々は、既にそういう魂の救済のサイクルに、いつのまにか組み込まれているんだと思います。既にそこを支える一人になっているんだとも思います。