日常

「二十歳の原点」高野悦子

2009-09-29 00:34:26 | 

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P13(1969/01/15)
『「独りであること」、「未熟であること」、これが私の二十歳の原点である。』
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友人に強く奨められて、「二十歳の原点」高野悦子(新潮文庫)(初版は昭和46年5月)を読んでみた。

痛々しく悲しい日記であった。
高野さんの言葉がトゲのように刺さる。


この本は、学生運動華やかし頃、1969年1月2日~6月22日に20歳の高野さんが書き記した日記である。
彼女は最終的には自殺した。

自分が生まれる10年前、こうして生命を20年間で燃焼しつくして、「独り」で孤独に孤高に孤立して生きた女性がいた。


彼女は、常に「独り」という問題と向き合っていた。

「独り」で「自分」と戦い、外向きの「自分」と内向きの「自分」、そんな無数にある「自分」と独りの「自分」が戦っていた。
無数の「自分」で独りの「自分」は引き裂かれ、無数の「自分」は独りの「自分」へと時に融合していく。


彼女は物事に二面性があるとき、その二面が同時に見えていたのだと思う。
そして、そんな矛盾の象徴に見える二面性そのものが許せなかったし、許せない自分自体が二面性以上の多面性を持っていること、そのこと自体も許せなかった。
自分に厳しく、矛盾した自分を潔癖なまでに認めることができなかった。


彼女は「自分」を愛そうとしたけれど、愛そうとしている「自分」と愛せない「自分」が同時に存在していることにも気づいていて、そのどの「自分」にも嘘をつけないほど、真っ直ぐで正直で純粋な女性だった。

その挟間で独り苦しみ、最後まで独りの自分を愛することができなかった。

最後には自分を肯定できず、自殺した。


そんな彼女の言葉は鋭い。重い。そして痛い。



「自分がこの世に存在している」「自分がこの世に生きている」という、存在の神秘に彼女はつかまえられた。ハイデガーと同じだと思った。
⇒【参考】古東哲明「ハイデガー=存在神秘の哲学」 (講談社現代新書)


そして、今という時間は常に刹那であり瞬間であり、点であり空間がないことに気づいた。そんな空間がない瞬間瞬間に自分が存在して、生きている。そんな存在の神秘に正面から立ち向かった。
そんな風に「生」そのものの極限へ立ち向かうとき、「死」と同時に出会ったのだと思う。


徒然草ではないけれど、「生」の裏には「死」があって、「死」の裏には「生」があって、どっちもべったりくっついて剥がれない関係性を持つ。

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徒然草 第百五十五段
『死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。』(死とは、向こう側からやって来るものではなく、いつの間にか後ろに迫っているものなのだ。)

徒然草 第百三十七段 
『思ひかけぬは死期なり。今日まで遁(のが)れ来にけるは、ありがたき不思議なり。』(死期は思いがけずやってくる。今日まで死期から偶然逃れてきているのは、奇跡であり、神秘である。)
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彼女は、そんな「生」と「死」の極限を感じてしまった。そんな「存在」や「生死」の神秘や不可思議さを真正面から受け止めた。

そんな危ういバランスで「生」と「死」のどちらに転ぶか。

それは、自分を肯定できるか、自分を愛することができるかにかかっていると思う。
自分を愛することができる人が、他者を愛せる。
他者を愛する前に、自分を愛するのが先である。


自分を愛するとは、安っぽい自己愛や甘えたナルシシズム(自己陶酔)なんかでは決してない。



自分から自分だけに向いた閉じた愛は、ただの自意識過剰に過ぎない。
自分だけで閉じず、開いているのが、自分を愛するということである。


開くことで、自分を肯定できるし、他者を肯定できる。
ありのままをありのまま受け止めることができる。
自分は自分であり、他者は他者である。ありのままをありのまま受け止める。

そこで、きっと何かが突き抜ける。
そこで、何かを突き抜ける。
そこで、世界は変わる。


・・・・・・・

高野さんは、極限まで自分と向き合い、自分と戦った。
自分が自分であるのは、自分が死ぬときだと高野さんは思ったのだろう。
そこで急いでしまい、自殺を選んでしまったのだろう。

この本を読んで、高野さんと最後に会っていたら、僕はこう言いたかった。
『高野さん、自分から死んではダメだ。自分の肉体を殺してはダメだ。自分の自然を殺してはダメだ。
自殺して死ぬことと私が私になることは、決して同じではない。
自殺とは、「みずから」殺すと読むのではなく、「おのずから」殺されると読むべきだ。
この世は無常だから、人はいづれ死ぬ。おのづから死ぬ。みずから死ぬ必要はない。
人は時期が来たら、病い、老い、おのづから死ぬのだ。
からだに任せて、おのづから生きればいい。そして、おのずから死ねばいい。みずから死ななくていいし、みずから生きなくていい。

そして、殺されるべきは無数にある偽物の自分だ。自分は一つであって、その一つの自分を信じ抜けば、それ以外の自分はいづれ淘汰されて殺されるのだ。そこで自分は自分になる。

私は「一人」である。だから、必ず「私は私」になる。一つになる。それが「独り」であるということだ。
今、無数の私に自分が引き裂かれているからと言って、急がなくていい。急いで生きなくていい。急いで死ななくていい。急いでも急がなくても同じだ。

自分は「一つ」になるからこそ、人間は「独り」なのだし、だからこそ、尊い。だからこそ、かけがえがない。だからこそ、唯一無二なのだ。

あなたはあなたでしかなくて、あなたはもう二度と現れない。あなたは未来永劫、永遠にわたって「一人」であり「一つ」である。
「唯一」であることが「独り」であることなのだ。』


・・・・・・・・・・・・

高野さんが命を賭けて書いた日記。それが「二十歳の原点」(新潮文庫)
この本をもう一度読み返すと、線を引きまくっていて、どこを紹介すればいいのか分からない。


1969年1月2日~6月22日の日記の中から、特に心に刺さったものを自分が時に読み返すためにも書き写してみました。(高野さんの熱に引き連られ、引用が膨大になってしまった!)

僕のブログよりも、是非原作を読んでみてください。お薦めです。






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P7(1969/01/02)
『人間の存在価値は完全であることにあるのではなく、不完全でありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ。』

『人間は誰でも、独りで生きなければならないと同時に、みんなと生きなければいけない。』
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P9(1969/01/05)
『人間は不合理な存在である。
いろいろな矛盾を持っている。
人間は肉体をもっている。
肉体は合理だけでは割り切ることができない。
肉体を離れて人間は存在しないし、精神も存在しない。
肉体が生命を持つ。』
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P13(1969/01/15)
『「独りであること」、「未熟であること」、これが私の二十歳の原点である。』
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P15(1969/01/17)
『この頃、私は演技者であったという意識が起こった。
集団からの要請は以前のように絶対のものではないと思い始めた。
その役割が絶対なものでなくなり、演技者はとまどい始めた。演技者は恐ろしくなった。
集団からの要請が絶対のものでないからには、演技者は自らの役割をしかも独りで決定しなければならないのだから。』
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P30(1969/02/01)
『私はその世界の正体を見破り、いつか闘いをいどむであろう。
太宰に何か惹かれるのである。太宰は何が本物で、本当なのかを知っているのではないか。』
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P50(1969/02/11)
『家に帰ってきてよかったと思っている。ここには矢張り憩いがある。
今まで私はあまりに焦りすぎていた。それを距離をおいて眺められる。

私の敵が独占資本であることにうすうす気付き始めた。
・・・
私はもっと人間というものを、自分というものを見つめていく必要がある。
忍耐強く己をみがいていかなくてはならない。』
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P53(1969/02/15)
『矛盾は常に内側にあって、内に貫流するものと同質のものが外に発見できたとき、人は外に向けて怒るものなのだから。』
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P56(1969/02/18)
『それに気付いたとき自分は全く駄目なやつだと思った。
優越意識をもちながら片方では劣等意識をもっている。
被害者でありながら加害者であるのだ。』
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P64(1969/02/22)
『自分に自信をもたぬという生来の弱さの隙間に、アッという間に何かが入り込んで、どうしようもなくガンジがらめにしてしまう。
自分を信ずることなくして一体何ができるのか。』
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P79(1969/03/26)
『「知ろうとすることは存在し、知ろうとしないことは存在しない。おまえはおまえ自身を知らない」(パゾリーニ)』
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P80(1969/03/27)
『エセ‐エセ‐エセ‐ではなく、本当にしっかりしたものを掴みたい。
独りで生きてゆく。そしてみんなと一緒に生きていきたい。
「お早う」と笑顔で一人一人の人間にあいさつできる人間になりたい。』
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P83(1969/03/29)
『ランボーはいった。「私の中に一人の他人がいる」と。
私としては私の中に他人がいるというよりも私というものが統一体ではなく、いろいろ分裂した私が無数に存在しているように思う。
これが私だと思っている私は私でないかもしれない。
人間はとかく都合のいいように合理化して解釈する。』
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P86(1969/03/31)
『何だかつまらない。何も勉強していない(外に向かっているだけで内を見つめ自己を発展させていない)からかもしれない。』
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P87(1969/04/04)
『人は思いを胸一杯にもっているときは沈黙するものであることを忘れていた。』
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P91(1969/04/09)
『青春を失うと人間は死ぬ。
だらだらと惰性で生きていることはない。三十歳になったら自殺を考えてみよう。だが、あと十年生きたとて何になるのか。今の、何の激しさも、情熱ももっていない状態で生きたとてそれが何なのか。
とにかく動くことが必要なのだろうが、けれどもどのように動けばよいのか。
独りであることが逃れることのできない宿命ならば、己れという個体の完成に向かって、ただ歩まねばならぬ。
「己れという個体の完成」とは何と抽象的な言葉であることか。
悦子よ。おまえには詩も、小説も、自然も山もあるではないか。』
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P98(1969/04/13)
『独りである自分を支えるものは自分である。
人間は他者を通じてしか自分を知ることができない。悲劇ではないか。
・・・・
他者によって映し出される己れ、自分は何もないのではないか。』

『後ろをふりかえるな
そこには ただ闇があるだけだ』
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P111(1969/04/18)
『私は誰かのために生きているわけではない。私自身のためにである。
・・・・・・・
もっと新たな泥沼(血とくそ)の中に入っていこうということなのだ。』
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P115(1969/04/20)
『彼らは動物的な肉体関係をもっているのに、そんなものとは遠く離れた世界の中に生きているふりをしている。
その父と母から、性交によって生れてきた私。キリストのいう原罪。
そして私自身も醜い。鈴木との肉体関係をのぞむし、くさいくそもすれば、小便もする。メンスのときは血だらけになる。』
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P129(1969/04/29)
『よく人は、私が変わっているといいます。しかし私は、自分こそ正常な人間であると思っています。
不正を憎み、何よりも正義を愛しているやさしい人間であります。今の社会が偏見と不正に充ちていて不正常なのです。
人と話しても、どうということもありません。
くだらないことを話しているよりも、黙っている方がよいのです。言葉が一体何なのでしょうか。言葉に束縛されるのは嫌いです。不誠実なことばかりしゃべるのもいやです。ただ黙って行動するだけです。
どうしてみんな生きているのか不思議です。そんなにみんなは強いのでしょうか。私が弱いだけなのでしょうか。』
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P134(1969/05/02)
『今という瞬間を生きなければ人は死ぬのだ』
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P178(1969/06/16)
『内部状況のたゆることない変化が、生きているということの中身なのである。』

『自分を強烈に愛するということ、それが私には欠けていないか。』
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P179(1969/06/17)
『ああ、人は何故こんなにしてまで生きているのだろうか。
そのちっぽけさに触れることを恐れながら、それを遠巻きにして楽しさを装って生きている。
ちっぽけさに気づかず、弱さに気づかず、人生は楽しいものだといっている。』
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P187(1969/06/20)
『現在を生きているものにとって、過去は現在に関わっているという点で、はじめて意味をもつものである。』
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P197(1969/06/22)

旅に出よう
テントとシュラフの入ったザックをしょい
ポケットには一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう

出発の日は雨が良い
霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら

そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく

大きな杉の古木にきたら
一層暗いその根本に腰をおろして休もう
そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう

近代社会の臭いのする その煙を
古木よ おまえは何と感じるか

原始林の中にあるという湖をさがそう
そしてその岸辺にたたずんで
一本の煙草を喫おう
煙をすべて吐き出して
ザックのかたわらで静かに休もう

原始林の暗やみが包みこむ頃になったら
湖に小船をうかべよう

衣服を脱ぎすて
すべらかな肌をやみにつつみ
左手に笛をもって
湖の水面を暗やみの中に漂いながら
笛をふこう

小船の幽かなるうつろいのさざめきの中
中天より涼風を肌に流させながら
静かに眠ろう

そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう
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4 コメント

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Unknown (れいこ)
2009-09-29 03:47:51
私は、これをまさに彼女と同じ年頃に読みました。
当時の日記にも残しています。

当時、何を感じたのだろうと日記を引っ張り出しました。あまりにもあっさりしたことを書いてあったけど、これもまた、当時の若い私のリアルな感想なのでしょう。

「高野悦子『二十歳の原点を読んだ。彼女が自殺したのは二十歳、大学三年の6月24日。要するにもうすぐ。弱さ。孤独。彼女が常に感じていたもの。「死」という考えにとりつかれて、それに向かって突き進み、本当に実行してしまった。彼女の文章を読んでいると、「死」という選択肢以外のものを与える余地はない気がする。彼女の中では生きるということに救いがない。(中略)死んだらどうなるのかわからないけど、今生きてる世界で生きることができないのなら、死んでみるしかない。(中略)
私は若いのに焦りすぎなんじゃないか?私のペースでやっていこう。人生なんてなんとでもなる。」

こんなことを淡々と書いていました。これは人に見せる用の日記ではないけど、二十歳の私は、今の私がこうして人にバラしても怒らないと思います。

彼女がどんなことを書いていたのか、よく思い出せないけど、とにかく彼女が死にとりつかれて、のみこまれて、どんなことがあってもその選択肢以外選びようがない、そんな心境だったことだけは、ひしひしと伝わってきて、それでとても痛々しいことではあるけれど、そこまで死につかまれてしまったら、その先を覗いてしまったのはしょうがない、というようなある種絶望的な肯定のような感情を持ったのを覚えています。
それでも、「人生なんてなんとでもなる」と思えたのは、私の健康的な若さゆえでしょう。

結論も何もないコメントですが、印象深かった本が出てきて思わず反応してしまいました。
もう一度、その本を読んでみようと思います。
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日々是好日とかケセラセラ(Que sera sera) (いなば)
2009-09-30 09:03:44
>>>>>>>>>れいこ様
リアクションありがとう!
元々、この本はれいこさんの親友であるAさんから薦められて読んだのです。
他にも何冊かお薦め本を教えてもらい、元々小説をあまり読まない(評論とかなんとか学とかそういうのが多い)自分としては、。いい道しるべで感謝してます。

それにしても、れいこさんが20歳周辺でこの本を読んでいたとは!
初版は昭和46年5月ですから、ものすごいロングセラーですよね。高野さんも、きっとこれだけ広く読まれたことで成仏していると思います。文字通り、仏に成る。



僕も、一度読んだ後に、客観的にパラパラ読み返しながら感じたけど、自分が20歳当時、元気溌剌!な状態でこの本を読んでいたら全く印象変わったと、僕も思いました。

前半は学生運動に入り込もうとすれども、完全に入り込めない自分の内面の葛藤が多いですが、後半からどんどん孤立していっている調子と、れいこさんがいうような「死にとりつかれて、のみこまれて」という閉じた空間にどんどん落ちていく様子が、読んでいて生々しい。あまりに救いなく一直線に自殺へと進んでいっている描写があって、とても悲しい。


『そこまで死につかまれてしまったら、その先を覗いてしまったのはしょうがない、というようなある種絶望的な肯定のような感情』というのはその通りなんですよね。感受性が豊かで、文章が美しいために、高野さんの深い絶望を読んで、読者はなぜか高野さんへ対する強い肯定を感じるのですよね。僕らが、高野さんの本を読みながら、本を通して鎮魂しているのかもしれない。

「人生なんてなんとでもなる」とか、「ケセラセラ(Que sera sera)」「明日は明日の風が吹く」「日々是好日」っていう、自我が抜けたスタイル、これを根底に持てるかどうかは、自分がどんどん閉じていこうとして負のスパイラルに突入しようとする時に大事なあり方だと思いますね。

結論とか勿論いりませんよ。コメントありがとう。読んでいる人がいるのに驚いたと共に嬉しいです。
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生きる力が湧く本 (A)
2009-10-04 22:12:33
私が“れいこさんの親友のAさん”です。

そもそもこの本は、「私は今死のうとしている人に読ませれば絶対死ぬのをためらうであろう本を最低でも5冊知っている!」といなばさんに恥ずかしげもなく言ったとき、ほろ酔いの頭に浮かんでいたうちの1冊なのです。

正直、この本暗いです。そして高野さんは最後には自ら命を絶ちます。それがどうして、これから死のうという人の命を救う助けになりましょうか。

でも、この本、気持ち悪いほど生きる力が湧いてくるんです。

本を読むほどの気力のない人にはぜひ彼女のこの言葉だけでも知ってほしい。「『独りであること』『未熟であること』、これが私の二十歳の原点」。

これほど人間の「生」の本質をついている言葉ってあるんでしょうか。この原点を知って生きている人が、そう簡単に「死」を思いつくものでしょうか。高野さんほど自己と徹底的に戦い尽くしもせず、現実を受け入れられないことの疲弊から死のうとしている人がこの本を読んだら、「一晩だけ考えてみよう」って気になる気がするんですよね。

そう、いなばさんの言う「高野さんの深い絶望を読んで、読者はなぜか高野さんへ対する強い肯定を感じる」って、その通りだと思う。読者の高野さんへの強い肯定は、苦しんで生きている高野さんへの肯定であって、死を選んだ高野さんへの肯定ではないんです。だから、生きる力が湧いてくる。

ちなみにこの本は、もともと私とれいこさんの共通の友人から勧められて読んだものです。私もれいこさんみたいに当時日記をほじくり返してみました。

れいこさん風に当時の日記を書き写してみます。「どんなに愛されてもどんなに愛しても、人間は究極的に一人である。一人で生まれて一人で死んでいく。もちろん一人で生きていくことはできないが、もし人間が究極的に一人であることを自覚していなかったら、人間はもっと孤独を感じることになるかもしれない。大切なのは、自分を信じ、自分を大切にしてあげられるのは自分しかいないという自覚を持つこと。そして、周りの人たちに、自分を理解してもらうとか、大切にしてもらうとか、信じてもらうことを期待しすぎないこと。それはとっても重要なことだし、それをわかっているひとはとても強くしなやかに生きている」。

今でも私は自分のことは自分にしかわからないと思っています(笑)

若いころの心の潤いを思い出させてくれてありがとうございました。
返信する
日記 (いなば)
2009-10-05 11:05:40
>>>>>>A様
ここではお初です。会って感想を話し合う前に、せっかくなのでブログでもお返事をば。

確かに、逆説的に生きる勇気がわいてくる本のような気がしましたよ。
高野さんのようにあそこまで自分をえぐり出して、内面の葛藤や自分の外面性や・・そうういう自分の矛盾や嘘や多面性を見つめ、目に見えない敵と戦った人。

読者は、自然と高野さんの内面世界に引っ張られていくんですよね。そして、高野さんを受け入れる。ありのまま受け止める。それは、全人格の全肯定です。そういう風に言葉で言う人が回りにいれば、彼女はきっと自殺しなかった。「あんなこともあったわねー」 なんて笑いながら回想する60歳の女性になっていたんでしょう。



Aさんの日記、「どんなに愛されてもどんなに愛しても、人間は究極的に一人である。一人で生まれて一人で死んでいく。」
これは、禅の言葉で言うところの、「無一物」の世界ですよね。
人間は裸で一人生まれ、裸で一人死んでいく。何も所有せずにこの世に登場し、裸になり土へ帰る。このことが持つ深みはすさまじいものだと思いますよ。

だからこそ、Aさんの日記のように「大切なのは、自分を信じ、自分を大切にしてあげられるのは自分しかいないという自覚を持つこと。そして、周りの人たちに、自分を理解してもらうとか、大切にしてもらうとか、信じてもらうことを期待しすぎないこと。」だと思う。自分と他者は同じ「人間」ではあるが、「違う人間」である。言語表現だと一見矛盾する表現になるんですよね。一人とは、かけがえがないということだと思う。
Aさんと僕で同じ部分があれば、それは分かり合える。違う部分は自分にしか分からないかもしれない。でも、違う部分があるからこそ、尊いのです。自分にしか分からない部分があるからこそ、生命は尊い。それは安いヒューマニズムではないのですよね。

いい本紹介してくれてこちらこそありがとうございました。二十歳のときの自分を思い出したりして、未分化な自分の状態を、忘れずに大切に保ち続けたいと、思えます。


僕は日記を書いたことがありません。
でも、高野さん、れいこさん、Aさんのように、日記を書くということは自分の中を見つめるということ。すごく大事な作業です。
女性のお化粧は自分の外を見つめることでしょうか。
そうして自分の中と外を日々見つめながら生きている人の言葉はかけがえがないものだし、すごく信用る言の葉だと思います。
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