日常

ボルヘス「七つの夜」

2011-12-27 21:55:41 | 
ホルヘ・ルイス ボルヘスの「七つの夜」みすず書房(1997/6)を読みました。

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みすず書房HPより>
晩年を迎えたボルヘスは、彼の街ブエノスアイレスのコリセオ劇場で連続講演を行なった。
「神曲」「悪夢」「千一夜物語」「仏教」「詩について」「カバラ」
そして自らの経験を踏まえつつ文学の歴史を遡及する「盲目について」。
ボルヘスの文学を養い、彼の精神と一体化しているこれらの主題について、この盲目の作家は聴衆=読者に向けて、そっと打ち明け話をするように語り始める。「紳士、淑女のみなさま……」

原稿に手を入れ終えたボルヘスはこうつぶやいた。
「悪くない。さんざん私につきまとってきたテーマに関して、この本は、どうやら私の遺言書になりそうだ」。
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本屋で岩波文庫版 (2011/5/18) が出ていたのを見かけたので、つい気になって本棚に積読になってたのを想い出したもので。




アルゼンチン生まれの盲目の詩人ボルヘス(1899-1986)。
この本では「神曲」「悪夢」「千一夜物語」「仏教」「詩について」「カバラ」「盲目について」というテーマで語っています。

それぞれ面白かったですが、個人的には「仏教」(個人的なマイブームだからか?)が特に気に入りました。
それぞれの章から印象的な台詞を。


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■「神曲」より
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『偶然と言うものは存在しない、私たちが偶然と呼んでいるのは因果関係の複雑な仕組みに対する私たちの無知である』
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『ホメロスが「オデュッセイア」の中でこう言っています。「神々は、来るべき世代がなにか歌う事をもてるように、人間たちに不幸を用意する。」』
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『私たちはダンテが大いに感動したことを知る。それから彼はあたかも死人のごとく倒れるのです。
人は誰も人生のわずか一瞬において、永遠に自分を定義されてしまう。その瞬間に、人は永遠の自分に出遭います。』
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■「悪夢」より
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『夢の中で私たちが天国にいることも地獄にいることも不可能ではない、おそらく私たちは何者か、シェィクスピアがthe thinking I am(私であるところのもの)と呼んだ何者かになるのです。それは多分私たち自身であり、神である。けれどこのことは目覚めると忘れてしまう。私たちが夢について調べられるのは、その記憶だけ、その哀れな記憶だけなのです。』
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『シェィクスピアはこう言います。「我々は自分たちの夢と同じ木材でつくられている。」』
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『私たちは本の夢を見ますが、本当は本の一語一語を創作しているのです。』
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■「千一夜物語」より
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『聖アウグスティウスがこう言いました。「時間とは何か。問われなければ分かるが、問われると分からない。」』
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■「詩について」
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『図書館とは魔法にかかった魂をたくさん並べた魔法の部屋である、とエマーソンは言いました。私たちが呼べば、魂は目を覚まします。』
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『本がその読者に出会うとき、初めて美学と言うものが生じます。
そしてその同じ本は同じ読者に対してさえ変化する。何かを加えることができるのです。
というのも私たちが変わるからであり、私たちはヘラクレイトスの川であるからです。』
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『ブラッドリーは、詩の効用のひとつは私たちに、何か新しいものを発見するのではなく、何か忘れていたものを思い出すという印象を与えることであるべきだ、と言いました。』
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『私にとって、美とはある肉体的感覚、私たちが身体全体で感じる何かです。それはある判断の結果ではない。私たちは法則によってそれに達するのではありません。美は私たちが感じるかあるいは感じないかというものなのです。』
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■「カバラ」より
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『カバラの教義によれば、カインや悪魔を含め、ありとあらゆる被造物は、長い転生の果てに、かつてそれが現れ出たところの神性と、ふたたび混じりあう事になるのです。』
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■「盲目について」より
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『作家あるいは人は誰でも、自分の身に起きることはすべて道具であると思わなければなりません。
あらゆるものはすべて目的があって与えられているのです。
・・・
だからこそ私はある詩の中で、昔の英雄の食物、すなわち屈辱、不運、不和について語ったのです。
それれが与えられたのは、私たちを変質させるためであり、人生の悲惨な状況から永遠のもの、もしくはそうありたいと願っている物を作らせるためなのです。』
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・・・・・・・

順番が前後しますが、引用が長いので最後に「仏教」より引用。
まず自分の感想を。

ボルヘスが言うように、ブッダは「目覚めた人」「覚醒した人」を意味します。

僕らは社会の中で巨大な夢を見ているようなもの。
そして、その巨大な夢という繭の中で、さらにego(自我)が織りなす夢を見ている。
「夢」は好意的な方向に膨張すれば希望に満ちたものになりますが、間違った方向に膨張すると妄想になり、悪夢になります。


ブッダは、誰か、それ自体が巨大なego(自我)である誰かが作りだした「夢」から目を覚ましなさい、と言っているんだと思う。


誰かのego(自我)が作り出した夢の中で眠りつづけている間は、そのシステムの中で作られた安定状態にいる。だから、それを「安住の地」と錯覚しやすい。
でも、それは夢に過ぎない。あくまでも誰かのEgoが見せるスクリーンの「夢」に過ぎない。時には悪夢になる。


誰かの夢からは、いづれ覚めなければいけない。
夢は自分でつむぐもの。
自分だけの個人的な夢こそが、その人の人生。それが夢としての人生。人生としての夢。


「自分」という概念も錯覚しやすい。
「自分」という概念は、層構造になっている。
「自分」は決して差別や偏見に満ちたEgo(自我意識)だけではない。Self(自己)としての全体であり中心としての「自分」には境目や境界線ははじめからない。境界線があるのは身体だけだ。


このテーマは、村上春樹さんの『ねむり』という短編に通じるものを感じます。
(個人的に村上春樹さんの作品の中で「恐るべき作品」と感じているのが、「ねむり」という短編(『TVピープル』の一番最後の作品。ドイツ語版の逆輸入の「ねむり」もある)と、「国境の南、太陽の西」という作品です。)



誰かの夢の中に、誰かの「ねむり」の中にいるときは、そこから覚めることを忘却してしまう。
ただ、誰かの夢の中にいる間、その人の人生の時計は停止中の時を刻んでいるようなもの。静かに電池が抜き取られている。
そんな個人的な眠りと無関係に、この世界の時は宇宙的な法則に基づき、刻々と時を刻んでいく。
失われていく。そうして時は失われていく。
だからこそ、自分の時を失わないために「夢」から覚める必要があるのだと思う。そういう人を、昔は「目覚めた人」(ブッダ)と呼んだのだろうと思う。


身勝手な自我が織りなす悪夢にうなされないように。
自分の全体と自分の核とが織りなす夢を見る。
それは、夢を見ながら、目覚めること。



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■「仏教」より
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『2500年前にシッダルタもしきはゴータマという名のネパール王子がいて、ついにブッダすなわち「目覚めた人」「覚醒した人」になった。-それにひきかえ私たちの方は眠りつづけている、あるいは人生と言うあの長い夢を見続けているのですが-
・・・・ジョイスのこんな言葉を想い出します。「歴史とは私がそれから覚めたいと願っている悪夢だ。」』
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『中国や日本の僧院の僧たちが瞑想する時のテーマのひとつは、ブッダの存在を疑う事です。それは真実に到達するために必ず強いられる疑いのひとつなのです。
他の宗教はわたしたちに盛んに軽信を要求します。ですが、私たちはよき仏教徒でありながらブッダが存在したことを否定できる。』
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『ブッダ伝説は多くの美しい絵画、彫刻、詩歌に霊感を与えてきたものである。
仏教は、宗教であるうえに、神話、宇宙論であり、形而上学的体系、もっと正確に言えば、互いに理解し合うことなく論駁しあう一連の形而上学的体系である、というのです。』
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『ブッダの業績の中に啓発的な話があります。矢の喩えがそれです。
ひとりの男が戦で傷つきますが、自分に刺さった矢を抜かせようとしない。それより、射手の名前、属している階級、矢の材料、射手のいる場所、矢の長さを知りたがる。そんなふうにああでもないこうでもないとやっているうちに、男は死んでしまう。

「私だったら」とブッダは言います。「矢を抜くことを彼に説くだろう」と。

矢とは何か。それは宇宙だ。矢とは「私」という概念であり、我々を突き刺しているあらゆるものの概念である。

我々は無意味な問題で時を無駄にしてはならない、とブッダは言います。
たとえば宇宙は有限か無限か。ブッダは涅槃の後、生きているのか否か。そんなことは全て意味がない。重要なのは、我々が自分に刺さっている矢を抜くことだ。それはつまり悪魔祓いであり、救済の法なのです。』
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『輪廻転生するのは魂ではなく、というのも仏教は魂の存在を否定しているからですが、カルマといって一種の精神機構で、それが無限に転生を繰り返すのです。』
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『ケルトの詩人タリージンは、宇宙にはかつて自分のものではなかった姿などないと言う。「私は戦の隊長だった。私は手中の刀だった。私は六十の河川に渡されたひとつの橋だった。私は魔法で水の泡に変えられた。私は星だった。私は光だった。私は木だった。私は本の中の単語だった。私ははじめ本だった。」』
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『この宇宙の歴史のヴィジョンについて考えてみましょう。仏教には唯一神は存在しない。あるいは存在するかもしれないが、本質的なことではない。本質的なことは、我々の運命が我々のカルマによってあらかじめ決められているということを信じることなのです。』
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『私たちは人生の一瞬一瞬において、織物を織ったり織りまぜたりしています。
織られているのは意志、行為、半ば夢、眠り、半ば現(うつつ)ばかりではない。私たちは永遠にあのカルマを織りつづけている。私たちが死ぬときには別の生命が生まれ、私たちのカルマを引き継ぐのです。』
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