あまねのにっきずぶろぐ

婚活している36歳の引きこもり女のブログでっせでっせでっせでっせ。
創作の詩と小説書きでっせでっせでっせでっせでっせ。

映画「マシニスト」あなたの生きるべき世界は、どこですか?

2017-09-21 22:11:04 | 映画
ずっと気になっておりました2004年ブラッド・アンダーソン監督の「マシニスト」を昨夜と今日、二度観ました。










ストーリー


極度の不眠症で1年も眠れず、病的に痩せ衰えた機械工のトレヴァー(クリスチャン・ベイル)。
自宅で不気味な貼り紙を見つけ、新しい同僚に出会って以来、彼の周囲で奇妙な出来事が頻発する。
誰かが自分を陥れようとしていると感じたトレヴァーは、疑心暗鬼になっていく。





この、「疑心暗鬼になっていく」っていうところが一昨日の晩に観た「メメント」のあらすじと同じですやんけ、となりますね。
実際、この映画は「メメント」とよく似たお話だなと感じました。

「メメント」のレナードは騙されている?と不安げになりながらもそれでも自信満々な様子で先へ先へと進もうとするのですが、この「マシニスト(機械工、機械技師の意)」のトレヴァーはとにかくどんどん精神が不安定になってゆくんですね。
そこが違いました、そしてこの映画にはわたしの好きな「サイレントヒル2」という日本のゲームのストーリー要素も入ってるんですよね。

また照明効果でしょうか、青緑に寄った暗い照明とどこか神経質なまでの整頓されたような世界、現実離れした3Dのような世界がとても綺麗で、それでいて重厚感があると言うんですかね、わたし好みの撮り方で、そして「メメント」には惜しくも撮りきれていなかった”切なさや悲しみ”がこの映画にはちゃんと入っていたので、わたしはこの映画はすごく良かったですね。

なんと言いましても主人公トレヴァー役を演じたクリスチャン・ベイルという俳優、わたしはたぶん初めて観たと想うんですが、痩せた彼の演技がすごく良かった。
太ってたら駄目なんかいと言われそうですが、まさしく、この人も太ったら魅力を失ってしまう人だと想いますね。
まあ太っている映画をちゃんと観ていないんでなんとも言えませんが、「ダラス・バイヤーズクラブ」のマシュー・マコノヒーと同様に、痩せた彼は本当に美しいと感じました。

でもクリスチャン・ベイルが病的に痩せた、とか、歩く骸骨、とか、アウシュビッツ収容所のユダヤ人並に痩せ細った、とか言われていますが、確かに凄く痩せてはいますよ、でも自分の亡き父は普通に体質でこれくらいは痩せていましたよ。
死ぬまでは病気なんて全くしない健康的な人でした。
ちょっと大袈裟なのではないかと想います。これぐらい痩せている人はざらにいますよ。

BMI(体格指数)数値だって彼の183cm54.9kgのBMIとわたしの162cm37kgのBMIを計ってみますと、彼が16.39でわたしが14.1とわたしのほうがずっと少ないんですよね。
まぁ骨格によって痩せている見た目は大きく変わるはずですが、彼が歩く骸骨とか言われたらわたしはなんでしょうか、歩く糸、とか言われるのでしょうか(笑)
歩く絹糸のあまねです。どこでも通り抜けられます。ってこれから紹介しないといけないのかな。

まぁ冗談はこれくらいにしてレビューのほうに行きます。

この映画は観終わって、想い返して、嗚呼ー・・・・・・って感慨に耽るような映画なんですよね。
「メメント」も「サイレントヒル2」もそういったストーリーで、最後まで謎が続くわけです。

この映画にも”記憶”というものが大きく関わっています。
この映画は、観ていていったい何が現実で、何がそうではないのかがわからなくなるのです。
トレヴァーは”歩く骸骨”ではなくって、”歩く夢遊病者”のごとくに生きているんですね。

例えば、眠っている間に見る夢の世界と、この現実の世界が地続きな感じに続いていたらどう感じると想われますか?
夢の世界ではどこかへ行って、そして家に帰って来てコーヒーなんて淹れているとしますよね、そしてそこで本当は夢は醒めているのですが、ふと気づくと自分の家のなかで夢の続きのようにしてコーヒーを淹れている自分がいたなら、さっきまでの世界は特に夢の世界だったとは気づかないんじゃないでしょうか?

このトレヴァーという男がまさにそういう世界を生きているんですよね。
普通ではない世界を彼は普通に生きています。

当然、周りは彼のことがわからなくなりますよね。
現実では気違い扱いされて終ってしまいます。
でもそういう人って、たくさんいると想うんですよ。
なんでそうなってしまうのか、っていうのはこの映画を観ればすこしはわかるんじゃないでしょうか。

彼はとてつもないストレスに日夜さいなまれ続けているわけですね。
それが耐えられない限界値に来て、こうなってしまったであろうことは容易に想像できます。

















これはトレヴァーが空港のカフェで知り合った女性の子供と一緒に遊園地のなかの恐怖の館みたいなアトラクションの中に入っている写真です。
トレヴァーは何故か、ことごとく”左側”に行ってしまうのです。
7枚目の写真、右側は”天国”で左側は”地獄”となっています。

聖書にはよく「神の右の御手」と出てきますが、どうやら右は”神の義”で、左はそうではないという方向として示されているようです。
わたしは単純に”右”は”光をつかさどり、”左”は”闇”をつかさどる象徴として示されているのではないかと想っています。
闇なくして光を感じることができないので、双方は同等の価値にあるということですね。

トレヴァーはことごとく”闇”の方向へ行ってしまう人間であったと。
それは言い換えれば”苦”の道、苦難の道と言えましょう。

なんでか?
なにゆえに、彼はどこまでも苦の道を行かねばならんかったのであるか。
人が自分の苦難に直面するとき、ほぼ誰もが感じることではないでしょうか。
なぜ、わたしが、これほどの苦痛を経験せねばならないのか、と。

人は耐えられないなら、逃げなくてはなりません。
脱出、そこから抜け出さないでは、最早生きてはゆけないからです。

トレヴァーはどんな風に?それはこの映画を観てのお楽しみです。
観終わってから、すこし経って、切なさが込み上げて来るような映画でした。









余談



娼婦スティーヴィー役のジェニファー・ジェイソン・リー、いやぁ、観ているときは気づけなかったんですが、自棄に可愛いらしい仕草の人だなぁ・・・と想っていたらば、わたしのベスト3に入れたいほどの映画「イグジステンズ」(イグジステンズについてはちょっとここのわたしのブログで書いてますので良かったら観てみてくださいね)に出てた女優ではあーりませんかっ。
いやぁ・・・すっごく可愛いですねこの人は何の役やっても、自分はヘテロですがかなり、タイプです(笑)
色気があるのにこの可愛さ、あどけなさはなんだっという感じですね。40歳のときか~。
ちなみにクリスチャン・ベイルは当時30歳とか・・・吃驚ですね。40歳は過ぎていると感じましたよ。
トレヴァーととってもお似合いのカップルだと感じました。

別次元では結婚していて欲しいな!という気持ちです。

そう、別次元では、きっと・・・みんな笑顔で会えるでしょう。












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映画「メメント」 あなたにとっての本当に正しい記憶とは何か

2017-09-20 15:35:37 | 映画
昨晩、気になっていたクリストファー・ノーラン監督の「メメント」という2000年公開の映画を観て、記憶というものは、どれだけ”自分”という存在を”自分”たらしめているものであるのか、ということについて考えさせられています。









あらすじ

ある日、自宅に押し入った何者かに妻を強姦され、殺害された主人公・レナードは現場にいた犯人の1人を射殺するが、犯人の仲間に突き飛ばされ、その外傷で記憶が10分間しか保たない前向性健忘になってしまう。
復讐のために犯人探しを始めたレナードは、自身のハンデをメモをすることによって克服し、目的を果たそうとする。
出会った人物や訪れた場所はポラロイドカメラで撮影し、写真にはメモを書き添え、重要なことは自身に刺青として彫り込む。
しかし、それでもなお目まぐるしく変化する周囲の環境には対応し切れず、困惑して疑心暗鬼にかられていく。

果たして本当に信用できる人物は誰なのか。真実は一体何なのか。










レナードが劇中で言ったように記憶というものは確かに正確なものでは決してない。
わたしがそれを感じたのは、ちょっと前の話ですが、わたしがこのマンションに引っ越してきた2009年の10月か11月頃の日のことを姉と話していたときのこと。

姉と兄二人が集まってくれまして、みんなでまだ何も無い部屋の中で持ち帰りした弁当を食べたのです。
みんな同じ弁当ですよ。その弁当がなんであったのか、という話を姉としたときに、全く違うものを姉は挙げたんですよね。
わたしの記憶は酷くはっきりと鮮明な記憶としてあるんですよ。
だから自信を持って、あれは「○○だった。絶対に!」と言うんですが、姉も自信ありげに「違う違う、あれは○○やったて」みたいに反論してくるんですよ。
ゆうても、6,7年前とかのことですよ?
そんなすこし前のことの記憶ですら、ここまで食い違うものなのか、とわたしは驚きました。









記憶というもんがどれほど曖昧で不正確なものであるか。
これを思い知らされると人間はショックを受けるのではないでしょうか。
なんでショックを受けるのかというと、やはりその”記憶”というものは、”自分”という存在を構成するにあたって、大変に重要な必要不可欠なものであると感じているからではないでしょうか。

でも果たして、本当にそうであるのだろうか?とわたしは疑問を持ったのです。







レナードという男は、記憶がもう昔のだろうと最近のだろうとものすごく複雑にこんがらがって、何が正しいのかそうでないのかがまるでわからない状態になっている。
でも彼は不安そうでありながらもとても自信を持って生きているのを感じたのです。
彼はどこかで、記憶というものが自分という存在を作りあげているわけではないと言っているようにわたしには想えました。

そして記憶というものが、果たして正確であれば価値があり、不正確であるなら価値はないのか?ということも考えました。
もし、不正確であっても同じく価値のあるものだとするならば、それは一体、なんと呼ぶものであるのだろうか?

いわばその記憶は”フィクション”の記憶として記憶された記憶です。
”ノンフィクションの記憶”と、自動的か故意に、作られた”フィクションの記憶”。
本物の記憶と、偽物の記憶。
人が本当に、必要とする記憶がもし、偽物の記憶であった場合、その偽物の記憶は本物の記憶より価値が勝るのだろうか。









少なくとも、レナードが生きてゆく為に必要としたのは、偽物の記憶だったことが映画を観ると理解できます。
彼が自分を自分たらしめる記憶として選んだのが、偽物の記憶だったということです。
彼は本物の記憶よりも偽物の記憶に価値を置いた。
それは言うなれば、彼は本物の自分よりも偽物の自分、フィクションの自分に価値を置いた、ということになるのではないだろうか。

そんな彼の眼は、悲しくも、美しくいつもキラキラと輝いているのは何故なのでしょうか?
復讐に燃えているから、というよりも、彼は偽の記憶を持ったこと、その記憶を全身で受容したことによって、彼はまるで生まれ変わったように生き生きと生きられているかのようにわたしには見えたのです。

そんな彼を、最初は哀れに感じる自分がいたのですが、時間が経って、彼の存在はものすごく素晴らしい存在のように想えてくるような、彼が選び取った正しい記憶は、フィクションだったことと、自分が現実よりもずっと創作世界に重きを置いて生きていることの共通した生き方があることにやっと気づけたのです。

彼は決してふわふわした世界を生きているわけではないのではないか、彼はむしろ、本物の記憶をしか信じない人たちよりもずっと確かな世界を生きているかもしれないのです。














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映画「リリィ・シュシュのすべて」と「リリア 4-ever」少年少女たちが知ってゆくもの

2017-09-18 10:37:31 | 映画
自分が14歳のとき、どんな感じやったかなというと、自分はまあ、クラスの男子グループに嫌がらせをされる毎日で、それが嫌になって、学校が苦痛になり、不登校になり始めた頃ですわ。
クラスの男子たちになんで嫌がらせをされ始めたかというと、最初彼らはわたしをグループデートのようなものに誘い、わたしがそのデート場所について、わがままを言ったので彼らがキレて、「なんやこいつ、大人しい感じのイメージと全然ちゃいますやんけ」みたいな感じになったんでしょうね、それから嫌がらせが始まったんですわ。

わたしも当時から強気な性格だったので、彼らを睨み返したり、わたしもキレて彼らの椅子を蹴り飛ばしたりしていたのですが、それでも相手は3,4人とかだったかな、どうしても多数に対して、人は弱気になってしまうもので、ものすごく内心ではつらかったのです。

その男子グループの男共と、他のクラスのヤンキーたちに追い掛け回され、自分は追い込まれて襲われそうになったこともありました。
今想いかえせば、可愛い奴らだったので、襲い返したったらよかったなと想います。
「おい、ちんぽ、立ってんだろ?ほら、出せよ、出せよ!この、童貞のふにゃちんが、しこって見せろよ!あほがっ」と罵倒してやりたかったですよね。
ね、女性のみなさん。
たぶん、そう言ってたら彼らはドン引きに引いて、その後嫌がらせはさっぱりとなくなったことでしょう。
わたしは今からでも遣り返してやりたいですよ、彼らにね。
「おい、パンツ脱げよ、パンツ濡らしてんだろ?てめえのふにゃふにゃちんぽをカッチンコッチンにしたろかー」と言って、彼らに恥辱を味わわせてやりたいですぜ。
彼らのチンポを一本、一本、裸足で踏み潰し・・・って、え?もういいって?そんな話はよせ?
では、彼らのタマを、一つずつ蹴り上げ、蹴り飛ばしましてぇ・・・ってもうええか(笑)

こんな朝の6時半に俺は何を書いとるんだ。
こんなことを書き始めたのも、映画「リリィ・シュシュのすべて」と「リリア 4-ever」という鬱になる映画と巷で話題の映画を二作続けて観てしまったせいです。

あなたもよかったら是非、この二作を続けて観てみて、「おまえのチンポを蹴り上げたりましょうか~」という気持ちになるのかどうか、試してみてください。

なんでかというと、男たちの性欲があの場になければ、彼女たちは全く違う人生を歩んでいたという映画でもあるからです。

この「リリィ・シュシュのすべて」と「リリア 4-ever」二作品には、両方とも少女に対する売春(人身売買)、レイプ、自○というものが描かれています。






「リリィ・シュシュのすべて」岩井俊二監督(2001)

















観たのはもう何度目かも憶えていませんが、今回はそれほど観終わっても、落ち込まず、むしろスカッとしたような気さえしました。
岩井俊二監督の最高傑作と言って良いでしょう。
監督がこの映画を撮ったのが36,7歳の頃だと知って、自分くらいの年でこの映画を撮ったのかぁと想うと、なんと若々しい感性なのかと唸らされました。
彼が遺作にしたいと言った納得させられる傑作です。
36年生きてるとね、14歳やそこらの子供たちに対して、罪だの醜いだの汚いだのと議論をすること自体が可笑しいと想えてくるもんです。
これは馬鹿にしているんではなく、むしろ尊敬に値する天使のような純真な存在たちであるのだとわたしは想うようになってきましたね。
彼らが何を大人の真似をした口を利き、誰を虐め、誰に危害を与えようとも、彼らは罪なき存在たちなんです。

少年犯罪、いじめ、なんで起こるのかはすべて、大人の責任なんです。
全部、彼らを育てる大人が原因にあるということです。

夜回り先生の水谷修氏は彼らは25歳まで少年であるから少年法で護られるべきだと断言しましたが、いやいや、30歳を過ぎるまで、全員が子供ですよ。
純粋で仕方ない存在です。
彼らは皆、少年です。成人と同等に罰されるべきではない。
もし少年を罰するというのならば、その周りの関わってきた大人も罰さないでは理不尽な話なんですよ。

映画の話に戻りますけれどもぉ、この映画は別にリアルだから傑作なわけではないんです。
この映画って、少年らが何をやらかそうが野放しなんですよ、ほぼ。
ほったらかされているんです、彼らは皆。
だれひとり、どれほど罪悪の念を感じようが、彼らは刑罰を与えられはしていないんです。
それはなんでかとゆうと、彼らはまだ子供だからです。

これが大人なら、ほんとうにどん底を映さなければ傑作にすることができないはずなんです。
彼らが何をやっているか、彼らは盗みを働き、暴力を奮い、レイプし、果ては○○してしまうわけなんです。

何故この映画が鬱映画、観なければ良かった映画、救いが皆無の映画と言われながらも同時にあまりにも美しい傑作だと評価されているのか。

それは彼らが、少年たちだから、ただそれだけだからなんです。
これが30歳を過ぎた男女たちが繰り広げていたなら、もう、どれほどドヴュッシーのピアノ曲をガンガンにかけて、足利市の美しい風景をバックにしたところで、どんろどんろの泥溜めみたいな映画になるはずですよ。

何が言いたいのかと言いますと、彼らは何をやっても、赦されてしまう世界をこの映画は描き、その世界を監督は創りあげたかったのではないか~?と今の今想ったということなんです。

全部、即興で、自動書記状態でレビューをほぼ書いてますからね。今の今、わたしはそう想ったんです。

何事も赦されてしまう世界、そう、その世界はまるで、楽園と言える地獄、地獄と言える楽園と言えるのではないだろうか。

沖縄のシーンも、楽園みたいな地獄で、地獄みたいな楽園じゃないですか。
あのダツっていう魚、夜の海に光を向けると飛んでくるってもっと早くゆうてくれよって話じゃないですか。
あんな魚飛んできたらどんなパラダイスも一瞬にしてゲヘナみたいな場所と化すじゃないですか。
監督はきっと、そういう世界を撮りたかったのではないだろうか。

そういうことだので、もう朝の8時か、次はお待ちさせまして、「リリア 4-ever」のレビューのほうに参りましょうか。
『リリア 4-ever』(リリア フォーエバー、原題:Lilja 4-ever)2002年公開のスウェーデン映画です。




「Lilya 4 Ever」ルーカス・ムーディソン監督








この映画は非常に残念なのですが、日本の劇場未公開作品であり、日本語字幕のDVD化もされておりません。
ですのでわたしは動画をネットで探して、英語の字幕を自動翻訳して観ました。

この映画の色合いと美術的なものや子供の着ている服など、わたしはちょうど最近Lise Sarfati (リーズ・サルファティ)という写真家を知って、何枚か好きな写真をPinterestに載せたのです。
このリーズ・サルファティの写真とよく似ているように想い、わぁ、あの世界が映画で観れる?!と想って、しかも重い映画と評価されていたので重く苦しいものがほんとうに好きなわたしはとても期待して観ました。
これがリーズ・サルファティの写真です。映画は舞台が旧ソ連、この写真は1992,1993年辺りのモスクワとなっています。



















結構似ていると想われませんか?


良かったらyoutubeにも検索すれば映画がありますので、序盤の当時14歳かそこらのオクサナ・アキンシナが演じる母との別れのシーンだけでも、大変素晴らしいので観て頂きたいものです。
始まり方が面白くて、ニンフォマニアックの始まり方みたいなうるさい音楽(笑)で始まるのですが、ここら辺が何か東欧映画(勝手なイメージ・・・)っぽい味を出しているなぁと想って好きです。

この少女リリアは設定は16歳ですが、演じているオクサナは14歳とかなので、どうしても14歳の少女として観てしまいます。
人身売買というものが、当時だけではなく、現在でも行なわれ続けているロシアの町(途中からスウェーデンに移りますが)、それは先ほど載せたリーズ・サルファティの写真を観ても窺い知れるものではないでしょうか。
子供たちがきっと凍えるような寒さのなか、トンネルの中のような場所で眠っています。
貧しさの隣には何があるかというと、そこには大人だけでなく子供たちの売春があり、また臓器売買などの取引きも行なわれているであろうことは容易に感じ取れます。
貧しさのなかで、力も知恵も大人のようにない子供たちは商品とされてゆくのです。
それは女性という存在もそうです。男性に対して、女性は力が弱く、彼女たちは弱者です。

わたしはレイプと呼んでもいいのかもしれない経験はしたことがあります。
当時22歳だったわたしは父を亡くしたばかりで、すべてに自棄になり危険も顧みず、サイトで知り合った男性の家に一緒に行って、処女だったわたしは、あまりの痛さに必死に拒んだのですが、相手は力任せに行なおうとして最後にはキレてわたしの脚を叩きました。
まだ処女膜も破れていないわたしは涙を流しながら開いた股がぷるぷる震えたまま閉じることさえできませんでした。
それがわたしの、初めての男性の経験です。
その男性は27歳で若くイケメンでしたし(笑)、繊細な感受性の持ち主だったので、まだ心の傷は癒えるのが早かったかもしれません。
もし、レイプの相手がこの映画のなかに何度か登場する何人もの野蛮な野豚みたいな中年男性だった場合、その傷は癒えるのは、かなり遅かったのかもしれません。

でもどんなに若くてタイプな男性だったとしても、レイプをされたり、暴力を奮われたら、女性の傷口というものはそうは閉じるものではないですよ。
それは力の差より、女性は男性に対して、多くが優しさを求めているからです。
わたしも昔から男性からの暴力的なものは普通に経験してきたので、男性からの暴力に対して、酷く恐怖している面を持っています。

わたしの人生に男性からの暴力がなかったなら、わたしは今働いているのかもしれません。

強要される売春がなかったなら、彼女たちはいま普通に生活をしているのかもしれない。

でもわたしは、今のこの生活を本当にありがたく想っています。
彼らの暴力がなければ、手に入らなかった、この自由な生活を。

男性たちに、最早なにも望みません。
わたしたちはあの日を境に、男性に対する幻想はすべて滅び尽くしたからです。
わたしたち女が望むもの、それは、キリスト・イエス、その愛、それのみです。




















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ギンヤンマ

2017-09-17 20:02:58 | 日記
今日、下のポストを見にマンションの階段を下りようとしたら、
安全の為に網戸は閉まって開けることの出来ないようになっている窓のところで
ものすごいバタバタッと羽根を羽ばたかせて往生(困っているの意)している大きなトンボを見つけた。
わあーまたまたトンボなんて、見るのは何年ぶりやろとわたしは感激し、
外へ逃がしてあげようと掴もうとしたのだが、トンボの掴み方というのは
だいたい、羽根を揃えてつまむものやろうというのはわかっていたのですが、トンボちゃんが
それはそれはもんのすっごく元気で羽根を高速にバタつかせているもんで、
掴むのが難しく、これはどうやって逃がしたろかいな、とわたしも困って
何遍も羽根が壊れぬようにと、そおっと両手で囲んで掴もうとするのだが
なかなか掴んで、指にしっかと掴まってもまた飛んでゆく、の繰り返しで
わたしは困惑しちゃいました。
しかしそのわたしの困惑が相手に伝わったのでしょうか、彼(彼女)は
わたしの指に両手両脚で掴まったまま、離れぬようになったので、
よっしゃあっと心内で歓喜し、わたしはそのまま自分の部屋のドアの前の
共用廊下の手摺りのところから放してやると、こんどは音もさせずに飛び立ってゆきました。
あの瞬間というのはほんま、こちらも爽快で切ない感動をいつも与えられます。

さきほど、あの大きなトンボはなんてゆうトンボだったのかな?と想って
調べてみると、オニヤンマのようにトラ柄ではなかったと想うし、眼が綺麗な黄緑色だったのを
憶えていたので、たぶんあれはギンヤンマではないかと想います。
大きさは7cmから8cm、それ以上あったかもしれません。
とても可愛らしくて、あの子はこれからどうやって生きてゆくのだろうと想いを馳せます。
この台風の暴風のなか、どこで避難をしているのでしょうか。
夜はあの大きな眼を瞑って眠るのでしょうか。

ギンヤンマといえば、わたしはキセルの「ギンヤンマ」という好きな曲を想いだしました。
キセルの音楽は亡き父と一緒に車のなかでよく一緒に聴いた想いで深い音楽です。
いま聴くと、哀しくもなりますが、キセルの独特な懐かしい優しさは久しぶりに聴いてみても
落ち着く穏やかさがありました。

2010年にわたしがアップした動画があるので、良かったら観てみてください。




ギンヤンマ.wmv





映っている写真は当時2008年頃に住んでいた群馬県の館林市というところとその付近と、
それからわたしの大切な映画である「リリィシュシュのすべて」という映画の舞台になった
その近くの栃木県の足利市の渡良瀬川の鉄塔が観える河川敷の風景です。
当時、世話になった男性の方がいまして、彼にわたしは大変助けられました。
その彼と一緒に彼が借りてくれたレオパレスで一緒にリリィシュシュのすべてを観た後、
その舞台の場所、中橋やCD店やラーメン屋さんや学校や田園などへもいくつもの場所を彼が連れてってくれたのです。
友人が一人も居ないという孤独で世話焼きな彼の存在は今想えば、母性が強かったなぁと最近も想いだしました。

今頃どうしているのでしょう。
このままでは甘えすぎてしまうからと言って、わたしから連絡を取らないようにと言ったのです。

でも結婚するなら、彼のような驚くほどに忍耐の強く、母性の強い世話焼きタイプでないとわたしは駄目なのかもしれません。

キセルのギンヤンマの歌詞では

とんでもないけど
でもやっぱりゆくよほかにないもんで


と歌われています。

どこへゆくのかとゆうと、そこはやはり、とんでもない場所なんですね。
とんでもない場所というのは、とんでもなく、暗い場所、苦しい試練の場所のようなところではないかとわたしはこの曲を聴いて想うのです。

自分のゆく場所も、たぶんそうゆう場所なんだろなとわたしは感じています。











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Irma

2017-09-17 14:51:16 | 





イルマは、これから産まれようとしている。
彼女が、何をもって産まれようとしているのか、我々はまだ知らない。
イルマは、これからどんどん成長してゆく。
彼女は、まるで産まれられなかったすべての胎児の集合生命のように
この地上に何かをもたらす為に上陸しようとしている。
イルマは、望んでいる。
この地上を揺るがし、すべてを破壊し尽くさんとする威力で
彼女は、夢を見ている。
イルマよ、貴女の祈りはすべて叶えられる。
我々は、貴女を殺し過ぎた。
貴女の報復は、我々にとっても、酷く正しい。
我々は、貴女の分身を破壊し続け過ぎた。
イルマよ、貴女の報いは我々に、同じ方法をもって。
我々は、胎児を殺し過ぎた。
我々は、貴女を苦しめ過ぎた。
彼女の報復は、我々にとって、まさしく条理である。

















Christian Löffler - Undefined Season





















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