このごろの巷に絶えて見られぬもの。その名はインテリゲンツァ。
「知識人」という人々。Wikipediaで、「インテリ」を引いてみると、「インテリ」はもはや、死語になり、その代わりに出てきたのが、「ハイソ」で、それも死語になったんで、とりあえず、「セレブ」が関連語としてあるらしい(私としては、インテリゲンチャとハイソ・セレブは別物と思うんだけど)
ついでに言えば、インテリの対義語は「大衆」と言うことであるらしい。
ちょっと前まで、インテリゲンツァは、目指されるべき人であった。単にベンキョーができるというカテゴリーではなかった。大衆がその日々の生業に追われてすることができない学問教養を大衆のかわりに身につけ、大衆に還元する人々であった。それは、奉仕でもあり、名誉でもあった。それぞれの社会にはそれぞれのインテリゲンツァが居り、そのコミュニティの知識源となり、知識バランスをとる役割を担ってきた。「ハイソ」などと違っているのは、インテリが「知識の良心」を体現する役割を自負していたところではなかったか。ただ、正しい知識、新しい知識を教えてくれるだけではないのがインテリゲンツァだ。
「長屋」には、「長屋のインテリ」、「浮世床」には「浮世床のインテリ」が存在したわけだ。
インテリゲンツァが居なくなってしまったのは、教えられるべき大衆がいなくなってしまったからではないか、と思う。「職人」「農民」という自負を持つ対象がいなくなり、「知識の良心」を説くべきインテリゲンツァはその役割を宙吊りにされてしまった。人々は自分がどのカテゴリーの自負を持つのかなど、気にも留めず、この世を泳いでいく。
それはそれでいいことなんだろう。誰もが何にでもなれるし。
ただ、憂うべきは、「知識の良心」が誰にも、どこでも、語られなくなったことである。
「知識」は「知識」としてしか語られないという時代。
「知識」がtoolでしかない時代。
それは、「知識」ある人にとっても、「大衆」にとっても、そうしてインテリゲンツァなど知らない世代にとっても、渡りにくい場所ではないのか。
「知識人」という人々。Wikipediaで、「インテリ」を引いてみると、「インテリ」はもはや、死語になり、その代わりに出てきたのが、「ハイソ」で、それも死語になったんで、とりあえず、「セレブ」が関連語としてあるらしい(私としては、インテリゲンチャとハイソ・セレブは別物と思うんだけど)
ついでに言えば、インテリの対義語は「大衆」と言うことであるらしい。
ちょっと前まで、インテリゲンツァは、目指されるべき人であった。単にベンキョーができるというカテゴリーではなかった。大衆がその日々の生業に追われてすることができない学問教養を大衆のかわりに身につけ、大衆に還元する人々であった。それは、奉仕でもあり、名誉でもあった。それぞれの社会にはそれぞれのインテリゲンツァが居り、そのコミュニティの知識源となり、知識バランスをとる役割を担ってきた。「ハイソ」などと違っているのは、インテリが「知識の良心」を体現する役割を自負していたところではなかったか。ただ、正しい知識、新しい知識を教えてくれるだけではないのがインテリゲンツァだ。
「長屋」には、「長屋のインテリ」、「浮世床」には「浮世床のインテリ」が存在したわけだ。
インテリゲンツァが居なくなってしまったのは、教えられるべき大衆がいなくなってしまったからではないか、と思う。「職人」「農民」という自負を持つ対象がいなくなり、「知識の良心」を説くべきインテリゲンツァはその役割を宙吊りにされてしまった。人々は自分がどのカテゴリーの自負を持つのかなど、気にも留めず、この世を泳いでいく。
それはそれでいいことなんだろう。誰もが何にでもなれるし。
ただ、憂うべきは、「知識の良心」が誰にも、どこでも、語られなくなったことである。
「知識」は「知識」としてしか語られないという時代。
「知識」がtoolでしかない時代。
それは、「知識」ある人にとっても、「大衆」にとっても、そうしてインテリゲンツァなど知らない世代にとっても、渡りにくい場所ではないのか。
ええっと。ずっとおんなじこと言ってるつもりなんですけど。言い方変えてるだけで。下から上にコメント、記事って読んでみて。おんなじつもりなんだけどなあ。
>そうみやさん。
お待ちしてました。
そうです。きっとそういう人です。同じように核分裂をする研究ができる人でも、知識人になれるかなれないかはわかれると思います。自分の考えたことが、以下に世に利用されるかでなく、そんな小さいことでなく、世のためには、どの知識を使うことが大事なのかを考えられる人が、その人であると思います。
だから、かっこいい。
うーん、やっぱ、私の記事はわかりづらいんかなあ、とひとりごちました。
読み返しても読み返しても、多分うさとさんが仰ろうとしていることの半分も理解できていないのだろうけど、何回か読んでいるうちにぽこぽこと「こういうことかなぁ」という泡が生まれてきます。
> そのコミュニティの知識源となり、知識バランスをとる役割を担ってきた
泡がぽこり。
何年か前に、土岐市にある「核融合化学研究所」を見学しました。新しい発電(文字通り“核融合”反応から得られるエネルギー)について研究されているのですが、職員の方のひとりが「これが実用化されるまでにはまだ時間がかかる。私が死んだ後になるでしょう。」と。まだ50前後の方が仰るのだから、私だって死んでるかも。
そこで行われていることは誰にでも出来るものではないのは明らかで、職員の方々はきっと誇りを持って取り組んでいるのだと思います。孫たちの世代のために今の自分ができることがある!と喜んですらいそう。
とにかくかっこよかったっす。
部分でなく全体が変わってしまって、コメントの連続性が閉ざされてしまった。
まっいいっか。私にはよくわかる納得できる内容になったのだから。チャンチャン!
一つ一つを考えてみると、確かに知識は今の世の中にもちゃんと使われているんだけど、「知識人」たる人がいるんだろうかと、ちょっと思っています。たとえば、配給だけ食べて栄養不良になった人のような人ってもう絶滅危惧種だよねって意味でね。知識があるということで、指針や、基準を考えることを提起する人って、いるんかなって思ってるです。少なくなったなってね。自分の損得でなく、知識を持っていることの中で生きていける人って少なくなったと思いませんか。
(罪)悪はこの世の唯一の色彩である。てなこと言った人(誰か忘れました。)がいますが、悪行に使う知識も良心ですか?
多面的な知識はブログでも得られます。即効性のない使えない知識は時間の無駄とは思ってません。人間性を育む無駄知識って思います。
簡単にくじけないで、もっともっと、反論してよぉ。
>けんちゃん
けんちゃんにとって、どの辺が難しいのか、読み取るのが難しい。一生懸命考えてみました。
知識、仕事、toolってことでしょうか。
いまや、知識は金儲けの手段でしかなくなったのではないのかな。いかに使うかってこと。使えない知識は時間の無駄ってこと。
本当にそうか。何を使うか、何を使わないかを考えるために知識はあり、それを多面的に考えるためには、多面的な知識が必要。そうしてそれは、即効性のある知識でない場合が多い。新しい問題が出てきたときに考える準備をしているもの、それが本来の知識人じゃないんかな。だから、知識に良心があるっていう意味です。さあ、どうだ?
パソコンの調子が滅法悪いんで、コメント遅くなり申し訳ありません。
今日のぎふてぃで、私の記事が難しいとのご感想がありました。ちょっと悩んでいます。難しいでしょうか。本人としては、目指せ、わかりやすさ、何ですけども。
「仕事」は、目標と期限があるからこそ「仕事」であって、期限がなければ遊びと捉えてます。
原点に立ち返り、目的と、手段と道具を何度も見直します。期限内により完成度の高い方法を模索し続けます。
知識はツールに出来て初めて生かされると解釈してました。
「でしかない時代」がぼやけててよく分かりません。
やっぱりうさとさん難しい!でも皆さん分かってらっしゃるようだし、落ち込んじゃってます。
コメントできない私けんちゃんでした。
でも、これもコメント!?
まったく、おっしゃる通りだと思います。
インテリゲンツァ→(進化)→オタク
ちょっと変ったことを言おうとして滑ったような気がしています
それが、果たして「進化」なのかという疑問はあるけど、生まれたときが違えば、インテリゲンツァになってであろう人がオタクになってるってことはあるよね。
お宅も、奉仕の精神は旺盛ですものね。
ただ、それが良心といえるのか。
でも、良心なんてものに、何の価値もないのかもしれない、この時代。
進化の過程で、2足歩行になったはずなのに、逆にアウストラロピテクスのように、猫背になっているのはなぜだろう。「矜持」がなくなったのはなぜ?
恐竜→鳥のように、small size になったのか?
類人猿はヒトになって繁殖しています。
このように、絶滅危惧種は進化して姿を変え数を増やしているのです。
インテリゲンツァという種に関しても、この猫わん説が当てはまります。
>「知識の良心」を説くべきインテリゲンツァはその役割を宙吊りにされてしまった。
すなわちオタクです。
…あくまで猫わん説ね。
いま、この記事を読んだときに、頭に浮かんできてコメントしょうと開いたら、なんと、あきちゃんがコメントしてありました。
あきちゃんとおんなじ思い?同じ感触とは、うれしいもんです。
少し前に「サライ」って本に白州次郎の特集がありました。
あんな人物になりたいです。
noblesse obligeと似たようなものが、インテリゲンツァにはあったはずです。今はその需要がなくなってしまったのか、供給が止まったのか、とにかくそういうものは少なくなったなあと思ったんで、書いてみました。noblesse obligeは、本来ハイソな方々の果たすべきものだったはずですが、今やその方々は他のことにお忙しそうです。インテリゲンツァも、「知恵を与えられし選ばれたもの」としての義務を持ってたはずです。noblesse obligeと違うのは、生来のものではないということかな。
英語ではないのでご存じなかったんだと思います(知ってる人はちょっと年がばれるか!?)
blog を読んで、[noblesse oblige(高貴なる者の義務)]を思い出しました。
[インテリゲンツァ]って、初めて聞きました。
[ignorance]でやんす。
ちなみに、私はなぜか、インテリゲンツァというと内村鑑三を思います。インテリゲンツァについて考えていた時期によく彼の本を読んでいたからかな。
うさとさんの言われるようにインテリゲンツァとハイソとセレブは別物でしょうね。でも白州次郎はインテリゲンツァでハイソでセレブです。この3つを満たす人はそうはいないと思いますよ。