しつこくって申し訳ないんですが、前回に引き続き「育てる」ことについて書きたいと思います。
前回の記事には暖かいコメントをいただきありがとうございました。
ここに来てくださる方は、本当に良い方ばかりで、「まとも」な方(素直な意味でとってくださいね)ばかりで、だから、私の考えが少し乱暴に聞こえたのではないかと思います。「共に育って行くっていいよ」とやさしく言ってくださる方ばかりで、胸が痛くなりました。ここにコメントを書いてくださる方のご家庭はちゃんと機能しているということが、その方一人一人のブログを拝見していてとてもよくわかります。だから、私のこの記事、前回の記事も極端なものに思われると思いますし、そんな方たちの家庭には不要のものです。でも、私が書きたかったのは、そうではない子が、世の中には少なからずいるということかもしれません。
そこに「愛がない」と断言するつもりはありません。親は親で自分のせいいっぱいで育てようと思っているのかもしれません。でも、大人になる過程で、つらい思いをしている子はいる。学校に行けなかったり、自分を傷つけたり、投げやりになったり、絶望していたり、へとへとになっていたり。親や大人からの「愛」をどうやっても見つけられない子も世の中にはいる。その子たちのことを考えています。
たとえば、肉食獣が草食獣を育てているような親子を見かけます。逆のときもあります。肉食獣にとっては肉を食うことが真実であり、草食獣にとっては草を食うことが真実です。多分、どちらも悪いわけじゃない。でも、その組み合わせはなかなか幸せなものにはなりにくいものです。そんな時、子どもはどうしたらいいのだろうかとずっと考えています。
子どもにとって親は、代わりのないものです。「愛」の量とか、質とか関係なく、いつだって、子どもは親(大人)に愛されることを望んでいる。でも、もし親がそれに応える力がなかったら、子どもはどうすればいいんでしょう。私は、そんな時は、ひと時だけ、子どもは親を捨ててもいいと思います。それは、愛されることを一時的に望まないということです。親(または大人)に愛されることを自分の価値の中心に置かないということです。応える力のない人に望むことは、心をすり減らしてしまいます。それは悲しいことだけど、いつか大人になって、落ち着いて話せる日まで、親を待ってあげなければいけないのかもしれないと思います。親に愛を乞うより、それが、傷ついた子の緊急避難なのかなって思っています。
うまく言えていないのは痛感しています。わかってもらえるかどうか、自信がありません。でも、まだ言えていない考えがあります。だから、しつこいですが、続きは次回に。
今日の記事のおしまいに、前回から次回へと続くこの記事を書くきっかけとなった、ある方の記事に書いた私のコメントを、載せておきたいと思います。
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傷ついたもの、欠落したもの、背負ったもの、それらは残りの人生の中で、埋められていかなければなりません。それが生きるということですから。そうして、それは、謝ってもらうことでも、癒してもらうことでも、愛してもらうことでもないと思います。それでは折り合いがつかぬほど、大きく傷つき、へとへとになり、乾ききってしまっているからです。与えられても、与えられても、求める心は満たされない。求めれば求めるほど、満たされなさが深まっていくばかりです。
ただ一つだけ、本当にその傷を治すものがあります。それは、「育てる」ということです。愛して、いつくしんで、子ども(自分の子であろうと、よその子であろうと)を育てることだけが、救われる道です。自分が満たされなかったことを、取り戻すのでなく、子を満たして育てる側に回ることによって、また、自らも満たされていくということです。生き続けるということはそういうことではないかと思います。
前回の記事には暖かいコメントをいただきありがとうございました。
ここに来てくださる方は、本当に良い方ばかりで、「まとも」な方(素直な意味でとってくださいね)ばかりで、だから、私の考えが少し乱暴に聞こえたのではないかと思います。「共に育って行くっていいよ」とやさしく言ってくださる方ばかりで、胸が痛くなりました。ここにコメントを書いてくださる方のご家庭はちゃんと機能しているということが、その方一人一人のブログを拝見していてとてもよくわかります。だから、私のこの記事、前回の記事も極端なものに思われると思いますし、そんな方たちの家庭には不要のものです。でも、私が書きたかったのは、そうではない子が、世の中には少なからずいるということかもしれません。
そこに「愛がない」と断言するつもりはありません。親は親で自分のせいいっぱいで育てようと思っているのかもしれません。でも、大人になる過程で、つらい思いをしている子はいる。学校に行けなかったり、自分を傷つけたり、投げやりになったり、絶望していたり、へとへとになっていたり。親や大人からの「愛」をどうやっても見つけられない子も世の中にはいる。その子たちのことを考えています。
たとえば、肉食獣が草食獣を育てているような親子を見かけます。逆のときもあります。肉食獣にとっては肉を食うことが真実であり、草食獣にとっては草を食うことが真実です。多分、どちらも悪いわけじゃない。でも、その組み合わせはなかなか幸せなものにはなりにくいものです。そんな時、子どもはどうしたらいいのだろうかとずっと考えています。
子どもにとって親は、代わりのないものです。「愛」の量とか、質とか関係なく、いつだって、子どもは親(大人)に愛されることを望んでいる。でも、もし親がそれに応える力がなかったら、子どもはどうすればいいんでしょう。私は、そんな時は、ひと時だけ、子どもは親を捨ててもいいと思います。それは、愛されることを一時的に望まないということです。親(または大人)に愛されることを自分の価値の中心に置かないということです。応える力のない人に望むことは、心をすり減らしてしまいます。それは悲しいことだけど、いつか大人になって、落ち着いて話せる日まで、親を待ってあげなければいけないのかもしれないと思います。親に愛を乞うより、それが、傷ついた子の緊急避難なのかなって思っています。
うまく言えていないのは痛感しています。わかってもらえるかどうか、自信がありません。でも、まだ言えていない考えがあります。だから、しつこいですが、続きは次回に。
今日の記事のおしまいに、前回から次回へと続くこの記事を書くきっかけとなった、ある方の記事に書いた私のコメントを、載せておきたいと思います。
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傷ついたもの、欠落したもの、背負ったもの、それらは残りの人生の中で、埋められていかなければなりません。それが生きるということですから。そうして、それは、謝ってもらうことでも、癒してもらうことでも、愛してもらうことでもないと思います。それでは折り合いがつかぬほど、大きく傷つき、へとへとになり、乾ききってしまっているからです。与えられても、与えられても、求める心は満たされない。求めれば求めるほど、満たされなさが深まっていくばかりです。
ただ一つだけ、本当にその傷を治すものがあります。それは、「育てる」ということです。愛して、いつくしんで、子ども(自分の子であろうと、よその子であろうと)を育てることだけが、救われる道です。自分が満たされなかったことを、取り戻すのでなく、子を満たして育てる側に回ることによって、また、自らも満たされていくということです。生き続けるということはそういうことではないかと思います。
何かの拍子に知った「求めよ されば与えられん」
・・・こどもの頃,私は,この言葉は随分と酷だと思っていました。そして,かなり長くそう思っていました。でも,与えられるために求めることをしていいと自分に許すようになるのは,地元を離れてからでしたから,まあ,当然そんなものはうまくいくわけなぞないのですけれどね。
「求めよ~」の本質が「与えよ されば与えられん」と同じなんじゃないのかと閃いた(考え直した)のは,自分がこどもを持って小さいヒトタチと必死こいて向き合っている最中でした。そう気付いてからは何年になるでしょうか・・・
私が自分のことを「オヤ業」真っ最中と認識し公言するのは,それが私にはおそらく基本的には向いておらず,私にとっては修行であると感じられるからです。オヤ業,正しくは「オヤ行」なのです。だから,私は「育児」も「育自」と認識し表現しています。他を育てることで自を育て直し(治し)ている。そう認識しているのです。そうして,生きるとは活きることであり,活かされて生かされることだ と考えるようになりました。
まだうまくは脱げない。だけれども,脱げるときが来たら脱ぐでしょう 私も。
有難うございます。そう,うさとさんが「脱げるときに脱いでイイヨ」と促して下さったのだと,勝手に解釈して感謝しています。
いい記事です。書いて下さって ありがとう うさとさん^^
子育ての中で「気がつき」子どもにヒントやきっかけをもらうこともあります。
子どもが親を捨てるんではなく、どう理解していくか?どう対処していくか?観察しているのだと思う。
子どもにとって初めて影響をうける大人が親だから、子どものこれからの理解力や信頼性、ものの価値観などが形成されていくのに影響が及ぼすのではないかと感じます。
そんななか、大人も気がつき考えを訂正し育っていくって方向でともに育つて捕らえ方も変ですか?
色んな人がいて、色んな人生を歩んでこられて、子どもの時の影響がどんな方向へ導くのか?導いてこられたかも、相手と付き合ってみないとわからない状態での人間関係は、一番難しく、一生の課題でもあると捕らえているのですが、うさとさんへの課題と離れてしまった考えかも知れませんし、うまく文章力がないので、伝わったか伝わらなかったかは、心配なんだけど、参加させていただいてよかったのかしら。
かささぎさんが使われている言葉は中身を持って発せられていると思います。
だから、かささぎさんの「親行」や「育自」は納得のいくものです。前回の記事にきくさんがコメントしてくださったように、最終的に親は子のためにあるべきではないかと思っているんです。丸ごとを捧げることで、与えられなかったものが埋められていく。
どうしても、今、書きたい気がしています。
だから、考えがきれいにまとまっていません。でも、今書かなければいけない気がしてます。
かささぎさん、乱暴な記事ですが、ありがとう。
子と接するということにおいて、ここに来てくださる方は、上の方の3分の1に入ってる方たちばかりだと思います。でも、そうでない3分の1とか、そんな環境で育たねばならない子もいますよね。どの子も健やかに育ってほしい。極端な意見になってしまっていると反省していますが、今、この瞬間につらい思いをしている子に、何かを言いたいです。
私のほうこそ、バルタンさんのコメントから、ずれています。ごめんなさい。
親も共に育つということが変なのではありません。それを「共育」などと表玄関に掲げることに違和感を覚えます。「目的」と「結果」は別のものだと思うからです。
「愛情を受けていない」または、
「愛情を受け止められなかった」人が、
「愛情を注ぎ込んで育てること」で、
自分も愛情で、満たされるということかなぁ。
もう少し考えます。
とんちんかんだったら、すみません。
父方の一族は自分らの家系に誇りみたいのを持っていて、それはある種コンプレックスの裏返しなのは明らかなんですが、母方の家系を見下していました。
そんな母には僕らを守る力がありませんでした。
そういう環境に生まれ育った僕は、最初からそれが当然のようにインストールされていました。
大人になって、いろんな人と会い、自分も結婚したりして、育った家とは違った世界があることを知りました。そうして自分の親が歪んでいたことにも気がつきました。このとき、僕は初めて、幼年時代を受け入れることが出来たような気がします。僕にとって大切な目的は、僕がどう生きるかということであって、両親が育ったかどうかは、結果でしかありません。
僕は子供は好きですが、自分の子供を持とうとは思いません。自分がいちばん大切だからです。
そう。そういう意味です。ありがとうございます。
しつこいですが、もうちょっとこのシリーズ続けます。付き合ってくださいませ。
そうやって生きたきましたね。
そうして、いま猫わんさんはここにいる。
それは猫わんさんの力だ。
だから、猫わんさんは素敵だ。
このシリーズ、果てが自分でも見えませぬ。しばし、お付き合いを。