多分、やっぱり、「育てる」ということを考えることの広さがまとまらなさに拍車をかけているような気がします。私の心の中のここには、語りたいことがちゃんとこうやってあるのに、うまく伝えられていないことがもどかしいです。「育てる」側からの話と、「育てられる」側からの話が、一緒くたになってしまっていますね。一つ一つ場合わけをしていくべきなのかもしれないと思います。。(書いても書いても、うまく言えてない気がするので、前の繰り返しになっている部分があると思いますが、ご容赦ください。)
まず、共育という言葉のまわりについて。
私は、親がどう育ったかなんてことに、まったく興味がありません。たとえば、自分の友達が子を持ち、それによって変わったというのなら、その人の友達としての驚きや発見はあります。しかし、それはあくまでも個人的な感想であって、それ以上のものではありません。親になり、成長しようとしまいと、どうぞご勝手にって本当は思っています。確かに成長していく親のほうが、子にとって有益である場合のほうが多いでしょうが、それだけのことです。「育てる」ことの目的は「子が育つ」こと以外にはないからです。だって、自分が育つために子どもを育てるわけではないでしょ?「育つ」主体は子どもであり、それ以外には何もない。花をはぐくむのは土だけど、そのとき限りで土が駄目になろうと、それによって美しい花が咲けばそれでいいんじゃないんのって思えてしまいます。いい花を咲かせるために、どう土作りをすればいいのかということは大切だけど、「こんなに土がよくなりました」なんて、思わないでしょ。たとえば、私が子を育てどう親として育つか、ってことも、ほとんど考えたことがありません。確かに、子どもを持ったばかりは、みんなへたくそで知らないことだらけだろうけど、子への対処の仕方もわからないことだらけだろうけど、それができるようになったから、親として育ったなんてことは、どうでもいいことです。それって、自分の育て方への承認を求めてるだけのような気がしてしまいます。「こうやって育てたい」なんて、傲慢なことだし、一瞬一瞬変わっていく子どもの流れに逆らうことになってしまいかねない。自分の成長具合を考える時間があるなら、子の「今」を見ることに当てたほうがいい。子どもは親の自己実現や達成感のために育つわけではないはずでしょ。「育つ」というそれだけが独立してあるものであり、それは親の人生の実現とは関わりなくあるべきものだと思う。子は「その人」であり、まったく親とは別の人生なのだから。
人は次の世代が育つ手助けをする時だけ、「天」の役割のひとつを担うことができる。それだけで、いい。それを渡されただけで、いい、って思えるじゃん。
「よく育てましたね」という認定書なんて、もらわなくっていい。そんなものを目指さなくっていい。そうすると、「子」そのものが見えなくなってしまい、「よく育てる」ことだけを見てしまう。ご褒美や、承認がなくっても事を為すことが、「子」ではなく「大人」「親」ということではないのかと思う。
近況報告 昨日、うちの庭で転び、両足負傷中です。かっこわろし。
まず、共育という言葉のまわりについて。
私は、親がどう育ったかなんてことに、まったく興味がありません。たとえば、自分の友達が子を持ち、それによって変わったというのなら、その人の友達としての驚きや発見はあります。しかし、それはあくまでも個人的な感想であって、それ以上のものではありません。親になり、成長しようとしまいと、どうぞご勝手にって本当は思っています。確かに成長していく親のほうが、子にとって有益である場合のほうが多いでしょうが、それだけのことです。「育てる」ことの目的は「子が育つ」こと以外にはないからです。だって、自分が育つために子どもを育てるわけではないでしょ?「育つ」主体は子どもであり、それ以外には何もない。花をはぐくむのは土だけど、そのとき限りで土が駄目になろうと、それによって美しい花が咲けばそれでいいんじゃないんのって思えてしまいます。いい花を咲かせるために、どう土作りをすればいいのかということは大切だけど、「こんなに土がよくなりました」なんて、思わないでしょ。たとえば、私が子を育てどう親として育つか、ってことも、ほとんど考えたことがありません。確かに、子どもを持ったばかりは、みんなへたくそで知らないことだらけだろうけど、子への対処の仕方もわからないことだらけだろうけど、それができるようになったから、親として育ったなんてことは、どうでもいいことです。それって、自分の育て方への承認を求めてるだけのような気がしてしまいます。「こうやって育てたい」なんて、傲慢なことだし、一瞬一瞬変わっていく子どもの流れに逆らうことになってしまいかねない。自分の成長具合を考える時間があるなら、子の「今」を見ることに当てたほうがいい。子どもは親の自己実現や達成感のために育つわけではないはずでしょ。「育つ」というそれだけが独立してあるものであり、それは親の人生の実現とは関わりなくあるべきものだと思う。子は「その人」であり、まったく親とは別の人生なのだから。
人は次の世代が育つ手助けをする時だけ、「天」の役割のひとつを担うことができる。それだけで、いい。それを渡されただけで、いい、って思えるじゃん。
「よく育てましたね」という認定書なんて、もらわなくっていい。そんなものを目指さなくっていい。そうすると、「子」そのものが見えなくなってしまい、「よく育てる」ことだけを見てしまう。ご褒美や、承認がなくっても事を為すことが、「子」ではなく「大人」「親」ということではないのかと思う。
近況報告 昨日、うちの庭で転び、両足負傷中です。かっこわろし。
次回が最終回かな。このシリーズ。
どうも私には、子どもを親の自己実現や達成感のために育てている親に対しての抗議、若しくは今の教育制度に対する抗議としての記事にみえて仕方が無いのです。
今、私は娘の持っている良い点(親馬鹿はあります)を殺さず悪い環境を防ぐことに神経を集中させています。言うなれば、好奇心旺盛な子供らしさを出来るだけ保ってやりたいんです。
結局、その姿(寝顔なんかもそう)に癒される恩恵を受けたいだけかもしれません。
結局自分が一番可愛いんですね。
実は、
「愛情を受けていた」と
気がつくこともあるかも。
親は、問いかけられないと、自分が親であることを
忘れているかも。
親が自ら、親としての成長具合を考えることはないと思います。
パラドックスのようですが、
うさとさんの投稿で、
親として考える時間を得てしまったような・・・
抗議してる。わたし。抗議してます。
何を育てるか。
きっと、そんなことに答えはないんだよね。
けんちゃんの愛は伝わる。
だから、けんちゃんとこに問題はない。
でも、世の中に問題はある。だから、続く・・・
今日もおいでいただき、本当にありがとうございます。
親であることを忘れている。
いい言葉だなって思います。
ただ、愛するってことだよね。
「愛情を受けていたと気づくこと」
子を持って知る親の恩ということわざもありますよね。実は私にはそれが、なかなか感じられず、恩知らずな子どもで、そのあたりの感覚が欠落してるなって思ってます。
その代わり、それができない代わりに、明日生きる若い人のことを考える。それで勘弁してもらいたいと思っています。言い訳がましいですけどね。
貴重な意見、ありがとうございます。
子を育てるということも、人間関係のひとつであるのだから、当然、大人と子ども双方の係わり合いの中で成立します。その中で双方が変わっていくのは必然ですよね。だから、あきちゃんがおっしゃる「肯定」というのは大事だと思いますし、私の言い方を許していただけるなら「腹をくくって」育てることではないのかなって思います。私はこれだけのものだけど、精一杯生きてあなたを育てる、という姿を見せるのは大切だと私も思います。
育てるというのが、親の側から語られることが多いことが私には引っかかっているんですよ。「どう育てるか」ということが、「どう育つか」よりも多い気がします。「育てる」ということは、いつも子の立場から考えられるべきだと思ってるんです。
すみません。最近痛感してるんですが議論が苦手です。言いっぱなしです。ごめんなさい。
せっかくなんで、リンク掛けさせてもらいました。
おちょぼさんへは、僕もよく行きます。
ホテイアオイも是非行ってくださいね!穴場だと思いますよ♪
では、またお邪魔します。
今から思えばあの足でよく運転されたと、申し訳なさで一杯です。
子育てを終えた者としましては、悔いることばかりです。もう孫の代ですものね。
しかし子供というものは、随分昔のことを細かく記憶しているものだと驚くことがあります。何気なくしてあげたことが、あれほど感謝してくれていたのかとか・・・しかし、その逆もあるはずですが・・・
親にきいてみました。
「おかあさんにとって子育てって何?」
って。こたえは、
「娯楽かなあ」
でした。
ご訪問ありがとうございます。
私のところは、花もなかりけり、のところですが、
きていただけてうれしいです。
また、そちらで、花に安らがせていただきたいと思っています。よろしくお願いいたしますね。