暗い部屋の中で、ひざを抱え、一人うつむく子がいる。
わたしは尋ねる。
今のわたしは間違っていない?わたしはあなたが嫌いなことをしていない?
人はなぜ、悩んだり、つらい思いをするんだろう。
それはきっと、みんな、愛されたり、わかってもらったりしたいためじゃないかな。
夜中に騒音を立てて走り抜けていくあのバイクの少年も、道で殴りかからんばかりに誰彼かまわず毒づくあの青年も、長いこと自室にこもって親への恨み言を駆り返すあの子も、怪しいサイトで知った男にお札を握らされているあの子も。会社にいけなくなって公園に座ってるおじさんも、キッチンドランカーの主婦も。
はじめに有ったのは、もっと愛され、もっとわかってもらいたいということではなかったのか。
「愛」なんて書くのは、とても恥ずかしくって、陳腐だけれど、でも、本当はそういうことじゃないのかな。
「拒絶する心」は、「受け入れらることを求める心」から発しているというパラドクス。
大人も子どもも、心の底でそれを求めていて、満たされたいと願っている。ただ、大人はその心に折り合いをつけ、やっていくべき人だ。なぜなら、大人は「やめること」「違う場所に行くこと」ができる人たちだからだ。
大人は動物で、子どもは植物のようだなって思う。動物はそこに餌がなければ、餌があるところに移動ができる。でも、子どもは動けない。光や水が注ぐのをその場所で待っていなければならない。大人は引っ越したり、会社を辞めたり、離婚したりできるけど、子どもは一人では学校を辞めたり、違う親の子になったり、一人で部屋を借りたりできない。その点でわたしは「寄る辺ない存在」だと思う。
大人も子どもも愛を求める気持ちは同じだけれど、大人が子どもに求めるとき、それは子どもに重くのしかかる。「こんなに一生懸命あなたのためにやっているのにどうしてわからないの」「親だって、いやなことはあるんだから、わかってよ」「大人に向かって、その口のきき方はおかしい」「それがいやなら出て行きなさい」「親の気持ちもわかってね」というようなことは、どこかで、子どもの愛を求めてはいないだろうか。(当然、家族の有り方はいろいろなので、これらが全て、子どもに愛を乞うものでないことも多いとは思うが。)
大人は子どもよりは世慣れているので、うまく口に出すが、その底に、自己愛が勝つ気持ちがありはしないのか。「殴る」という行為にも、そんな子どもへの甘えがあるように思えてならない。「もっとわたしのことわかってよ」という気持ちがありはしないのか。
「子ども」の中の少なからぬ者たちはそれに耐えられない。「植物」な彼らはどこにも逃げていけないし、物理的には何もリセットできない。そんな人たちに、「大人」が愛を乞うのは、卑怯な仕業だとわたしは思う。「出て行けない」「殴り返せない」「期待に応えられない」子どもに、それは重すぎる。
悲しいことだけれど、世の中には、「愛を与える」のでなく、「愛を求める」大人が多く存在する。そんな中で、子どもは疲れ果てたり、自暴自棄になったり、さまよったりする。それが大人にはなかなかわからない。自分は子どものためにやっているし、わたしだってつらいんだし、と思ってしまうから。子どもが子どもである期間はそんなに長くはないのに。すぐに一人で動けるようになるのに。
「愛を求められた子」はどうなるだろう。動けぬ植物の身を持ちながら、心だけは大人になり、親の要求を聞き、いい子になって、「愛を与える」側を演じるかもしれない。いわゆる不良行為に走り「求められる」立場から降りようとするかもしれない。そうして、「愛を求める心」が宙吊りになる。満たされぬ思いを抱いて、「大人」になる。「大人」になった子どもたちは、自分の子に愛を求めるかもしれない。わたしはこんなにつらいから、わかってねって思うかもしれない。でも、そのメビウスの帯は、どこかで正しく繋ぎ直されるべきだと思う。
だから、わたしは問いかける。
本当は、思っている。子と接するなら、「大人」になりなさいと。やせ我慢でも、いい。心の中は子どものままで、愛されたいと思っていてもいい。ただ、子の前に立つとき、「与える人」になってほしいと。そうしてそれだけが、「大人」にとって満たされ、与えられることであると。「与えられる」ことだけが、満たされることではない。「大人」のあなたは、「与える」ことが満たされる方法である。降ってくるのを待っているのは、植物の仕事だ。だから、あなたは与える大人になってほしい。
(このシリーズ、わが道独走ですが、走れなくなるまで、書くしかないという気持ちです。走り終わったら、またもとの道に戻るつもりです。また、いろいろに読まれるのもいいなっと思っています。)
わたしは尋ねる。
今のわたしは間違っていない?わたしはあなたが嫌いなことをしていない?
人はなぜ、悩んだり、つらい思いをするんだろう。
それはきっと、みんな、愛されたり、わかってもらったりしたいためじゃないかな。
夜中に騒音を立てて走り抜けていくあのバイクの少年も、道で殴りかからんばかりに誰彼かまわず毒づくあの青年も、長いこと自室にこもって親への恨み言を駆り返すあの子も、怪しいサイトで知った男にお札を握らされているあの子も。会社にいけなくなって公園に座ってるおじさんも、キッチンドランカーの主婦も。
はじめに有ったのは、もっと愛され、もっとわかってもらいたいということではなかったのか。
「愛」なんて書くのは、とても恥ずかしくって、陳腐だけれど、でも、本当はそういうことじゃないのかな。
「拒絶する心」は、「受け入れらることを求める心」から発しているというパラドクス。
大人も子どもも、心の底でそれを求めていて、満たされたいと願っている。ただ、大人はその心に折り合いをつけ、やっていくべき人だ。なぜなら、大人は「やめること」「違う場所に行くこと」ができる人たちだからだ。
大人は動物で、子どもは植物のようだなって思う。動物はそこに餌がなければ、餌があるところに移動ができる。でも、子どもは動けない。光や水が注ぐのをその場所で待っていなければならない。大人は引っ越したり、会社を辞めたり、離婚したりできるけど、子どもは一人では学校を辞めたり、違う親の子になったり、一人で部屋を借りたりできない。その点でわたしは「寄る辺ない存在」だと思う。
大人も子どもも愛を求める気持ちは同じだけれど、大人が子どもに求めるとき、それは子どもに重くのしかかる。「こんなに一生懸命あなたのためにやっているのにどうしてわからないの」「親だって、いやなことはあるんだから、わかってよ」「大人に向かって、その口のきき方はおかしい」「それがいやなら出て行きなさい」「親の気持ちもわかってね」というようなことは、どこかで、子どもの愛を求めてはいないだろうか。(当然、家族の有り方はいろいろなので、これらが全て、子どもに愛を乞うものでないことも多いとは思うが。)
大人は子どもよりは世慣れているので、うまく口に出すが、その底に、自己愛が勝つ気持ちがありはしないのか。「殴る」という行為にも、そんな子どもへの甘えがあるように思えてならない。「もっとわたしのことわかってよ」という気持ちがありはしないのか。
「子ども」の中の少なからぬ者たちはそれに耐えられない。「植物」な彼らはどこにも逃げていけないし、物理的には何もリセットできない。そんな人たちに、「大人」が愛を乞うのは、卑怯な仕業だとわたしは思う。「出て行けない」「殴り返せない」「期待に応えられない」子どもに、それは重すぎる。
悲しいことだけれど、世の中には、「愛を与える」のでなく、「愛を求める」大人が多く存在する。そんな中で、子どもは疲れ果てたり、自暴自棄になったり、さまよったりする。それが大人にはなかなかわからない。自分は子どものためにやっているし、わたしだってつらいんだし、と思ってしまうから。子どもが子どもである期間はそんなに長くはないのに。すぐに一人で動けるようになるのに。
「愛を求められた子」はどうなるだろう。動けぬ植物の身を持ちながら、心だけは大人になり、親の要求を聞き、いい子になって、「愛を与える」側を演じるかもしれない。いわゆる不良行為に走り「求められる」立場から降りようとするかもしれない。そうして、「愛を求める心」が宙吊りになる。満たされぬ思いを抱いて、「大人」になる。「大人」になった子どもたちは、自分の子に愛を求めるかもしれない。わたしはこんなにつらいから、わかってねって思うかもしれない。でも、そのメビウスの帯は、どこかで正しく繋ぎ直されるべきだと思う。
だから、わたしは問いかける。
本当は、思っている。子と接するなら、「大人」になりなさいと。やせ我慢でも、いい。心の中は子どものままで、愛されたいと思っていてもいい。ただ、子の前に立つとき、「与える人」になってほしいと。そうしてそれだけが、「大人」にとって満たされ、与えられることであると。「与えられる」ことだけが、満たされることではない。「大人」のあなたは、「与える」ことが満たされる方法である。降ってくるのを待っているのは、植物の仕事だ。だから、あなたは与える大人になってほしい。
(このシリーズ、わが道独走ですが、走れなくなるまで、書くしかないという気持ちです。走り終わったら、またもとの道に戻るつもりです。また、いろいろに読まれるのもいいなっと思っています。)
なんとなく、話がループしているというか、前に進まないまま、ボキャブラリとレトリックだけが消費されているような印象を持ちました。
それは、うさとさんがご自身の立場を明らかにされていないことに起因するのだと思います。
うさとさんの筆者としての立場は、例えば次のうちのどれに該当するのでしょうか。
・親としてこういう経験をした
・子供の頃、こういう経験をした
・こういう親を身近に(または新聞記事などで)知っていて、問題を感じている
・こういう子供を身近に(または新聞記事などで)知っていて、問題を感じている
・こういう親子関係に共感する(または同情する)
・子供を育てるなら、こういう親でありたい/ありたくない
・こういう問題を感じるから、子供を育てたくはない
・自分は子供だ
・その他
(親という語は、大人と読み替えていただいても構いません。)
「あなたは与える大人になってほしい。」という文を読んでも、それが大人の立場で発せられたものなのか否かによって、ニュアンスが全く異なります。しかし、依然として、筆者の立場が不明なため(というより混乱しているため)、どういう意図をもったメッセージなのか、読者には理解することが出来ません。
前の記事で、コメントを書いているみなさんが、なんらかの形で、自分の立場を表明しているのに対し、うさとさんだけが、立場をはっきりさせず、または複数の立場を混同させながら、言葉を連ねているように見受けられるのです。
そのあたりを整理されると、記事を理解する助けになるのではないかと思います。
国語力が無い私が感じていることを見事に成文化してみえる。
うさとさんが抗議している対象が明確になってからと思い、静観しています。
うさとさん自身も表明して見えるように、自身で整理つくまで「続く」としているんだと思われます。
ご指摘ありがとうございます。
まったくそのとおりです。
自分でも迷走していると思っております。
その理由は、簡単なことですね。
お二人が指摘なさっているように、私が私を明かしていないからです。私の中で整理できていないのは、私を明かして書くべきなのかということです。
お二人が迷走する私の記事を忍耐強くお読みくださったことに感謝申し上げます。次回に少しは、はっきりした立場を書きたいと思います。
本当にありがとうございました。
皆さん、こんばんは。
うさとさんは、全員ではないけれども決して少なくない子どもたちに語りつつ、本当はご自身にも語りかけていらっしゃるのではないかなと思って読んでいます。
だから読み手に同じことの繰り返しに思える言葉も、うさとさんにとってはとても大切なことで、何度でも言葉にしなくてはならない必要なことなのではないでしょうか。
簡単に立場を表明することができたなら、こんなにたくさんの言葉も必要ないのかもしれない。でもそこに辿りつくために、うさとさんが必要な階段をのぼられている途中なんじゃないかなと思います。
私は今、次の記事を書いています。
きくさんの優しい言葉に、パソコンの前で、泣いてしまいました。
ありがとうございます。
この記事は,私がかつての塾生に宛てたメールと重なります。そしてそれはそのまま私にも重なるから彼を放ってはおけなかったのです。
逃げられないコドモ時代を過ごした記憶を持って逃げずにオトナになろうとすること。これが私の言う育てる(育つ)覚悟です。
うさとさん・・・・・・
私は当時のあなたの力にはなれなかった。私も私を生き抜こうとしていただけで,何もできなかった。今 それが悔しいし残念です。
Kenさんは上に書いていらっしゃるけれど,私は 画面の前で泣いている私は うさとさんの立場をきっとわかっているとおもいます。
新潟の雨はもうやんだんでしょうか。今宵は、清らかな風の吹く秋ですよ。日曜のテレビは早く終わってしまうので、今、おやすみなさいの音楽が流れています。
どこかで、だれかが、いるから、そう思えるだけでいいってこともあるよね。
だから、これでいいのだ。ね、かささぎさん。
大人になれというのは、むずかしいかも。
正しいかもしれないけど、やっぱり、難しい。
子どもは親から逃げられない、どんなに過剰な期待をかけられようと、罵倒されようと、虐待を受けようと、逃げられれば、決定的な悲劇的事件も起きなかったろうにと思うことも、毎日のニュースの中で繰り返されていますよね。でも、逃げ出せない子ども時代を何とか過ぎた人たちは、幸せな子ども時代を送った人より、大人になる権利がある。それも、満たされた大人になる権利がある。不幸な子どもが不幸な大人になるなんて、そんな不公平なことって、許せないでしょ?ね。