うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

旧ソ猫を We Shall Be Released

2022年03月14日 | ことばを巡る色色
雨音の激しい深夜、テレビで映画「チョコレートドーナツ」を観た。こんなに雨が降るなんて、もう春がやってきたんだな。
映画の最後、歌っていた。
any day now we shall be released

あるべき場所に 誰もがあるべきである。そのためには戦わなくてはならないのか。戦わなくとも、あるべき場所が許される世界というのは不可能なのか。私たちが捉われているものは何か。外の世界にも自分のうちのもある捉われ。自由というのはメビウスの帯のようで、自由を求めておこなったことが、いつしか自分を不自由にする。自分の自由を求めて選んだことが他者を不自由にする。そこはそれ、折り合いをつけていくのが肝要なのだろうが、折り合いをつけることで、これ、と思っていたものが見えなくなる。そこの大統領も主席もみんな自分も他者も be released しちゃえばいいのにね。


ウクライナの問題は私の域を超えており、どのように考えていけばよいかわからない。
分からない問題にあった時は、まず、違うものに当てはめて考えてみるしかない。たとえば、今のロシアは1900年代前半の日本で、となれば、ウクライナはアジアの國で。日本は国際的孤立の中で戦争をした。その時の日本の国民の心もちと今のロシアの国民を考えてみる。戦いを辞めるために多くの犠牲が出たけれど、あの時の日本で、戦いの始まりに正しい情報を持つものも、事の重大さに気づくものも多くはなかった。ロシアは自滅の道を歩んでいるという意見もあるが、そう思ってしまえばいくぶん気も楽であろうが、それまでには更なる人的犠牲が出るのだろう。
今日は中国がオリンピックを終えた1日目だ。
私は電気のついた部屋で考える人でしかない。できれば、暖かい部屋の中にいて、戦いたくないから、折り合いをつけたいからだ。
however, any day now we shall be released
コメント
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