理不尽で謀略の人であるおじに対抗するには、おじの家人であるおばからしか、方法はないのかもしれない。おじの飴と鞭のなかにいる人であっても、家人の支持がなければ、孤立するはずなのだろう。
家族の問題でも状況を変えていくには時間と数えきれぬ葛藤が必要であり、朝目覚めると問題が寛解しているなんてあり得ない。
どうしても従いたくないことなのに従わざるを得ないというのは、人の尊厳を踏みにじることだ。選択の余地もなく、説得の会話もなければ、それが蹂躙というものだ。
そんな時に名ばかりのものであれ、会って話すことは徒労なのだろうか。
もう十分苦しんだのだから、という審判が下されることはなく、天は沈黙し、音のない街に爆音が響く。
かつての、息もできぬほど苦しかった時も、誰も もう十分だ とは言ってくれなかった。
誰が誰に もう十分だ といえばその声は効果を持つのだろう。