うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

1990's

2021年04月17日 | ことばを巡る色色
若松武史の訃報を知る。
ふと思い出して、今週、「エンジェルダスト」を検索したばかりだ。若松は、あの映画の中で、ぼそぼそと聞き取りづらくセリフを語る洗脳者だった。
「エンジェルダスト」は恐ろしい映画だ。どれもこれもが、しばらく後に起こるオウム真理教を思わせるものだったからだ。どんな偶然があれば、先に起こるであろう事件を暗示するようなものが作れてしまうのか。遠くのトライアングルを共鳴させる時代の振動があったのか。村上龍氏の「インザミソスープ」と猟奇事件、「エクスタシー」と角川春樹。1990年代の、穏やかならざる空気。地面に横倒しになった高速道路。神戸の映像はなかなか届かない。地下鉄の駅の救護テント。あの日は底冷えのする朝だった。中学生から事情を聞いているというテロップ。サティアンと呼ばれる建物に入っていく機動隊。籠のカナリア。東電ОL。翻弄される日本。罪なき人に対する、有罪であると思い込む人による妄想の私刑。
あれから四半世紀が過ぎた。妄想の人は覚めず。私にとっては前世紀末であるが、誰かにとっては今も続く時でもあることを忘れてはならない。
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予め失われた

2021年04月17日 | ことばを巡る色色
清水邦夫が死んだ。
彼の作品はいろいろ知っているし、見たことがある。その中に「あらかじめ失われた恋人たちよ」というのがあり、最近、何度か、ふと思い出していた。何をかと言えば、「あらかじめ失われる」ということについてである。清水邦夫の訃報に、この映画のストーリーを読んでみたが、全く覚えていなかった。確かに見たはずなのに。でも、最近、特に、「あらかじめ失われた」ことについて、考えている。
(失われる)ためには、その時点で、(所有している)はずであるのに、{あらかじめ}つまり、前もって、前々から、{既に失われている}というのが、このフレーズである。映画を見たころには、それについて、リリックな題名だな、っと思うだけで特に考えはしなかった。それから何十年もたったのに、今はこの言葉が気にかかる。(あらかじめ持っていなかったもの}なのに、(あらかじめ失われた)と述べることとは何か。本来はあるはずのものであるのに、それが欠落しているということであるのだろう。(与えられるはず)であり、(与えられるのが人としての当然の権利であるもの)が(失われ)、(奪われている)ということ。
こうも考える。経済低迷のこの時代の若者たちは、それ以前の若者より、(あらかじめ失われて)いるのかもしれないと。でたらめなバイタルの発散さえもが、奪われているのかと。
映画のストーリーを読むと、恋人たちが聴覚を失っているという意味であろうと考えられもするが、私たちは、「あらかじめ失われている」のかもしれぬと思う。それが、私にとって何か、それぞれの人にとっては何かが、映画の恋人の聴覚のようにはっきりわかっていれば、むしろ話は簡単なのだが、私たちは、自分であらかじめ失われているものが何かを知らない。しかし、誰しも(あらかじめ失われて)いるのだ。それを人生をかけて探してみたり、獲得してみたり、不要のものと思ったりするのだ。(あらかじめ失われた)状態で生まれてこなければならない赤子である私たちは。
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