うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

Re: 秋歌

2006年10月08日 | お出かけ
>枯れた葉を くるりくるり うらおもて どちらかこたえよ ほんとうのうそ

うらになり おもてになりて 散るひと葉 信じてみたまえ きみはきみなり
 
>枯れるとは 死の意とフランスの 辞書は言い 死を踏み歩く 木枯らしの道
       
 われをよび われを束ねる 手のありて 引かれるもよし 引かれぬもまたよし

>死にいくと 死に後れると ねえ君よ どっちが怖い? どっちを選ぶ?

 楼閣の 高き櫓に われ一人 こころえて見よ 強かぜ吹くとも 

昼間に沢山眠ってしまったので、いつになっても眠くならない。だから私は「検索」を繰り返し、真夜中に福澤桃介と川上貞奴と福澤房子とをぐるぐると巡り、中電と大同と慶応と川上絹布と名鉄ととをぐるぐる廻り、と森村市右衛門の森村組のノリタケの大倉がヒットして。ただ、私は最近公開された川上別荘を見たいなって思っていただけなのに。新聞を取りに外に出ると、仲秋の名月はとっくに消えて、ひんがしはみかん色の朝焼け、西は夜中の星。きらめく星。また昼がやってきて、私はぼんやりとした頭を振りながら、友と貞照寺にいった。今、川上貞奴の別荘は結婚式場になっている。その横にあるという「晩松園」は木立に隠れて見えない。まだ日本のほとんどが世界の形を知らない時に西洋に出かけていった燦然たる彼女さえ、私財を投じても祈りたいことがあるんだね。対岸から見る川上別荘。新しい塗料に埋もれている。いつか私をその中に招き入れてください。ここは大正から「日本ライン」と名づけられている。彼女の別荘はローレライのそのあたり。
犬山城はその川下にある。天守閣から北を望むと、河風がぴゅーんと体を揺らす。
思いを込めて建てた人も、其の柱を建てた手も、今はこの世にない。その「家」を愛した人も、持てる技の全てを傾けた人も今はいない。残っているのはただ、「もの」だけなのだなあ。何かに執着するということはなんだろうと思う。それは執着していることに執着することなのかもしれない。ルーブル展のヴィーナスを見たときに思ったことだ。作家も、注文手もモデルも、戦場でそれを奪取して手柄を立てた兵士も、寝所に異国の像を飾り己の栄華に酔った英雄も、誰も誰も今はいない。残っているのは像だけだ。像だけが心を伝える。作家の、注文手の、兵士の、英雄の。執着するということは執着した心を物に託すということなのかもしれない。そういう形でしか私たちは残れないのかもしれない。
コメント (6)
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