**************************************************************
「群玉堂米帖(ぐんぎょくどうべいじょう)」
-米芾(べいふつ)の書を収録-
群玉堂米帖は、南宋の宰相韓侂冑(かんたくちゅう、 ~1206年)の家蔵
の書跡を刻して法帖としたもので全十巻からなるが、この法帖は、もとは
「閲古堂帖」と呼んだが、後に原石が群玉堂に置かれたので「群玉堂帖」
と改名されたという。
群玉堂帖には、南宋皇帝の書や懐素千字文、蘇軾帖、黄庭堅帖、米芾帖、
蔡襄・石延年帖他の著名な人物の書跡を収めてあるが、この中の第八巻
が米芾(べいふつ)の書を収録する「米芾帖」である。書の至宝展に展示さ
れている二種の米芾の帖はいづれも日本国内に現存するものである。
「群玉堂米帖」
******************************************************
<草書>
これは、巻八の上冊に当たる部分で、「好事家・・・」で始まる「草書」である。
右端に「閲古堂」と書いてある時代のもので、五島美術館所蔵である。これ
以外の部分もあるが、ここでは掲載を省略した。
*************************************
<行書>
これは巻八の下冊にあたる部分で、「学書貴弄/翰謂把」で始まる「行書」で
ある。こちらは、右端に「群玉堂米帖」と書いてあるので、閲古堂から群玉堂
に移された以降に奥書されたものと思われる。五島氏の寄贈により東京国立
博物館所蔵となっている。
上記の右端に「群玉堂米帖」と書いてあるが、その上の方に細かい文字が
見える。ここには、原石に向若水(こうじゃくすい)(という当時の名人)が刻
したこと、宰相韓侂冑が罪に問われて失脚し原石は秘書省の群玉堂という
ところに移されて「群玉堂帖」と改名したこと、第八巻は米元章(米芾)の行
書であることが記されている。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
ついでながら、寧宗皇帝時代の宰相であった韓侂冑(かんたくちゅう)
は専横を極め、人気挽回のために「金」との戦を仕掛けて逆に敗北し
自国民に暗殺された。あとを継いだ宰相はその首を「金」に送りつけて
和睦したという。いつの時代も「専横」はよくない結果を齎すものだが、
権力を握った人物の器量が狭く、それをセーブ出来る人物がいないと
恐ろしい結果となる。
現代の日本でも、IT業界とか、建築業界に問題が顕在化しているが、
その他の分野においても、他山の石として肝に銘ずる必要がある。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
この書は上の三帖と別の時期の書である。
************************************************************
<感想>
ー 「行書紅県詩巻」「多景楼詩冊」「行書三行」とくらべて ー
先に「行書紅県詩巻」「多景楼詩冊」「行書三行」で米芾(べいふつ)の
書を見たが、そのうちの「行書紅県詩巻」は最晩年の「枯淡」の行書で
あるから除くとして、似たような力感の見られる「多景楼詩冊」「行書三
行」と比べても、今回の「群玉堂米帖」の書き方はかなり異なる。
<「行書紅県詩巻」・「多景楼詩冊」>を見る
<「行書三帖」>を見る
米芾にとって、身体的にも精神的にも、最も充実した時期の作品ではな
いだろうか。一行に三文字と四文字が交互に巧みにバランスよく入って
いたり、渇筆と力強い潤筆がこれも巧みに使い分けられていること、横
棒の線が長く力強いこと(学、書、貴、弄、筆、手、真、所・・・)、豊潤な
文字(学、翰、謂、軽、然、天、真、以、人、妙、古、老、馬、其、沈、傳)
などから、四十歳代の中頃から後半の書ではないかと思われる。
三十歳代の時のように奇をてらう気配は見えないが、熱っぽく、力強さ
と自信に溢れたところが目立ち、その心の状態が表現に顕れているよ
うに見える。先の「紅県旧題」の「行書紅県詩巻」のときよりもかなり以
前の作品であろう。
米芾(べいふつ)の時代時代の移り変わりが見えて、非常に楽しく、又、
大変勉強になる書跡である。
************************************************************
(「米芾(べいふつ)」はこれでおわり)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます